ルコルビュジエの功績
功績1「近代建築の三代巨匠」
ルコルビュジエはフランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築の三代巨匠と呼ばれています。
フランク・ロイド・ライトは豊かな人間性の保証と、自然との調和を追求した建築である「有機的建築」の提唱者です。代表的な作品は、アメリカにある「タリアセン・ウエスト」で、世界遺産に登録されています。日本の「帝国ホテル」もロイドが手がけました。
ミース・ファン・デル・ローエは「ユニバーサル・スペース」を提唱した建築家です。「ユニバーサル・スペース」とは柱や梁により作られた均質な空間のことで、人々がその空間を自由にデザインできる仕組みとなっています。代表建築は「ファンズワース邸」です。
また、この3人にヴァルター・グロピウスを加えて、「近代建築の四大巨匠」と呼ぶこともあります。
功績2「画家としても活躍」
ルコルビュジエは生涯に多数の油絵も残しています。ともに雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を刊行した画家のアメデエ・オザンファンから油絵の描き方を教わり、2人で「ピュリスム」という概念を提唱しました。
「ピュリスム」とは、戦争中に失われたフランス文化の「秩序や合理性」を取り戻し、「構築や物質のまとまり」を重視した芸術を生み出そうという思想です。ピュリスムでは形が主役のため、色は比較的淡い色が用いられました。
功績3「世界遺産に数多くの作品が登録される 」
ルコルビュジエの作品群が「ルコルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」として2016年に世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいと思います。東京上野にある「国立西洋美術館」もその中に含まれました。
登録されたのは全部で17件で、代表作である「サヴォア邸」、「ユニテ・ダビタシオン」、「ロンシャンの礼拝堂」なども選ばれています。特に、晩年に設計された「ロンシャンの礼拝堂」はそれまでのモダニズム建築の概念を超えた作品として評価されました。
ルコルビュジエの名言
「平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動も立体も脈絡もない。
ルコルビュジエの建築は平面を多く用い、シンプルな構造をしています。「サヴォア邸」や「国立西洋美術館」からもその信念を伺うことができます。ルコルビュジエは生涯を通じて合理性や機能性を求めたのでした。
「住宅は住むための機械である。」
こちらは1923年にルコルビュジエが出版した「建築をめざして」の中に記載されていた言葉です。当時の建築家たちからは注目を集めることになりました。この言葉からもルコルビュジエが建築に合理性や機能性を求めていたことがわかります。
「家は生活の宝石箱でなくてはならない。」
この言葉は、「住宅は人にとって住みやすい環境を提供しなければならない」と言い換えることができると思います。あくまで主体は人間であって、建築は人に対して心地よいものでなければならないというルコルビュジエの考えを示しています。
ルコルビュジエにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「家具のデザインもしている」
ルコルビュジエは家具もデザインしており、いまだに人気は衰えていません。その外観は建築のような計算された美しさを表しており、そのフォルムは使いやすさと美しさのバランスを計算し尽くして作られています。
ルコルビュジエの家具の中で人気となっているのは「LCシリーズ」です。その中でも「シェーズロング」は「世界最高デザインの休憩椅子」と称されています。本革とステンレスで構成されており、使用する人によって、細かい幅のベルトが体重を分散させるため、どの人にとっても使い心地の良い椅子となるのです。
都市伝説・武勇伝2「独自の尺度『モデュロール』の発表」
「モデュロール」はルコルビュジエが提唱した建造物の寸法のことです。人間の寸法、黄金比、フィボナッチ数列を用いて理想の建物の構造を割り出し、世界に向けて発表しました。ちなみに人間の寸法の参考として用いられたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」です。
日本では丹下健三という建築家が、ルコルビュジエの「モデュロール」を元に、日本版の「モデュロール」を作成しました。丹下健三は「広島平和記念公園」、「東京都庁」、「フジテレビ本社ビル」などを手がけています。
ルコルビュジエの簡単年表
1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンという街でルコルビュジエが誕生します。父・エデゥアールと母・マリーの間に次男として生を受けました。父は時計職人、母はピアノ教師をしていました。
小学校を卒業した後は地元にある美術学校へ入学します。父の後を継ぐために時計装飾を学びました。
美術学校高等科へと進学し、建築に興味を持つようになります。18歳の時には、建築家ルネ・シャパラの協力を受けながら「ファレ邸」のデザインを担当しました。
「ファレ邸」を手がけた後は、フランスのパリへと移り、オーギュスト・ペレの事務所に所属することになります。
1911年にはドイツ、トルコ、イタリアなどへの旅を敢行し、故郷のスイス、ラ・ショー=ド=フォンへと戻ります。そして、故郷の美術学校で講義を行うようになりました。
鉄筋コンクリートの先駆者、ペレの事務所での経験を生かし、住宅建設方法の一種である「ドミノシステム」を発表します。
ラ・ショー=ド=フォンで邸宅の建設を行ったあと、フランスのパリに定住することになります。自分のアトリエを構え、鉄筋コンクリート会社の顧問として仕事を引き受けるようになりました。
この頃、オーギュスト・ペレの紹介により、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックらと会見しました。その後、自身初の油彩画である「暖炉」を製作します。
詩人のポール・デルメ、画家のオザンファンとともに「レスプリ・ヌーヴォー」という雑誌を創刊します。ルコルビュジエの本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリでしたが、この時にペンネーム「ルコルビュジエ」を使用するようになりました。
3年間「レスプリ・ヌーヴォー」に掲載してきた記事をまとめて「建築をめざして」という一冊の書籍にします。これが建築家の間で話題となりました。
1925年に開催されたパリ万国博覧会にて、装飾の少ない、シンプルな外観の「レスプリ・ヌーヴォー館」を設計・展示しました。この年にはパリを超高層ビルで埋め尽くすという都市計画「ヴォアザン計画」を発表します。
ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどともに近代建築国際会議(CIAM)を設立しました。以後、CIAMは近代建築の世界的な規範となります。
モデルであったイヴォンヌ・ガリと結婚します。ガリとは1922年に出会い、そこから8年に及ぶ交際を実らせての結婚でした。そして、ルコルビュジエはこの年にフランス国籍を取得します。
ルコルビュジエの「近代建築の5原則」の理念をわかりやすく反映した「サヴォア邸」を建設しました。「サヴォア邸」はルコルビュジエの代表作として今も語り継がれています。
今までの功績を讃えて、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章」が贈られました。
「モデュロール」とはルコルビュジエが提唱した建築物の理想の寸法のことです。この理論に用いられたのは人体の寸法、黄金比、フィボナッチ数列でした。
1914年に発表した「ドミノシステム」に基づいた建築物「ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)」の建設を開始します。
これまでの業績を評価され、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール章」を贈られました。コマンドゥール章は15年前に受けた章(シュヴァリエ)のさらに上のランクの勲章です。
ルコルビュジエの代表作の一つである「ロンシャンの礼拝堂」を竣工しました。今まで主張していた機能性や合理性を求めた建築とは一線を画し、鉄筋コンクリートによる自由な形を表現しています。
ルコルビュジエは1955年に東京を訪れ、国立西洋美術館の建設計画を立てます。4年の歳月をかけて建設が進められ、1959年に開館することとなりました。
レジオン・ドヌール勲章でさらに上位ランクの称号を与えられました。この年にはジュネーヴ大学から名誉博士号ももらっています。
レジオン・ドヌール勲章で最高ランクのグラン・クロワの称号を授かります。この時に受章式を行ったのはフランス文科相で小説家のアンドレ・マルローでした。
8月、南フランスにて海水浴中に心臓発作を引き起こし、帰らぬ人となってしまいます。享年78歳でした。