ル・コルビュジエとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表建築作品や都市計画、名言、死因についても紹介】

ルコルビュジエの年表

1887年 – 0歳「スイスにてルコルビュジエの誕生」

ルコルビュジエの生まれた時計の街 ラ・ショー=ド=フォン

スイスの時計の街にてルコルビュジエが生まれる

ルコルビュジエは1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンにて誕生します。ルコルビュジエの本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリで、父親は時計の文字盤(エナメル盤)職人のジョルジュ、母親はピアノ教師のマリーでした。

ルコルビュジエは小学校を卒業すると、地元の美術学校へと進学しました。父親の後を継いで時計職人になる夢があったので、時計装飾について学びます。しかし、ルコルビュジエは視力があまりよくなかったために、夢を断念し、他の目標を探すことになるのでした。

1907年 – 20歳「人生初の設計」

ファレ邸

初の建築「ファレ邸」の設計を手がける

地元の美術学校を卒業すると、美術学校の高等科へと進学します。そこで出会った恩師シャルル・レプラトゥニエによって建築への道を勧められ、建築科への興味を持つようになりました。レプラトゥニエと親交のあった建築家のルネ・シャパラとともに、初の建築となる「ファレ邸」の設計を手がけることになります。

その後、オーストリアのウィーンで「ストッツァー邸」、「ジャクメ邸」の設計も手がけます。そして、オーギュスト・ペレの事務所に所属することとなり、製図工として働き始めました。

1914年 – 27歳「建築法の一種『ドミノシステム』の発表」

ドミノシステムによる建築

ペーター・ベーレンスのアトリエで働く

1909年には設計を担当していた「ストッツァー邸」、「ジャクメ邸」が完成します。1910年にはドイツに装飾芸術を学びに出向き、「ドイツの装飾芸術運動について」という研究を発表することになります。その後、ベルリンにアトリエを構えていたペーター・ベーレンスの元で働くことになり、ここで、長年親交を持つようになるミース・ファン・デル・ローエと出会うのでした。

1912年には両親のための邸宅「ジャンヌレ・ペレ邸」を手がけ、1913年には水彩画の展覧会「石の言葉」を開催します。

「ドミノシステム」の発表

デッサンの教師の資格を取ったルコルビュジエは故郷ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教師として働くようになりました。そして、そのかたわらで「ドミノシステム」の研究を開始します。「ドミノシステム」は鉄筋コンクリートによる住宅建設方法で、のちの「ユニテ・ダビタシオン」にその手法が用いられています。

パブロ・ピカソ

「ドミノシステム」のさらなる深掘りをするために、1917年にはフランスのパリへと移住し、鉄筋コンクリート会社に勤めるようになりました。この時期にオーギュスト・ペレの紹介により、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックと面識を持つようになります。

1920年 – 33歳「雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」の刊行」

レスプリヌーヴォー

友人の画家や詩人とともに雑誌「レスプリヌーヴォー」を刊行する

1920年に画家のアメデエ・オザンファン、詩人のポール・デルメらとともに雑誌「レスプリヌーヴォー」を創刊します。「ルコルビュジエ」というペンネームを使用しだしたのはこの時からでした。

1923年には「レスプリヌーヴォー」に3年間に渡って掲載してきた記事を一冊にまとめて書籍「建築をめざして」を出版します。この本の中に記された「住宅は住むための機械である」という言葉は世界中の建築家の間で物議をかもしました。

パリ万博で「レスプリヌーヴォー館」を展示

1925年に開催されたパリ万国博覧会(アール・デコ博)にて「レスプリヌーヴォー館」を展示することになりました。「レスプリヌーヴォー館」は外観の装飾がほとんどなく、シンプル過ぎる見た目のため、観衆の注目を集めることになります。

レスプリヌーヴォー館

また、この時期には都市計画を唱える書籍を多数出版しており、代表的なものとして「300万人の現代都市」、「ヴォアザン計画」、「輝く都市」があります。1926年には「新しい建築のための5つの要点」を発表しました。

1928年 – 41歳「近代建築国際会議(CIAM)を創設」

近代建築国際会議(CIAM)

ミース・ファン・デル・ローエらとともに近代建築国際会議(CIAM)を開催

1928年にヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらとともに近代建築国際会議(CIAM)を設立・開催し、主要メンバーとして会を進行します。CIAMはのちに近代建築の中で重要な位置を占めるようになり、近代建築活動の拠点ともなりました。

この年には「サヴォア邸(ルコルビュジエの提唱した近代建築の5原則が全て高い完成度で実現されている代表作)」の建築計画が開始されており、3年の歳月をかけて、1931年に竣工されています。

モデルのイヴォンヌ・ガリと結婚

イヴォンヌ・ガリ ルコルビュジエ作

パリでファッションモデルをしていたイヴォンヌ・ガリと1922年に出会います。南フランス生まれで、目が大きく、鼻の形もきれいであった彼女はルコルビュジエの絵のモデルとしても多数登場しています。

出会ってから8年後の1930年に2人は結婚することになりました。イヴォンヌ・ガリは料理が得意で、勝気な女性だったようです。ルコルビュジエは尻に敷かれていたのではないかという逸話も残っています。2人の間には生涯を通じて子供はいませんでした。

1937年 – 50歳「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章」

レジオン・ドヌール勲章

レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエをフランス政府より贈られる

今までのルコルビュジエの業績を讃え、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」の称号を与えられます。レジオン・ドヌール勲章はナポレオンによって1802年に制定されたフランスの栄典制度で、フランスの最高勲章としてとらえられています。

北野武 レジオン・ドヌール勲章受章

階級としては1等から5等まであり、シュヴァリエは5等です。日本人でも受章した人は数多くいます。有名な人物では北野武(オフィシエ:4等)、黒澤明(コマンドゥール:3等)、安藤忠雄(シュヴァリエ:5等)などが受章しました。

建築物の理想の寸法とする「モデュロール」の研究を開始

モデュロール

ルコルビュジエの研究の中でも特に有名な「モデュロール」の研究が1943年(56歳)から開始されます。「モデュロール」とは黄金比、フィボナッチ数列を用いて、人間にとって理想となる建物の寸法を示したものです。

マルセイユのユニテ・ダビタシオン

また、ルコルビュジエ自身が1914年に提唱した「ドミノシステム」を、33年の歳月を経て採用した建造物である「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」の建設を開始します。後年にはパブロ・ピカソもこの建物の見物に訪れることになりました。

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