アンディウォーホルの年表
1928年 – 0歳「アメリカ・ペンシルベニア州でアンディウォーホルの誕生」
ピッツバーグにてカトリック教徒の両親の元に生まれる
アンディウォーホルはアメリカ・ペンシルベニア州のピッツバーグという街で生まれます。両親はチェコスロバキアからの移民でルシン人の父・アンドリューと母・ジュリアでした。ウォーホルは3人兄弟の3番目で、上に2人の兄がいました。
ルシン人であった両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒のため、毎週のように教会へ通う習慣がありました。ウォーホルはこの経験から、生涯を通じて教会へと通うようになったのです。
父の突然の死
炭鉱で働いていた父・アンドリューがある日、体に有害な物質を含む水を飲んでしまったことにより、突然帰らぬ人となってしまいます。残された母・ジュリアと3人の兄弟は悲しみに暮れました。その後は母の手一つによって育てられることになります。
1945年 – 17歳「カーネギー大学で美術を学ぶ」
地元の高校を卒業後、カーネギー工科大学へ
ピッツバーグにあるシェンリー高校に通っていたウォーホルは大学資金と家計援助のためにアルバイトをしていました。貯めたお金でカーネギー工科大学への進学を決め、美術を専攻します。そして、1949年に美術博士号を取得し、卒業しました。
大学卒業後は女性誌のアート・ディレクターと接点を持ったことをきっかけに連載記事の挿絵を担当することになりました。この頃から「アンディウォーホル」と名乗るようになります。
有名アーティストのレコードジャケットをデザイン
雑誌に挿絵を提供し続けてから約1年後に有名雑誌「ヴォーグ」などの広告デザインを任せられるようになります。1950年代は広告デザインを主な活動として行い、高級デパートや企業の商品などの広告デザインを手がけていくようになりました。
また、ケニー・バレルや、テネシー・ウィリアムスなどのレコードジャケットの挿絵も依頼され、デザインを担当しています。
1951年 – 23歳「『アート・ディレクターズ・クラブ』の最優秀新聞広告賞を受賞」
CBSのラジオ番組の広告イラストを手がける
当時、アメリカでは麻薬がはびこっており、それに問題提起をするラジオ番組「Nation’s Nightmare」の広告デザインを依頼されます。麻薬問題に喝を入れる作品を作るために、男の人が自分の腕に薬を注射する直接的な表現を用いました。
このデザインがアート・ディレクターズ・クラブの審査員の目に止まり、その年の最優秀新聞広告賞を受賞することになったのです。
「ブロッテド・ライン」という手法を開発
アンディウォーホルと言えば、「シルクスクリーン」による作品の大量生産が有名ですが、その先駆けとなる「ブロッテド・ライン」という技法をこの頃に確立しています。
「ブロッテド・ライン」とは吸水性に優れた紙と撥水性に優れた紙の2種類を使用します。撥水性の紙の上にインクをライン状に乗せていき、その上に吸水性の紙を重ねてインクを染み込ませる手法です。この手法が大量印刷へのヒントとなっていくのでした。
1960年 – 32歳「ポップアートの世界へ」
広告の仕事を続けながらポップアートの世界へ徐々に進出
ウォーホルは仕事での人間関係に疲弊し、デザインの作業も手につかなくなる時期がありました。そこから次なる道を模索し、マンガを基調としたデザインへと趣向を変えていきます。そこで、ロイ・リキテンスタインのポップイラストに衝撃を受けたのでした。
その影響から、ポップアートの世界へと飛び込み、1961年、「キャンベルのスープ缶」をモチーフにしたポップアート作品を発表するのです。
「シルクスクリーン」による大量生産
1962年には大量印刷技術である「シルクスクリーン」を利用して「マリリン・モンロー」や「エルビス・プレスリー」などの作品を手がけるようになりました。ここから2年間で約2000点もの作品を制作していくのです。
そして、自分のアトリエとなる「ファクトリー」も開設します。ここにはローリング・ストーンズのミックジャガーや小説家のカポーティなどが集まり、主な作業場として入り浸るようになるのでした。
1967年 – 39歳「アルバムジャケット「バナナ」のデザイン」
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファーストアルバムをデザイン
1965年にウォーホルとヴェルヴェット・アンダーグラウンドは出会いました。そして、ウォーホルがデビューアルバムのプロデュースを担当することになります。1967年に、モデルのニコを加えて、ファーストアルバムとなる「The Velvet Underground & Nico」を発売し、そのジャケットに「バナナ」を採用したのでした。
当初はあまり売れませんでしたが、のちにジャケットのデザインが話題となったことをきっかけに再評価されることになりました。
ファクトリーでの狙撃事件
1968年6月3日にウォーホルは狙撃事件に巻き込まれます。男性抹殺協会に所属しており、ウォーホルの「ファクトリー」にも頻繁に出入りしていたヴァレリー・ソラナスが、ファクトリーに侵入し、3発の銃弾を発したのです。
そのうちの1発がウォーホルに命中し、内臓を貫通したため、重体となり病院へと運ばれました。ウォーホルは一命を取り止めましたが、大きなショックを受けることになりました。
1970年 – 42歳「雑誌「ライフ」に「1960年代に最も影響力のあった人物」として選ばれる」
1960年代に最も影響力のあった人物に選出
アメリカの雑誌「ライフ」が発表した「1960年代に最も影響力のあった人物」にアンディウォーホルが選ばれました。ウォーホルのほかにはビートルズなども名前を連ねました。
1970年代はローリングストーンズのアルバムジャケットや「毛沢東」のポートレート、「モハメド・アリ」、「ペレ」などの作品を発表し、1974年には日本で「アンディウォーホル大回顧展」も開催しました。
自伝本の出版
1975年にはアンディウォーホルの自伝となる「僕の哲学(The Philosophy of Andy Warhol: From A to B and Back Again)」を出版します。今までのウォーホル自身の半生を自らの言葉でつづりました。
1970年代後半から1980年代にかけてはテレビなどのメディアに出演するようになっていきます。ファッションショーやCMなどにも登場し、1983年には日本の「TDKカセットテープ」のテレビCMにも出演しました。
1987年 – 58歳「アンディウォーホルの死去・死因は心臓発作」
晩年の作品活動
1980年代はアーティストのアルバムジャケットや雑誌の表紙デザインを手がけることが多くなりました。
1982年にはダイアナ・ロスのアルバム「シルク・エレクトリック」のジャケット、1983年にはラッツ&スターのアルバムジャケット、1984年には「TIME」誌の表紙にマイケルジャクソンのポートレート、1986年にはジョンレノンの未発表曲を収録した「メンローヴ・アヴェニュー」のジャケットをデザインしました。
ウォーホルの代表作としてはジョンレノンの肖像画が最後となりました。
胆嚢炎術後の療養中に帰らぬ人に
ウォーホルは1987年2月20日に胆嚢炎のためニューヨークのコーネル医療センターへ入院することになります。翌日に手術を受け、順調に回復しているように見えましたが、2月22日の午前6時頃に容体が急変します。
その後、懸命に治療を施されましたが、その甲斐も虚しく、心臓発作にて帰らぬ人となったのです。ニューヨークの聖パトリック大聖堂で行われた追悼式には多くのファンが押し寄せました。墓地は故郷のペンシルベニア州ピッツバーグの聖ヨハネ・バプテスト・カトリックに設けられました。
アンディーウォーホルの歴史がよくわかりました。
ありがとうございました。
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