功績2「ポップアートの巨匠」
ポップアートは現代社会における大量生産・大量消費をモチーフとして作品を作る芸術運動のことです。もともとは1950年代にイギリスで誕生したアートですが、それをアンディウォーホルが世界的に広めていったのです。
1950年代はジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義が主流でしたが、その後に出てきた芸術家が廃棄物などや単なる数字などをアートとして表現するようになります。
そして、1960年代に入るとロイ・リキテンスタインとアンディウォーホルが、魅力的でわかりやすい、ポップな絵柄を大量生産し、ポップアートとして位置付けたことで大衆に広く受け入れられたのでした。
功績3「映画の製作も手がけた」
アンディウォーホルは生涯に60本以上の映画制作を行っています。1963年から制作を手がけていましたが、実験的な意味合いの作品が多かったため、最初の公開作品は1966年の「チェルシー・ガールズ」でした。この作品は全米で公開され、大ヒットを記録します。
その後、日常的な行動をテーマとした映像を制作することを思いつき、ひたすら眠り続ける男を6時間撮り続けた「Sleep」という作品を発表します。1970年代には「処女の生血」などのホラー作品を手がけるようになりました。
ウォーホルが受けた影響・与えた影響
ウォーホルが影響を受けた人物
アンディウォーホルは同じくアメリカ・ポップアートの第一人者であるロイ・リキテンスタインの絵に影響されて、ポップアートの世界へと入りました。リキテンスタインはコミックをアートへと昇華させた最初の人物です。
また、この2人のポップアーティストを見出した画商レオ・カステリの存在も忘れてはいけません。漫画の1コマを拡大して印刷ドットまで描いたリキテンスタインの作品に最初に注目したのがカステリでした。その後カステリのスタッフからリキテンスタインの作品を見せられたウォーホルは、リキテンスタインがやっていない方向性を見出そうと決意し、その結果「量」と「反復性」を重視する作品が生まれたのです。
ウォーホルが影響を与えた人物
ウォーホルが影響を与えた人物はたくさんいます。ウォーホルがファーストアルバムのプロデューサーを務めたヴェルヴェット・アンダーグラウンドはそのジャケットのデザインもウォーホルが手がけており、この2者が出会っていなければ、バンドのメジャーデビューはなかったかもしれません。
「ファクトリー」に出入りしていた小説家のカポーティやモデルのニコ、女優のイーディ・セジウィックなども、良い悪いは別にして、ウォーホルから影響を受けた人たちです。
そして、1980年代に活躍するアーティスト、バスキアもウォーホルの影響を大きく受けることになったのでした。ZOZOTOWNの前澤社長がコレクションしていることでも話題になった人物です。
アンディウォーホルの名言
「考えは豊かに、見た目は貧しく」
アンディウォーホルは美術史上、誰も考えつかなかったアートを確立しました。このように考え方が豊かでありながら、自身は奇抜なファッションなどはせず、黒を基調とした服装が多かったようです。内面を豊かに、外面は頓着せずという考えはどの時代にも大切だと思われます。
「誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。」
ウォーホルの活躍した時代はテレビなどが台頭し、様々なスターが生まれました。それまでの時代では考えられないスピードで華々しい活躍をする有名人が増えたのです。その状況を考慮して、これ以後の世界では誰もが有名になれる時代が来ると説いています。
「退屈なことが好きなんだ」
ウォーホルがモチーフとした対象は誰もが知っているような事柄でした。それらをアートと考えなければただの退屈な物で終わっていたでしょう。ウォーホルはそれをアートととらえたことで、世間に衝撃を与えたのでした。
ウォーフォルの名言はいくつもあり、上記以外に10個の名言を発言意図と共に紹介しているので、是非見てください。
アンディウォーホルの名言10選!発言の意図や背景、英訳や名言集も紹介
アンディウォーホルにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「銃殺未遂に見舞われる」
1968年、ウォーホルが40歳の時に「ファクトリー」で銃殺未遂事件が起きます。しかも、ターゲットはアンディウォーホルでした。銃撃した人物は「男性抹殺協会」に属しており、「ファクトリー」にも頻繁に出入りしていた仕事仲間のヴァレリー・ソラナスでした。
ソラナスは3度発砲し、そのうちの1発がウォーホルに命中します。ウォーホルは内臓を撃ち抜かれ、生死の境をさまよいましたが、なんとか一命を取り止めました。この事件は1995年に「I Shot Andy Warhol」として映画化もされています。
都市伝説・武勇伝2「銃弾が打ち込まれた肖像画が30万ドル以上で落札」
ウォーホルの手がけた「毛沢東」の肖像画を、デニスホッパーが「気味が悪い」という理由で銃弾を撃ち込みます。2発の銃弾が撃ち込まれた肖像画はウォーホルとホッパーの共同制作ということになり、作品として残されました。この作品が2011年に競売にかけられ、30万ドル(当時の日本円で2500万円)の値をつけたのです。
また、「マリリンモンロー」も銃で撃たれています。「ファクトリー」にやってきたドロシーという女性がウォーホルに向けて銃を構えますが、寸前のところで少し逸らし、「マリリンモンロー」に銃弾を撃ち込んだのです。この作品は「撃たれたマリリン」として残され、後年、ウォーホル史上最高額の値がつきましたが、具体的な金額はわかっていません。
都市伝説・武勇伝3「猫を20匹以上飼っており、家はゴキブリだらけだった」
ウォーホルは大の猫好きで、家に25匹の猫(のちに生まれた子猫を合わせると26匹)を飼っていました。しかも、名前は1匹目が「ベター」で、あとの24匹はみんな「サム」と呼んでいたそうです。さらに、自分の髪色に合わせて猫も銀色に塗っていたという逸話も残っています。
そのウォーホルの家では、猫をたくさん飼っている影響からか、部屋中にゴキブリが発生していたそうです。ゴキブリがよく出てきたのは若い頃に借りていた安いアパートでの話だという説もあります。外出した際にウォーホルのバッグの中からゴキブリが出てきたいうエピソードも残っています。
アンディウォーホルの簡単年表
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグのフォレストシティにてアンディウォーホルが誕生します。父親は農家を営んでいるアンドリューで、母親はジュリアという名前でした。
働いていた炭鉱で体に害のある水を飲んでしまったことにより、父親のアンドリューが亡くなります。その後は母・ジュリアによって育てられましたが、ウォーホル自身も高校に通いながら、アルバイトをし始めます。
ピッツバーグの地元の高校を卒業し、カーネギー大学(現在のカーネギー・メロン大学)へ進学します。
1949年にカーネギー大学で美術学士号を取得すると、女性誌のディレクターと出会い、雑誌の挿絵を担当することになりました。この頃から「アンディウォーホル」と名乗るようになります。
雑誌の広告デザインを担当するようになりました。また、ケニー・バレルやテネシー・ウィリアムスなど、有名アーティストのレコードジャケットのデザインも手がけます。そして、百貨店や企業の商品広告でも力を発揮するようになっていくのでした。
CBSのラジオ番組「Nation’s Nightmare」の広告デザインを担当します。当時、問題となっていた麻薬を扱う番組であったため、「腕に麻薬を打つ人」のイラストを描きました。そして、これが「アート・ディレクターズ・クラブ」の最優秀新聞広告賞を受賞します。
広告の仕事を続けながらも、新たな道を模索していたウォーホルは油絵によるポップアートの制作を開始します。
ウォーホルがメインで活動を行ったアトリエ「ファクトリー」が設立されます。ここで初めて「シルクスクリーン」を導入し、大量生産に乗り出すのでした。1964年までの間に約2000点もの作品を仕上げました。その中には有名な「マリリン・モンロー」や「キャンベルのスープ缶」も含まれています。
1964年ニューヨーク万国博覧会が開催され、「13人の重要指名手配犯」を出品しますが、犯罪者のほとんどがイタリア系のアメリカ人であったため、人種差別にあたるのではということで、絵が塗りつぶされてしまいます。
1965年に出会ったロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」がデビューアルバムを出すということで、ジャケットのデザインをウォーホルが手がけることになります。その作品が「バナナ」です。
ファクトリーに侵入してきた、「男性抹殺協会」のヴァレリー・ソラナスに狙撃され、重体となります。左肺、脾臓、肝臓を銃弾が貫通しましたが、一命を取り止めました。
雑誌「ライフ」が集計した「1960年代に最も影響を与えた人物」に選ばれました。この中にはビートルズなども入っています。
1974年に来日し、東京と神戸の大丸デパートにて「アンディウォーホル大回顧展」が開かれました。
初の自伝本となる「ぼくの哲学(The Philosophy of Andy Warhol: From A to B and Back Again)」を発表しました。
伝説のプロボクサー「モハメド・アリ」やサッカーのスーパースター「ペレ」、プロテニス選手「クリス・エバート」などのシルクスクリーンを制作しました。
日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演し、テレビに映るようになります。内容は、カラーバーが映されたテレビを肩に乗せ、慣れない日本語で「あか、みどり、あお…きれい」と言うものでした。
雑誌「TIME」の表紙のデザインを依頼され、当時スター街道を駆け上がっていた「マイケルジャクソン」のポートレートを制作し、それを表紙に載せました。
ジョンレノンの未発表アルバム「メンローヴ・アヴェニュー」を発表することが決まり、そのカバージャケットのデザインの依頼がウォーホルの元へ届きます。そして、このジャケットのデザインがウォーホルの最後の代表作となるのでした。
1987年2月20日、胆嚢炎の手術のため、ニューヨーク病院コーネル医療センターへ入院します。翌日、無事に手術は終わりましたが、その次の日に心臓発作にて亡くなってしまうのです。享年58歳でした。墓地はウォーホルの故郷であるペンシルベニア州のピッツバーグに建てられています。
アンディーウォーホルの歴史がよくわかりました。
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