古関裕而の功績
功績1「日本人初の国際作曲コンクール入賞」
1929年7月に、当時川俣銀行の銀行員であった古関は、イギリス・ロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」を応募し、これが二等入選。福島新聞で、大々的に報じられ、日本人初の国際的な作曲コンクールの入賞を果たしました。
しかし、これは「竹取物語」が国際現代音楽協会の主催する現代音楽祭作品の公募にてイギリス支部へ推薦されたのを古関が入選と間違えたという説も出ております。ですが、この入賞は日本でも大々的に報じられ、当時豊橋にいた金子と文通するきっかけにもなりました。
功績2「『栄冠は君に輝く』など様々な楽曲を発表」
上記のトピックでも記述した通り、現在も甲子園のテーマ曲として使用されている「栄冠は君に輝く」や、NHKのスポーツ中継のテーマ曲「スポーツショー行進曲」など様々な楽曲を発表しております。甲子園を取り扱った番組などで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
また、スポーツ以外には、ラジオドラマや映画などの音楽も務め、ラジオドラマ「君の名は」ではドラマ放送中にオルガンを使って生伴奏をつけたこともありました。数多くの代表作を生み出した偉大な作曲家です。
功績3「福島市名誉市民に選ばれる」
1979年にこれまでの功績を称え、古関は福島市の名誉市民第一号として選ばれました。そして、これを記念し、1988年には福島市音楽堂に隣接した場所へ福島市古関裕而記念館が設立されました。しかし、この頃、古関は入院していたために、この記念館を訪れることはなかったそうです。
その後、生誕100周年を記念した2009年4月にはJR福島駅の発車メロディーに古関が作曲した「高原列車は行く」「栄冠は君に輝く」を採用し、8月には駅前にモニュメントを設置しました。それだけ、故郷である福島市が、古関の事を誇りにしているのですね。
古関裕而の名言
曲は技巧で作るものではありません。心で生み出すものです
生涯にわたり、楽器を使わずに作曲を行っていたという古関裕而。子供のころから作曲を独学で勉強していた古関だからこそ、理論ではなく感覚で作曲を行っていたのですね。
私の音楽に対する最大の理解者
この理解者とは共に仕事をした劇作家・菊田一夫のことを指しております。菊田とは36年間にわたって、ラジオドラマや演劇を手掛けてきた、まさに盟友と言える間柄。菊田が先に亡くなったときは大きな衝撃を受けたそうです。
いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。
故郷の自然が、古関メロディーの源流となりました。それだけ、故郷である福島市に思い入れがあったのでしょう。
古関裕而の人物相関図
古関裕而にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ライバル関係の楽曲も作曲」
古関は早稲田大学の応援歌「紺碧の空」と、慶応大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲を手掛けております。この2校は大学野球において「早慶戦(慶応側からは慶早戦)」と呼ばれ、長年にわたるライバルであり、その応援歌をどちらも古関が手がけているというのは不思議な間柄ですね。
また、プロ野球では巨人軍の球団歌「闘魂を込めて」、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」、中日ドラゴンズの球団歌「ドラゴンズの歌」を手掛けております。巨人・阪神戦は伝統の一戦とも謳われる長年のライバルチーム同士で、古関自身は球団関係に興味がなく、作曲依頼があればどこでも引き受けていたそうです。
都市伝説・武勇伝2「生涯に五千曲程発表」
上述のスポーツ楽曲や、ラジオドラマ、映画音楽に加え、軍歌、校歌、なども手掛けております。また、変わったところでは、西武鉄道、丸井、不二家などの社歌、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の放送開始・終了テーマ曲、緑の羽根募金の主題歌などがあります。
生涯に五千曲ほどを作曲した古関ですが、作曲するにあたり音楽を一切使わなかったと言われております。主に五線譜と向かい合うことで、自然と頭の中に楽曲が思い浮かび、それをペンで書き出すという手法をとっていたと、自伝に記述しております。
古関裕而の簡単年表
福島県福島市大町の呉服屋「喜多三」の長男として古関裕而は生まれました。ちなみに、古関裕而はペンネームであり、本名は「古關勇治」という名前です。同じ大町には、作詞家の野村俊夫が住んでおり、古関と共にいくつか楽曲を発表します
小学校に上がると、担任であった遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の授業に力を入れていたことから、ますます音楽へ興味を持つこととなります。また、10歳のころには楽譜を読めるようになり、同級生から作曲を依頼されたこともあったそうです。
商業学校へ家業の呉服屋を継ぐために入学するも、学業よりも作曲に熱中しておりました。この時期、常にハーモニカを所持し、独学で作曲法を学んでおりました。
卒業間際、古関は日本有数のハーモニカバンドであった「福島ハーモニカソサエティー」に入団いたします。このバンドに入ったことで、フランスやロシアの音楽を知り衝撃を受けたそうです。また、このバンドで仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組へ出演したこともありました。
母方の伯父に紹介され、川俣銀行(現・東邦銀行川俣支店)へ勤務することになりました。また、この頃、ロシアの音楽家リムスキー=コルサコフの弟子であった金須嘉之進に師事を受け、聖歌や管弦楽について学んでおりました。
銀行員時代も趣味で作曲していた古関。ある時、イギリスロンドンのチェスター楽譜出版社作曲コンテストに舞踊組曲「竹取物語」を含む5曲を応募し、「竹取物語」が二等に入選しました。このことは、新聞で日本中に報じられました。
この報道を知った愛知県豊橋市に住んでいた内山金子は、古関へファンレターを送り、これがきっかけで2人は文通を始めます。そして、1930年に古関は金子のいる豊橋に来訪し、そのまま結婚いたします。2人の間には、3人の子供が誕生しました。
この年の9月に、山田耕筰の推薦もあり、古関は日本コロムビアレコードの専属作曲家として入社します。コロムビアでは、作曲家の古賀政男、同郷の作詞家野村俊夫、同郷の声楽家伊藤久男、等と知り合うこととなります。
1931年6月に早稲田大学の第六応援歌(現在は第一応援歌)である「紺碧の空」の作曲を依頼されます。これは、応援部のリーダー幹部であった伊藤久男の従兄弟の伊藤茂に推薦され、作曲を一任されたそうです。
上京後、なかなかヒット作に恵まれず、不遇の時代を過ごしておりました。そして、1935年に新民謡調の楽曲「船頭可愛や」がヒットし、ようやくヒット作曲家として世間に認められるようになりました。
1937年には軍歌「露営の歌」を作曲し、こちらもヒット曲となります。しかし、1938年にコロムビアから従軍の依頼があり、従軍音楽部隊として西城八十とともに中国へ渡りました。この時期、芸能関係の方は軍部の要請で、各地で慰問をしておりました。
映画「暁に祈る」の主題歌として作曲された楽曲で、作詞は野村俊夫、作曲を古関が担当しました。兵隊の士気を上げる軍歌として作曲されましたが、その歌詞は反戦を歌ったもので、戦争へ行きたくなかった戦中派の人々の間で広まり、ヒット曲となりました。
NHKの前身である日本放送協会は、古関に南方慰問団への参加を依頼し、古関はこれに参加しました。徳川夢声を団長とする慰問団は、ジャワ、シンガポールなどで前線の兵士たちを慰問し、古関は「露営の歌」などの指揮を執りました。
第二次世界大戦中、インパール作戦の兵士たちを励ます歌を作って欲しいと、軍部から脅迫まがいの依頼を受けた古関はビルマへと飛び立ちました。そこで、作家である火野葦平が作詞した「ビルマ派遣軍の歌」に曲をつけ、前線の兵士の士気を上げました。この最中、日本では古関の母が病気のために逝去しました。
この年の3月、硫黄島が陥落し、その数日後に古関の元へ赤紙が届きました。当時、36歳は老兵であったため、日本軍が逼迫した状況であったのを物語っております。そして、古関は横須賀海兵団に派遣され、軍隊生活を1か月ほど経験します。
終戦後、長男の正裕が誕生しました。また、戦後の日本の暗い雰囲気から立ち直れるような明るい楽曲として鎮魂歌「長崎の鐘」や、菊田一夫と組んだラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」等を発表しました。
「全国高等学校野球大会」が30回目となる節目を迎えた年に、古関は新しい大会テーマソングとして「栄冠は君に輝く」を作曲し、現在まで甲子園のテーマソングとして使用されております。
菊田一夫が脚本を担当したラジオドラマ「君の名は」の劇中音楽を、古関が担当することになりました。当時、ラジオドラマも生放送だったため、古関はハモンドオルガンで毎回即興の伴奏をつけていたそうです。
NHKラジオ第一放送でラジオドラマ番組として「日曜名作座」の放送が開始され、古関はテーマ曲と劇中音楽の指揮を担当し、健康上の理由で降板するまで30年間、同番組の音楽を担当しました。
高度経済誌長期の真っただ中、東京で初の五輪が開催されました。その、五輪の開会式と閉会式の日本選手団入場の際に使用された行進曲「オリンピックマーチ」の作曲を古関は担当しました。明るい曲調で、人々に希望を与える楽曲となっております。
古関のこれまでの功績が称えられ、「学術や芸術・文化分野において優れた業績を挙げた方」に送られる紫綬褒章を受章しました。音楽家分野では、他にもサトウハチロー、淡谷のり子、筒美京平といった方々が受章されております。
アジア初の冬季オリンピックが札幌で開催され、その行進曲として「純白の大地」を古関が作曲し、開会式で実際に古関が指揮を執りました。また、この年から始まったフジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」に審査員として出演しておりました。
古関の作曲家生活50周年を記念し、故郷である福島市は「福島市名誉市民」第一号に推戴しました。式典はこの年の4月5日に行われ、関係者約100名以上が集まった壮大な式典となりました。
この年の7月23日、妻である古関金子が乳がんの全身転移により死去しました。声楽家として活躍した彼女は、晩年は、声楽を辞め、長男・正裕の子育てに専念したと言われております。
健康上の理由から、「日曜名作座」の音楽を降板し、作曲家としての活動を引退することとなりました。また、「日曜名作座」を司会の森繁久彌、加藤道子と共に3人で30年間続けたことを称え、視界も含め放送文化基金個人部門賞を受賞いたしました。
傘寿の誕生日を迎えてから一週間後、古関は川崎の聖マリアンナ医科大学病院にて、脳梗塞のため逝去しました。没後、国民栄誉賞を打診されるも、遺族の意向により、これを辞退いたしました。