古関裕而とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や軍歌、家族構成、死因について解説】

古関裕而の年表

1909年 – 0歳「福島県福島市の呉服屋にて誕生」

呉服屋「喜多三」

呉服店「喜多三」の長男として誕生

古関裕而は福島県福島市大町にある老舗呉服店「喜多三」の古関家、長男として誕生しました。現在、裕而の生家であった「喜多三」跡地には「古関裕而生誕の地記念碑」が建っております。また、裕而の息子である正裕さんが「古関裕而を歌い継ぐユニット」というコンセプトの元、「喜多三」という音楽ユニットを結成しております。

音楽好きな幼少期

蓄音機

生家にはまだ一般家庭には珍しかった蓄音機が置いてあったそうです。特に、父親が浪曲などを好んで聞いており、古関も蓄音機の隣でお絵描きなどして音楽に慣れ親しんでおりました。古関は、父親の影響を受けて、作曲の道を志すようになります。

また、故郷である大町の近所には鈴木喜八という5歳上の少年がおりました。古関ともよく遊んだ少年で、この鈴木が後に作詞家・野村俊夫として古関と共に「福島行進曲」「暁に祈る」「若き日のエレジー」といった楽曲を世に送り出すこととなります。

1922年 – 13歳「旧制福島商業学校に入学」

福島商業高校

作曲に夢中な青年期

7歳の時に福島県師範学校附属小学校(現・福島商業高等学校)に入学します。担任であった遠藤喜美治は音楽の授業に力を入れるほど、音楽好きの教師であったそうです。この影響で、小学生のころから独学で作曲を始め、10歳の時には楽譜が読めるようになりました。

その後、山田耕筰の「作曲法」などを作曲を独学ではじめ、次第に同級生から詩に曲をつけるよう依頼されるようになりました。小学校を卒業後、古関は家業を継ぐために1922年に旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)へ入学しました。ですが、商業学校に上がっても勉学より作曲に最も熱中しておりました。

1930年 – 21歳「コロムビアレコード専属作曲家となる」

古関裕而と金子

内山金子との結婚

入選の報道がきっかけで、愛知県豊橋市に住んでいた内山金子は古関へファンレターを送りました。これを機に、2人は文通を始め、遠距離恋愛へと発展していきました。そして、知り合ってから3か月後の1930年6月に古関は豊橋へ出向き、実際に対面。そして、金子はそのまま古関の故郷である福島へ着いていき、2人は結婚しました。

2人の夫婦仲は大変良く、晩年までおしどり夫婦として有名でした。2人の間には二女一男の子供が生まれ、2女は戦前に生まれ、共に疎開生活などを経験しました。長男である正裕は戦後に生まれ、母である金子が声楽家であったことを子供のころに知らなかったそうです。

山田耕筰の推薦で上京

山田耕筰

同年9月に、コロムビア(現・日本コロムビアレコード)の顧問を務めていた山田耕筰の推薦により、古関はコロムビアの専属作曲家として迎え入れられることになりました。これに伴い、古関は川俣銀行を退職し、妻と共に上京することになりました。

1935年 – 26歳「「船頭可愛や」が初ヒット」

早稲田大学

早稲田大学「紺碧の空」を作曲

上京した古関の元へ、早稲田大学から新しい応援歌の作曲依頼が舞い込んできました。当時、大学野球において「早慶戦」と長きにわたる慶応との対決に、早稲田大学は1927年から負け続け、1930年には慶応に春秋4連敗を喫しておりました。

当時、慶応野球部の原動力となっていた要因の一つに「若き血」という応援歌がありました。これに対抗するべく、早稲田は新たな応援歌として「紺碧の空」の作曲を若手の古関に依頼しました。そして、1931年に披露され、早稲田は見事勝利し、現在は第一応援歌として親しまれております。

スランプと「船頭可愛や」のヒット

上京後、数年間はなかなかヒット作に恵まれず、スランプの時期に入っていました。コロムビアから最初に出したレコード「福島行進曲」も、思うように売れず、苦労をしていたようです。一時期は、コロムビアから契約解除を持ち出されるほどだったそうです。

船頭可愛や

1935年、古関が26歳の時に発売した「船頭可愛や」がようやく初のヒット作となりました。この歌は、新民謡調と呼ばれ、大衆に親しみやすい楽曲としてヒットしました。古関は自伝にて「私は初めて、自分で作曲した曲がどこへいっても流れている喜びを知った。」と回想しております。

1937年 – 28歳「放送劇「当世五人男」でドラマ初作曲」

菊田一夫

菊田一夫との出会い

「船頭可愛や」のヒット以降、「大阪タイガースの歌(現・六甲おろし)」など、様々なヒット作を手掛けておりました。ちなみに、現在「六甲おろし」は12球団の中で一番古い球団歌となっております。その中で、古関は当時流行していたラジオドラマの音楽を担当することになりました。

最初に担当した作品は村上浪六原作の「当世五人男」という作品でした。この時、放送局にて劇作家の菊田一夫と初めて出会いました。後に、古関は菊田と共に戦後のラジオドラマや演劇など、日本のエンタメ業界に大きな影響を与えることになります。

1940年 – 31歳「軍歌「暁に祈る」を作曲」

日中戦争と古関裕而

次第に激化する日中戦争。古関は1938年に軍部から従軍要請を受けました。この当時、前線の兵士に娯楽を送るために、芸能関係者に従軍を要請するケースがいくつかありました。落語家の5代目古今亭志ん生は慰問で訪れた満州で終戦を迎えたため、帰国するのに一苦労したという逸話があります。

古関は、西條八十と共に従軍音楽部隊として中国へと渡りました。そして、前線の兵士達に自身の楽曲を指揮し、演奏を終えると兵士達は歓声を上げました。この歓声を聞いた古関は、思わず涙が溢れてきたと回想します。

軍歌「暁に祈る」

暁に祈る

中国から帰国後、古関に新たな楽曲の依頼が舞い込みました。それは、松竹映画「暁に祈る」の主題歌の作曲です。この「暁に祈る」は、軍馬を中心にした兵士の夫とその妻の物語を描いた作品で、軍馬への関心を高めるために製作された映画でした。

古関は、同郷の野村俊夫と伊藤久男と共にこの楽曲を製作しました。制作にあたり、野村は軍部から作詞を7回も書き直しささせられたという逸話が残っております。この楽曲を作るにあたり、古関は中支戦線での体験を基に、望郷を想う兵士達を思い浮かべながら作曲したと自伝に記述しております。

1945年 – 35歳「横須賀海兵団として軍隊生活を1か月過ごす」

第二次世界大戦戦時中の子供達

第二次世界大戦と古関裕而

1942年、戦争が激化する中、古関は放送協会から南方慰問団への参加を要請されました。この慰問団は、古関のほかにも、吉本興業所属の芸人で結成された「わらわし隊」などが存在し、ジャワ、ビルマなどの東南アジア戦線の兵士達への慰問を行いました。

その後、1945年、硫黄島陥落から数日後、古関の元へ赤紙が届きました。それは、作曲家ではなく兵士として横須賀海兵団として従軍せよという指令だったのです。古関は、海兵団に入隊し1か月ほど軍生活を送りました。その後、福島で疎開生活を送ることとなりました。

1948年 – 38歳「「栄冠は君に輝く」を作曲」

「栄冠は君に輝く」を作曲

栄冠は君に輝く

そして、古関の元へ朝日新聞社から楽曲の依頼が舞い込みました。それは、学制改革により「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球選手権大会」へと変更され、第30回という記念すべき年ということで新たな楽曲を作って欲しいというものでした。

歌詞は公募の中から加賀大介の詞が採用され、古関はその詞に作曲しました。この「栄冠は君に輝く」が制定されてから30年後、古関は甲子園へと招待され、「栄冠は君に輝く」の合唱を目の当たりにし、感激したそうです。ちなみに、古関の母校である福島商業高校も出場し、見事勝利を飾り、古関の前で、自身が作曲した校歌を披露したそうです。

1957年 – 48歳「NHKラジオドラマ「君の名は」の音楽を担当」

国民的ラジオドラマ「君の名は」

君の名は

1952年に菊田が脚本を担当したラジオドラマ「君の名は」の放送が始まりました。この作品は、当初は主人公たちの戦争体験記をシリアスに描いた作品だったため、あまり人気がなかったようです。その後、春樹と真知子の恋物語へと展開すると次第に人気を集め、ラジオドラマ始まって以来の大ヒット作となりました。

古関はこの作品でも音楽を担当し、ドラマの生放送中にオルガンで即興で劇中音楽を担当されておりました。あまりの人気ぶりに「ラジオの時間には街の銭湯の女湯がガラ空きになる」と言われておりましたが、これは松竹による宣伝広告であったと古関は自伝で回想しています。

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