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田中角栄の生涯・年表まとめ【ロッキード事件から名言、功績や逸話、死因まで】

田中角栄は戦後の日本を代表する政治家で、第64・65代内閣総理大臣を務めました。貧しい家庭の出身で、最終学歴が「高等小学校」でありながら、戦後最年少で国務大臣を務め、内閣総理大臣まで駆け上った出世人としても知られています。

一方で、政界に進出した後は「お金」に関する豪快なエピソードには事欠かず、裁判沙汰になる事態にまで発展したケースもあります。

田中角栄

没後30年近く経った今でも、その名前を知らない人はほとんどいないのではないでしょうか。昭和を彩った偉人の中で「美空ひばり」を抑えて、「昭和天皇」の次に選ばれるほど、日本に影響や話題を与えた人物です。元東京都知事の石原慎太郎も角栄に関する書籍を出すほど魅了されていたのでした。

戦後の政治家は多数いますが、彼の思想や人柄、その頭のキレと人の心をつかむ力は常人の域をはるかに超えており、多くの人々が惹きつけられました。

石原慎太郎著の「天才」を読んで、田中角栄に興味を持った筆者が、様々な文献を漁って得た情報をもとに田中角栄の生涯、名言、エピソードなどについてご紹介していきたいと思います。

田中角栄とはどんな人物か

名前田中角栄
誕生日1918年5月4日
没日1993年12月16日
生地新潟県刈羽郡二田村大字坂田
(現:新潟県柏崎市)
没地東京都新宿区信濃町
慶應義塾大学病院
配偶者田中はな(坂本はな)
埋葬場所新潟県柏崎市

田中角栄の生涯をハイライト

田中角栄

田中角栄の生涯をダイジェストで紹介すると、以下のようになります。

  • 新潟県刈羽郡二田村(柏崎市)に誕生。8人兄弟(長男は夭逝し、その後は1男6女)。
  • 高等小学校での勉強の成績は良く、卒業時に総代として答辞を読む。
  • 東京へ出て、建築事務所で働く。
  • 第22回衆議院総選挙で初出馬、第23回総選挙で初当選を果たす。当時の角栄は28歳。
  • 1948年(29歳)、「炭鉱国家管理疑惑」により逮捕される(のちに逆転無罪)。
  • 1958年、39歳にして国務大臣(郵政大臣)に任命される。
  • 1972年(54歳)、「日本列島改造論」発表。その翌月に自民党総裁選を勝ち取り、内閣総理大臣へ。
  • 1974年(56歳)、「田中金脈問題」が明らかになり、失脚。
  • 1976年(58歳)、「ロッキード事件」勃発。
  • 1983年(65歳)、1987年(69歳)のロッキード事件第一審、第二審で懲役4年、追徴金5億円を言い渡される。
  • 第39回総選挙を前に引退。1993年12月16日、誤嚥性肺炎により亡くなる。享年75歳。

田中角栄の家族構成は?娘や妻はどんな人?

田中角栄一家 角栄、はな、眞紀子

田中角栄は農家の出身で、父・田中角次、母・フメの次男として誕生しました。兄弟は8人でしたが、兄が早逝したため、1男6女として過ごしていくことになります。

角栄自身の家族構成は以下の通りです。

  • 父:田中角栄(第64・65代内閣総理大臣)
  • 母:田中はな(坂本はな)
  • 長男:田中正法(4歳で亡くなる)
  • 長女:田中眞紀子(1993年から2012年まで衆議院議員。外務大臣、文部科学大臣を歴任。)

さらに角栄は妾との間に2男1女をもうけています。

妻・はなは建築事務所の家主の娘で、角栄よりも8歳年上の姉さん女房でした。はなは「将来、あなた(角栄)が天皇陛下に拝掲することがあれば同伴してください」と約束したそうです。

娘・眞紀子は第40回総選挙で新潟3区から当選すると、第1次小泉内閣で外務大臣を、第3次野田改造内閣では文部科学大臣を務めました。1998年の自民党総裁選では候補者の小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評し、話題となりました。

田中角栄の首相辞職理由や逮捕の理由とは?

『田中角栄 失脚』

田中角栄の逮捕理由は「田中金脈問題」によるものです。田中金脈問題とは、角栄の所有する企業が買った土地(4億円)を建設省の工事によって数百億円の価値にまで引き上げ、資産を作ったという疑惑です。

この問題が引き金となって内閣総辞職を余儀なくされ、首相退陣となるのでした。

田中角栄が関係した「ロッキード事件」とは?

ロッキード事件 朝日新聞

ロッキード事件とは簡単に説明すると「賄賂を行った」ということです。ロッキード社という航空機メーカーが旅客機の受注を巡って、世界中の航空会社に賄賂を贈っていたのです。日本では全日本空輸(ANA)との取引の経過の中で、21億円の金銭が賄賂として動いたのではないかと疑惑を持たれました。

このANAの航空機受注の経緯で賄賂21億円のうち、5億円の賄賂が田中角栄に流れたという証言が出たのです。そのため、角栄と秘書の榎本敏夫が逮捕されることとなりました。

ロッキード事件は結局、角栄が亡くなるまでに判決が決まりませんでしたが、1995年、最終的に5億円の賄賂があったことが認定されるのです。

田中角栄に影響を与えた人物、受けた人物は?

吉田茂

角栄が影響を受けた人物は吉田茂、佐藤栄作、角栄のライバルとして福田赳夫も挙がるでしょう。

吉田茂とは角栄が政界へ進出してからわずか一年ほどで出会い、意気投合しています。角栄は5年後に自由党の副幹事長に任命され、佐藤栄作、池田勇人らとともに「吉田13人衆」に属していました。

石原慎太郎

影響を受けた人物の代表は元東京都知事の石原慎太郎です。

石原慎太郎は角栄を評して、「商売の天才。単なる金儲けの才能ではなく、人を見る目があり、鋭い。田中角栄ほど先見性に富んだ政治家はいなかった。」と語っています。

田中角栄の功績

功績1「最終学歴は高等小学校卒ながら内閣総理大臣へ」

田中角栄は最終学歴が高等小学校となっています。実家が貧乏であったことから旧制中学への進学を断念したため、高等小学校卒業と同時に就職しました。

しかし、20代後半から政界へ進出すると、戦後初の30代での国務大臣、戦後最年少での内閣総理大臣就任など大躍進しました。

豊臣秀吉

貧乏苦労人からの出世で有名なのは豊臣秀吉です。秀吉は名前も付かないような地位から天下人に駆け上がり、最終的には天下統一を納めてしまうのでした。

角栄と秀吉の2人の共通点は人の心をつかむのが非常に上手かったことです。そのため、2人とも吉田茂や織田信長といった時の権力者にも好かれたのでした。

功績2「『日本列島改造論』の実行」

日本列島改造論による全国交通網

「日本列島改造論」は1972年の自由民主党総裁選にて田中角栄が発表した政策綱領で、書籍も出版されました。

主な内容は「工業再配置と交通・情報通信の全国ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる”地方分散”を推進すること」です。

つまり、経済を活性化させつつ、交通網を発達させることによって大都市集中を避け、地方の活性化も計る政策ということです。

角栄はこの公約を掲げて自民党総裁選に勝利し、第64代内閣総理大臣となるのでした。

功績3「33本の議員立法を成立 」

法律

議員立法とは、議員の発議によって成立した法律のことです。法律上、衆議院では20人以上、参議院では10人以上の賛成がないと提案することができません。

田中角栄は議員時代に33本もの議員立法を成立させており、政界に詳しい人たちに言わせると、これを超える政治家は出てこないだろうということです。角栄は法律を熱心に勉強しており、法律を変えることによって日本列島を改革しようとしたのでした。

戦後の法律はGHQによって作られたものばかりのため、日本が経済成長するには障害となるものが多かったのです。角栄はその障害を取り除くべく、法律を新しくし、経済成長を支えたのでした。

田中角栄の名言

「借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる。」

演説力は政治家の命と言われますが、田中角栄の演説力はずば抜けていました。官僚の心をつかむスピーチ、民衆の心をつかむ演説、角栄の言葉は人の心に響きます。それは、自分の伝えたいことを自分の言葉で伝えたからでしょう。

「時間の守れん人間は何をやってもダメだ。」

田中角栄は時間を守れるかどうかを人間を見る目安の一つとしていました。自分が時間をきっちり守ることはもちろん、部下や他人にもそれを当然のこととして扱っていました。さらには「人の悪口を言わない」ことも角栄のモットーだったのです。

「葬式は長い間お世話になった人との最後のお別れなんだ。人の道が分からなければ、ろくな政治家になれない。」

角栄は葬儀に関しては重きを置いていて、丁重な葬いをすることを良しとしていました。例えば、竹下登の父親が亡くなった時には、人口4000人の小さな村に、角栄率いる国会議員が70人近く訪れることになります。しかも、移動はチャーターの飛行機でした。

田中角栄の人物相関図

三角大福中と呼ばれた政治家

田中角栄にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「数々の異名を持つ」

ブルドーザー

角栄は様々なあだ名を持っていました。

  • コンピューター付きブルドーザー
  • 闇将軍
  • 今太閤

角栄は政治家としての発想力、決断力に優れており、考えついたことをすぐに行動に移し、世界をガラッと変えてしまうことから「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれていました。

また、ロッキード事件により、角栄は自民党を離党しましたが、選挙では1位当選をし続け、田中角栄派の議員によって政界への影響を持ち続けたため、「闇将軍」の異名がついています。

そして、先ほども述べましたが、角栄と秀吉の出世コースは非常に似ています。秀吉が貧しい身分から太閤になったことから由来して、角栄を「今太閤」と呼ぶようになったのでした。

都市伝説・武勇伝2「お金に関するエピソードの多さ」

お金

ロッキード事件や田中金脈問題など、角栄はお金に関するエピソードに事欠きません。

上記の二つは他の見出しでも述べたので、それ以外のエピソードを挙げていきます。

  • 進歩党の議員に300万円(現在の価値で15億円)の献金をして、衆議院議員へ推薦させる
  • 角栄に300万円の借金を申し込んだ議員に「俺が困ったときは頼む。」と500万円を渡す
  • 側近たちに「気持ちとして受け取ってくれ。」と2000万円以上のボーナスを渡す

都市伝説・武勇伝3 「相手の氏名を忘れた場合は下の名前を聞いて解決していた」

脳 記憶力 イメージ

田中角栄は記憶力に優れていました。有権者の名前、年齢、仕事はもちろん、家族の年齢、そしてその悩みまですべて記憶していたのです。

しかし、時には名前を思い出せないことがあり、その場合には相手に向かって、「どなたでしたっけ?」と聞き、相手が苗字を答えると、「そうじゃない。苗字は知っているが、名前が思い出せないんだ。」と返していたそうです。

田中角栄の簡単年表

1918年 - 0歳
田中角栄誕生

1918年5月4日、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に田中角栄が誕生しました。父・田中角次と母・フメの間に次男として生まれます。兄弟は8人いましたが、長男が早くに亡くなり、そのほかは6人とも女の子だったので、唯一の男の子として育てられました。

1920年 - 2歳
ジフテリアの後遺症で吃音症になる

角栄は2歳の時にジフテリアに罹患し、その後遺症で吃音症になります。その矯正方法には浪花節を歌うという手法を用いました。また、幼少期は父の事業失敗により貧しい生活を余儀無くされていました。

1933年 - 15歳
高等小学校を卒業し、土木工事現場で働く

15歳で二田高等小学校を卒業すると、土木工事現場で働き始めます。しかし、1ヶ月ほどで辞めてしまい、柏崎にある土木派遣所に努めるようになりました。角栄の最終学歴は高等小学校ですが、家が貧しかったことが理由で旧制中学校への進学を断念したようです。

1934年 - 16歳
上京して中央工学校へ通う

理化学研究所の書生として採用するとの連絡を受け、上京しますが、話が伝わっておらず、採用は見送られてしまいます。中央工学校に通いながら住み込みで働くようになりました。

1936年 - 18歳
建築事務所への勤務、独立

中央工学校を卒業すると、建築事務所に勤めることとなります。翌年には独立して、自身の建築事務所を設立します。事務所の経営をしながら、商業学校で商事実務も学んでいました。

1938年 - 20歳
徴兵に合格し、騎兵隊へ入営

徴兵検査で合格し、騎兵として陸軍騎兵連隊に入営します。翌1939年には満州国で兵役に就くこととなりました。

1942年 - 24歳
坂本はなと結婚

クルップ性肺炎を発症したため、軍を除隊することとなり、帰還後は飯田橋に田中建築事務所を設立します。そして事務所の家主の娘であった坂本はなと結婚しました。1男1女をもうけましたが、長男の正法は4歳で亡くなります。

1946年 - 28歳
政界へ進出

1945年に進歩党代議士の大麻唯男に献金を行ったことをきっかけに、大麻の推薦により衆議院選挙に立候補することを決めます。しかし、結果は落選(37人中11番目)でした。

1947年 - 29歳
総選挙に民主党候補として出馬し、当選

4月、日本国憲法による最初の総選挙(第23回総選挙)に新潟3区から出馬し、見事に当選(12人中3番目)を果たします。11月には民主党を離れ、同志クラブ(民主クラブ)を結成しました。

1948年 - 30歳
第二次吉田茂内閣にて法務政務次官に就任

10月、芦田内閣が総辞職し、後継首相に吉田茂が就くこととなります。この第二次吉田内閣で角栄は法務政務次官として勤務することになりました。しかし、炭鉱国家管理疑惑が浮上し、角栄は逮捕されてしまいます。この疑惑は1951年の高等裁判所二審にて逆転無罪となるのでした。

1951年 - 33歳
33本の議員立法に関わる

1949年の衆院選挙に獄中立候補し、当選を勝ち取ったため、国会議員を継続します。衆議院建設委員会に入り、生活インフラの整備や国土の開発に取り組みました。この間に多くの議員立法が行われましたが、このうちの33本に角栄が関わることになります。

1954年 - 36歳
自由党副幹事長に就任

1952年には道交法改正、1953年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」を提出し、ガソリン税を道路特定財源にすることを取り決めました。1954年には自由党副幹事長となり、吉田茂の側近として捉えられるようになります。

1957年 - 39歳
郵政大臣に就任

7月、第1次岸信介改造内閣が発足し、角栄は郵政大臣に就任しました。テレビ局と新聞社の統合系列化を果たし、放送免許を郵政省の支配下に置くこととなります。

1961年 - 43歳
自由民主党政務調査会長に就任

7月に自由民主党政務調査会長に就任します。幹事長、総務会長、選挙対策委員長と合わせて党4役と言われるポジションについたのです。

1962年 - 44歳
大蔵大臣に就任

7月、第2次池田勇人内閣が発足し、角栄は大蔵大臣に任命されます。このまま、第1次佐藤栄作内閣まで続けて大蔵大臣を務めることとなりました。

1965年 - 47歳
自由民主党幹事長に就任

6月、大蔵大臣を辞任して、自由民主党幹事長に就きました。

1968年 - 50歳
都市政策大綱を発表

自民党都市政策調査会長として都市政策大綱を発表します。翌年には大学管理法成立に尽力し、大学紛争を収束させました。

1971年 - 53歳
通商産業大臣に就任

7月、第3次佐藤栄作内閣の改造時に通商産業大臣に就任します。10月には日米繊維交渉を成立させました。

1972年 - 54歳
日本列島改造論を発表

5月、佐藤栄作の派閥から田中角栄の派閥が分離し、その翌月に角栄が「日本列島改造論」を発表します。7月には福田赳夫を破って自由民主党総裁に就任し、第1次田中角栄内閣が発足しました。当初の支持率は70%前後でした。

1972年 - 54歳
日中国交正常化を実現

9月には中国を訪問し、周恩来首相と毛沢東共産党主席と会談を行います。そして、9月29日、日中国交正常化が締結されました。12月には総選挙が行われ、自由民主党が議席を過半数確保したため、第2次田中角栄内閣が発足しました。

1973年 - 55歳
第一次オイルショック発生

10月、第四次中東戦争の激化から第一次オイルショックが発生します。角栄は中東地域以外からもエネルギー源を確保できるように手配をします。12月には物価上昇に歯止めがかからず、経済政策の失敗を囁かれ、内閣支持率が20%を割るようになってしまいます。

1974年 - 56歳
田中金脈問題が持ち上がり、失脚へ

東南アジアやメキシコを訪れ、精力的に外交をこなしていきますが、10月に週刊誌が「田中金脈問題」をすっぱ抜きます。これが原因となり、12月に内閣総辞職を行い、三木武夫内閣が発足したのでした。

1976年 - 58歳
ロッキード事件発生

アメリカの航空機メーカーのロッキード社から全日本空輸に対する国際的収賄疑惑が浮上します(ロッキード事件)。5億円の受託収賄罪と外国貿易管理法違反の容疑によって角栄は逮捕されることとなりました。首相経験者として逮捕されたのは1948年の芦田首相以来のことでした。

1983年 - 65歳
ロッキード事件の一審判決

10月に東京地方裁判所にてロッキード事件の一審判決が行われました。結果は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決でしたが、判決を受けたその日に控訴を決めます。12月の総選挙では新潟3区から立候補し、他の候補者に大差をつけての当選を勝ち取りました。

1986年 - 68歳
脳梗塞により後遺症が残る

2月に脳梗塞で倒れ、入院を余儀なくされます。後遺症としてうまく話せない、体が動かせないなどの機能障害が残ったため、政治活動が絶望的となりました。

1987年 - 69歳
ロッキード事件の二審判決

7月にロッキード事件の二審判決が行われ、東京高等裁判所が一審判決をそのまま言い渡しました。そのため、角栄は上告を申請します。

1990年 - 72歳
政界引退

1989年10月に角栄が次期総選挙へ出馬しないことを表明します。1990年1月に衆議院解散となり、それと同時に角栄も政界を引退することとなりました。

1993年 - 75歳
娘の田中眞紀子が新潟3区から初当選

第40回総選挙で娘である田中眞紀子が新潟3区から出馬し、角栄も応援演説に駆けつけます。そして、見事に初当選を果たしました。

1993年 - 75歳
田中角栄死去・死因は誤嚥性肺炎

12月16日、慶應義塾大学病院にて誤嚥性肺炎により帰らぬ人となります。ロッキード事件に関しては公訴棄却となりました。

田中角栄の年表

1918年 – 0歳「新潟県にて田中角栄誕生」

新潟県 柏崎市

現在の新潟県柏崎市に次男として誕生

田中角栄は新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に誕生します。兄弟は角栄を合わせて8人いましたが、長男が幼くして亡くなってしまったので、1男6女の女兄弟の中で育ちました。

父・田中角次は農家かつ牛馬商を営んでおり、種牛の輸入や養殖業など様々な事業にも手を出しましたが、失敗してしまいます。そのため、角栄の幼少期は貧しい生活となりました。母・フメは生活を支えるために働きづめであったため、角栄はおばあさんによく面倒を見てもらっていたそうです。

角栄が2歳の時にはジフテリアに感染し、後遺症として吃音症を患ってしまいます(浪花節の練習で矯正したため小学校入学時には完治)。

二田高等小学校へ

小学校の課程を修了すると二田高等小学校へと進学します。勉学には優れていたため、クラスの学級委員長を毎年任され、卒業式には代表として答辞を読んだそうです。1933年、角栄が15歳の時に高等小学校の課程を終えましたが、家が貧乏であったために旧制中学校への進学は叶わず、就職することとなりました。

高等小学校卒業後に土木工事現場で1ヶ月働いた後、柏崎の土木派遣所へ移動します。そこで1年ほど働くことになったのでした。

1934年 – 16歳「上京して建築事務所に勤めるようになる」

現在の中央工学校

書生になるべく上京

理化学研究所から書生に採用するとの連絡が入り、角栄は上京を決心します。しかし、実際には話が伝わっておらず、見送りとなってしまいました。結局、住み込みで働きながら、中央工学校の土木科へ通うこととなります。

中央工学校卒業後は建築事務所に勤めるようになり、そのかたわらで商業を学びました。1938年には徴兵が行われ、陸軍騎兵連隊へ配属となり、その翌年には満州国で兵役を務めます。

田中建築事務所の設立、そして結婚

陸軍に所属し、兵役をこなしていましたが、肺炎にかかったため、帰国することになります。帰国後には飯田橋に田中建築事務所を開設しました。そして、事務所の家主の娘であった坂本はなと結婚することになったのです。

角栄と坂本はなの間には長男・正法、長女・眞紀子が生まれますが、正法は4歳で亡くなってしまいます。長女・眞紀子は後年、父・角栄の後を継いで政治家となるのでした。

1946年 – 28歳「国政へ進出」

第22回衆議院総選挙 初めて女性の選挙権が認められた

第22回衆議院総選挙に出馬し、政界進出を目指す

1946年、進歩党代議士へ献金を行ったことをきっかけに衆議院総選挙へ推薦され、立候補することとなりますが、この時は落選となりました。翌年の1947年には第23回総選挙に新潟3区から出馬し、見事に初当選を果たします。

当選後、臨時石炭鉱業管理法に関して本会議で反対票を投じ、民主党を離党します。そして、ともに離党した議員とともに同志クラブ(民主クラブ)を結成します。民主クラブは1948年に日本自由党と合併し、民主自由党となりました(党首は吉田茂)。

炭鉱国家管理疑惑により逮捕される

1948年10月に第2次吉田内閣が発足すると、角栄は法務政務次官に任命されます。しかし、炭鉱国家管理法案を巡り、賄賂の授受があったとの疑惑が生じ、角栄は逮捕されました(1951年に逆転無罪)。

第24回衆議院総選挙には東京拘置所からの出馬となります。1949年1月に保釈されてから10日間の選挙活動であったにも関わらず、2位で当選しました。角栄を主に支持していたのは下層階級の人々や若い世代でした。

1954年 – 36歳「自由党副幹事長に就任」

1954年当時の田中角栄

議員立法33本に関わる

衆議院議員再選後は建設委員会に所属し、生活インフラの整備などに力を入れていきます。その間、数多くの議員立法が行われましたが、角栄はそのうちの33本に関与しました。代表的なものは公営住宅法、建築士法、道路法の改正などです。

1952年には道路法の改正が成立し、国道への国費使用のハードルを下げ、民衆の意見を取り入れるように計らいました。1953年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」を提出し、ガソリン税相当分を道路特定財源として利用できるようにします。

1954年には吉田茂13人衆に数えられるようになり、自由党副幹事長に任命されています。

長岡鉄道の社長に就任

角栄は政界以外でも活躍しており、1950年には長岡鉄道の社長に就任しています。路線の存続や電化への移行を委託されたため、元鉄道省の重鎮達に声をかけるなどして、それらを実現させるのでした。

この結果、1952年の選挙では長岡鉄道沿線の地域での支持を集め、トップ当選を果たすことになったのです。

1957年 – 39歳「大臣を歴任」

『日本列島改造論』

岸信介内閣にて郵政大臣に就任

1957年7月、第1次岸信介改造内閣が発足し、郵政大臣に任命されます。第二次世界大戦後、30代での国務大臣就任は初でした。テレビ局と新聞社の統合系列化を達成し、民放テレビ局の放送免許を郵政省の支配下に置いたのです。

1961年には政調会長、1962年には第2次池田勇人内閣で大蔵大臣を務めることになりました。その後、自民党幹事長を経験し、1968年には「都市政策大綱」を発表しました。その翌年には、当時激化していた大学紛争を鎮静させることに成功します。

「日本列島改造論」を発表

1971年、第3次佐藤栄作内閣が発足し、改造時に角栄は通商産業大臣に任命されます。同年に日米繊維交渉を決定させました。

1972年5月には佐藤栄作の派閥から田中角栄の派閥が分離し、その翌月に総選挙における政策綱領である「日本列島改造論」を発表します。そして、7月の自由民主党総裁戦で勝利をもぎ取り、第1次田中角栄内閣を発足させるのでした。この時の内閣支持率は70%前後で推移しています。

「日本列島改造論」はその年に90万部以上を売り上げ、年間ベストセラーの第4位にランクインしています。

1972年 – 54歳「首相として日本を牽引する」

第1次田中角栄内閣

日中国交正常化を実現

首相就任後の9月、中国を訪れた角栄は周恩来首相と毛沢東共産党主席に会見します。日中国交正常化への話し合いを進め、9月29日に実現することとなりました。 12月には第33回総選挙が行われ、自由民主党が過半数の議席を確保したため、第2次田中角栄内閣が発足しました。

1973年には第4次中東戦争の激化により、オイルショックが起こります。角栄はエネルギー源の輸入を中東以外の地域からも行うことを決め、対策を講じました。11月には省エネルギー政策も打ち出し、新潟県柏崎市に柏崎刈羽原子力発電所を創設することに対する資金を提供します。

田中金脈問題を受け、退陣となる

1973年末には物価上昇への政策の甘さを指摘され、支持率も20%を割るようになります。

1974年の10月には週刊誌に「田中金脈問題」について掲載され、いよいよ首相のポストが怪しくなっていくのでした。

11月には記者との会見や国会での「田中金脈問題」への追求が続いたため、総辞職を発表します。そして、12月には内閣総辞職が成立し、三木武夫内閣が発足するのでした。

1976年 – 58歳「ロッキード事件により逮捕」

ロッキード社の航空機

ロッキード社と全日本空輸の収賄事件に関与したとして逮捕される

アメリカの航空機製造メーカーであるロッキード社と全日本空輸の間で5億円の収賄容疑が浮上し、角栄が関わっていることが明らかにされ、逮捕されました。首相経験者が逮捕されるのは芦田均の1948年昭和電工事件以来約30年ぶりのことでした。

その後、1976年12月の総選挙ではトップ当選を果たしますが、自民党自体は選挙に敗れたため、内閣総辞職が行われました。そして、福田赳夫内閣が発足するのです。

ロッキード事件の判決

その後、政府は大平内閣、鈴木善幸内閣、中曽根内閣と続いていきます。その全ての内閣を田中角栄は支持することになりました。

1983年にはロッキード事件の一審判決が行われ、東京地方裁判所から実刑判決を受けることになります。刑の内容は懲役4年、追徴金5億円でした。これを不服とし、角栄は東京高等裁判所へ控訴します。この年の総選挙では、実刑判決を下された後にも関わらず、人気を集め、後続に大差をつけての当選を果たしました。

1985年 – 67歳「脳梗塞で入院し、後遺症が残る」

脳梗塞を引き起こし、言語障害、行動障害が残る

1985年2月27日に突然倒れ、病院にて脳梗塞の診断を受けます。幸い一命は取り留めましたが、言語障害などの後遺症が残り、政治活動には多大な支障をきたすこととなりました。9月にはロッキード事件の控訴審が行われましたが、出席せずに終わります。

1987年7月、ロッキード事件の控訴審判決が下されましたが、一審と結果は変わらず、懲役4年、追徴金5億円の徴収でした。角栄は即刻、最高裁判所への上告を申し出ます。

政界からの引退と娘・眞紀子の初当選

田中眞紀子

1989年には総選挙への出馬を断念する旨を発表します。そして、1990年の1月に衆議院解散が起こり、それを機に政界を引退することになったのでした。最終的な国会議員の勤続年数は43年、当選回数は16回でした。

1993年には第40回総選挙に、娘の田中眞紀子が出馬します。角栄自身も応援演説に駆けつけ、見事に初当選を勝ち取るのでした。この回の総選挙では元田中派であった細川護熙が総理大臣となっています。

1993年 – 75歳「田中角栄の死去・死因は誤嚥性肺炎」

新潟県柏崎市にある田中角栄邸 

誤嚥性肺炎により帰らぬ人に

1993年の末、誤嚥性肺炎を引き起こし、慶應義塾大学病院で治療に当たりましたが、その甲斐もなく、帰らぬ人となってしまいます。墓地は新潟県柏崎市にある田中邸の中に設けられました。

ロッキード事件に関しては最高裁判所に上告されて以降、審理の途中であったので、公訴棄却となってしまいます。しかし、2年後の1995年にはロッキード社からの5億円の受け取りが確定したため、角栄の有罪が決まったのでした。

田中角栄の関連作品

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天才

お金に関する才能と人の心をつかむ人心掌握術を巧みに利用して政界の重要なポストを駆け上がり、最終的には内閣総理大臣に就任するという華々しい生涯を描いている一冊です。田中角栄を近くで見て来た著者だからこそ盛り込める内容となっています。

田中角栄 100の言葉~日本人に送る人生と仕事の心得

多くの人々を魅了した田中角栄の言葉を100収めています。時代を駆け抜けた角栄の写真とともに紹介される言葉は現代の我々にも響きます。演説にも優れていた角栄の言葉を味わって見たい方にはぜひおすすめの一冊です。

田中角栄 戦後日本の悲しき自画像

優れた頭脳と行動力で政界を駆け上り、首相のポジションにまでついた角栄を追い続けた番記者がつづる、角栄の生涯についての書籍です。角栄の近くで取材をし続けた著者だからこそ語ることのできる、田中角栄の真実に迫っている作品です。

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田中角栄 1972年 街頭演説

田中角栄は演説力に非常に優れていました。その迫力を知ることのできる動画となっています。彼自身の感じていることを自分の言葉を用いて力強く演説しているため、心に響きます。本当に日本を変えようと思っている政治家の発する言葉には、重みが感じられるのです。

【田中角栄①】〜昭和の天才政治家の成り上がり物語〜

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本人映像で語られる 田中角栄 名言DVD

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NHKスペシャル 未解決事件 ロッキード事件(事件年表付き)

田中角栄が関わった「ロッキード事件」について描いています。第一部、第二部ではロッキード事件の舞台裏を描き、第三部では事件から40年目にしてわかった真実などを取材によって明らかにしました。松重豊、国広富之、眞島秀和など豪華キャストを起用しており、見応え抜群です。

田中角栄についてのまとめ

田中角栄は貧しい家庭の出身で、高等小学校までしか教育を受けることができませんでしたが、年を若くして大臣を務め、内閣総理大臣まで上りつめるなど輝かしい出世コースを歩みました。

一方でお金に関する事件に巻き込まれ、裁判沙汰になることもありましたが、没後30年経った今でも、彼の業績を讃える声は多くあります。

今回は田中角栄についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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