田中角栄の簡単年表
1918年5月4日、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に田中角栄が誕生しました。父・田中角次と母・フメの間に次男として生まれます。兄弟は8人いましたが、長男が早くに亡くなり、そのほかは6人とも女の子だったので、唯一の男の子として育てられました。
角栄は2歳の時にジフテリアに罹患し、その後遺症で吃音症になります。その矯正方法には浪花節を歌うという手法を用いました。また、幼少期は父の事業失敗により貧しい生活を余儀無くされていました。
15歳で二田高等小学校を卒業すると、土木工事現場で働き始めます。しかし、1ヶ月ほどで辞めてしまい、柏崎にある土木派遣所に努めるようになりました。角栄の最終学歴は高等小学校ですが、家が貧しかったことが理由で旧制中学校への進学を断念したようです。
理化学研究所の書生として採用するとの連絡を受け、上京しますが、話が伝わっておらず、採用は見送られてしまいます。中央工学校に通いながら住み込みで働くようになりました。
中央工学校を卒業すると、建築事務所に勤めることとなります。翌年には独立して、自身の建築事務所を設立します。事務所の経営をしながら、商業学校で商事実務も学んでいました。
徴兵検査で合格し、騎兵として陸軍騎兵連隊に入営します。翌1939年には満州国で兵役に就くこととなりました。
クルップ性肺炎を発症したため、軍を除隊することとなり、帰還後は飯田橋に田中建築事務所を設立します。そして事務所の家主の娘であった坂本はなと結婚しました。1男1女をもうけましたが、長男の正法は4歳で亡くなります。
1945年に進歩党代議士の大麻唯男に献金を行ったことをきっかけに、大麻の推薦により衆議院選挙に立候補することを決めます。しかし、結果は落選(37人中11番目)でした。
4月、日本国憲法による最初の総選挙(第23回総選挙)に新潟3区から出馬し、見事に当選(12人中3番目)を果たします。11月には民主党を離れ、同志クラブ(民主クラブ)を結成しました。
10月、芦田内閣が総辞職し、後継首相に吉田茂が就くこととなります。この第二次吉田内閣で角栄は法務政務次官として勤務することになりました。しかし、炭鉱国家管理疑惑が浮上し、角栄は逮捕されてしまいます。この疑惑は1951年の高等裁判所二審にて逆転無罪となるのでした。
1949年の衆院選挙に獄中立候補し、当選を勝ち取ったため、国会議員を継続します。衆議院建設委員会に入り、生活インフラの整備や国土の開発に取り組みました。この間に多くの議員立法が行われましたが、このうちの33本に角栄が関わることになります。
1952年には道交法改正、1953年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」を提出し、ガソリン税を道路特定財源にすることを取り決めました。1954年には自由党副幹事長となり、吉田茂の側近として捉えられるようになります。
7月、第1次岸信介改造内閣が発足し、角栄は郵政大臣に就任しました。テレビ局と新聞社の統合系列化を果たし、放送免許を郵政省の支配下に置くこととなります。
7月に自由民主党政務調査会長に就任します。幹事長、総務会長、選挙対策委員長と合わせて党4役と言われるポジションについたのです。
7月、第2次池田勇人内閣が発足し、角栄は大蔵大臣に任命されます。このまま、第1次佐藤栄作内閣まで続けて大蔵大臣を務めることとなりました。
6月、大蔵大臣を辞任して、自由民主党幹事長に就きました。
自民党都市政策調査会長として都市政策大綱を発表します。翌年には大学管理法成立に尽力し、大学紛争を収束させました。
7月、第3次佐藤栄作内閣の改造時に通商産業大臣に就任します。10月には日米繊維交渉を成立させました。
5月、佐藤栄作の派閥から田中角栄の派閥が分離し、その翌月に角栄が「日本列島改造論」を発表します。7月には福田赳夫を破って自由民主党総裁に就任し、第1次田中角栄内閣が発足しました。当初の支持率は70%前後でした。
9月には中国を訪問し、周恩来首相と毛沢東共産党主席と会談を行います。そして、9月29日、日中国交正常化が締結されました。12月には総選挙が行われ、自由民主党が議席を過半数確保したため、第2次田中角栄内閣が発足しました。
10月、第四次中東戦争の激化から第一次オイルショックが発生します。角栄は中東地域以外からもエネルギー源を確保できるように手配をします。12月には物価上昇に歯止めがかからず、経済政策の失敗を囁かれ、内閣支持率が20%を割るようになってしまいます。
東南アジアやメキシコを訪れ、精力的に外交をこなしていきますが、10月に週刊誌が「田中金脈問題」をすっぱ抜きます。これが原因となり、12月に内閣総辞職を行い、三木武夫内閣が発足したのでした。
アメリカの航空機メーカーのロッキード社から全日本空輸に対する国際的収賄疑惑が浮上します(ロッキード事件)。5億円の受託収賄罪と外国貿易管理法違反の容疑によって角栄は逮捕されることとなりました。首相経験者として逮捕されたのは1948年の芦田首相以来のことでした。
10月に東京地方裁判所にてロッキード事件の一審判決が行われました。結果は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決でしたが、判決を受けたその日に控訴を決めます。12月の総選挙では新潟3区から立候補し、他の候補者に大差をつけての当選を勝ち取りました。
2月に脳梗塞で倒れ、入院を余儀なくされます。後遺症としてうまく話せない、体が動かせないなどの機能障害が残ったため、政治活動が絶望的となりました。
7月にロッキード事件の二審判決が行われ、東京高等裁判所が一審判決をそのまま言い渡しました。そのため、角栄は上告を申請します。
1989年10月に角栄が次期総選挙へ出馬しないことを表明します。1990年1月に衆議院解散となり、それと同時に角栄も政界を引退することとなりました。
第40回総選挙で娘である田中眞紀子が新潟3区から出馬し、角栄も応援演説に駆けつけます。そして、見事に初当選を果たしました。
12月16日、慶應義塾大学病院にて誤嚥性肺炎により帰らぬ人となります。ロッキード事件に関しては公訴棄却となりました。
田中角栄の年表
1918年 – 0歳「新潟県にて田中角栄誕生」
現在の新潟県柏崎市に次男として誕生
田中角栄は新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に誕生します。兄弟は角栄を合わせて8人いましたが、長男が幼くして亡くなってしまったので、1男6女の女兄弟の中で育ちました。
父・田中角次は農家かつ牛馬商を営んでおり、種牛の輸入や養殖業など様々な事業にも手を出しましたが、失敗してしまいます。そのため、角栄の幼少期は貧しい生活となりました。母・フメは生活を支えるために働きづめであったため、角栄はおばあさんによく面倒を見てもらっていたそうです。
角栄が2歳の時にはジフテリアに感染し、後遺症として吃音症を患ってしまいます(浪花節の練習で矯正したため小学校入学時には完治)。
二田高等小学校へ
小学校の課程を修了すると二田高等小学校へと進学します。勉学には優れていたため、クラスの学級委員長を毎年任され、卒業式には代表として答辞を読んだそうです。1933年、角栄が15歳の時に高等小学校の課程を終えましたが、家が貧乏であったために旧制中学校への進学は叶わず、就職することとなりました。
高等小学校卒業後に土木工事現場で1ヶ月働いた後、柏崎の土木派遣所へ移動します。そこで1年ほど働くことになったのでした。
1934年 – 16歳「上京して建築事務所に勤めるようになる」
書生になるべく上京
理化学研究所から書生に採用するとの連絡が入り、角栄は上京を決心します。しかし、実際には話が伝わっておらず、見送りとなってしまいました。結局、住み込みで働きながら、中央工学校の土木科へ通うこととなります。
中央工学校卒業後は建築事務所に勤めるようになり、そのかたわらで商業を学びました。1938年には徴兵が行われ、陸軍騎兵連隊へ配属となり、その翌年には満州国で兵役を務めます。
田中建築事務所の設立、そして結婚
陸軍に所属し、兵役をこなしていましたが、肺炎にかかったため、帰国することになります。帰国後には飯田橋に田中建築事務所を開設しました。そして、事務所の家主の娘であった坂本はなと結婚することになったのです。
角栄と坂本はなの間には長男・正法、長女・眞紀子が生まれますが、正法は4歳で亡くなってしまいます。長女・眞紀子は後年、父・角栄の後を継いで政治家となるのでした。
1946年 – 28歳「国政へ進出」
第22回衆議院総選挙に出馬し、政界進出を目指す
1946年、進歩党代議士へ献金を行ったことをきっかけに衆議院総選挙へ推薦され、立候補することとなりますが、この時は落選となりました。翌年の1947年には第23回総選挙に新潟3区から出馬し、見事に初当選を果たします。
当選後、臨時石炭鉱業管理法に関して本会議で反対票を投じ、民主党を離党します。そして、ともに離党した議員とともに同志クラブ(民主クラブ)を結成します。民主クラブは1948年に日本自由党と合併し、民主自由党となりました(党首は吉田茂)。
炭鉱国家管理疑惑により逮捕される
1948年10月に第2次吉田内閣が発足すると、角栄は法務政務次官に任命されます。しかし、炭鉱国家管理法案を巡り、賄賂の授受があったとの疑惑が生じ、角栄は逮捕されました(1951年に逆転無罪)。
第24回衆議院総選挙には東京拘置所からの出馬となります。1949年1月に保釈されてから10日間の選挙活動であったにも関わらず、2位で当選しました。角栄を主に支持していたのは下層階級の人々や若い世代でした。
1954年 – 36歳「自由党副幹事長に就任」
議員立法33本に関わる
衆議院議員再選後は建設委員会に所属し、生活インフラの整備などに力を入れていきます。その間、数多くの議員立法が行われましたが、角栄はそのうちの33本に関与しました。代表的なものは公営住宅法、建築士法、道路法の改正などです。
1952年には道路法の改正が成立し、国道への国費使用のハードルを下げ、民衆の意見を取り入れるように計らいました。1953年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」を提出し、ガソリン税相当分を道路特定財源として利用できるようにします。
1954年には吉田茂13人衆に数えられるようになり、自由党副幹事長に任命されています。
長岡鉄道の社長に就任
角栄は政界以外でも活躍しており、1950年には長岡鉄道の社長に就任しています。路線の存続や電化への移行を委託されたため、元鉄道省の重鎮達に声をかけるなどして、それらを実現させるのでした。
この結果、1952年の選挙では長岡鉄道沿線の地域での支持を集め、トップ当選を果たすことになったのです。
1957年 – 39歳「大臣を歴任」
岸信介内閣にて郵政大臣に就任
1957年7月、第1次岸信介改造内閣が発足し、郵政大臣に任命されます。第二次世界大戦後、30代での国務大臣就任は初でした。テレビ局と新聞社の統合系列化を達成し、民放テレビ局の放送免許を郵政省の支配下に置いたのです。
1961年には政調会長、1962年には第2次池田勇人内閣で大蔵大臣を務めることになりました。その後、自民党幹事長を経験し、1968年には「都市政策大綱」を発表しました。その翌年には、当時激化していた大学紛争を鎮静させることに成功します。
「日本列島改造論」を発表
1971年、第3次佐藤栄作内閣が発足し、改造時に角栄は通商産業大臣に任命されます。同年に日米繊維交渉を決定させました。
1972年5月には佐藤栄作の派閥から田中角栄の派閥が分離し、その翌月に総選挙における政策綱領である「日本列島改造論」を発表します。そして、7月の自由民主党総裁戦で勝利をもぎ取り、第1次田中角栄内閣を発足させるのでした。この時の内閣支持率は70%前後で推移しています。
「日本列島改造論」はその年に90万部以上を売り上げ、年間ベストセラーの第4位にランクインしています。