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ミースファンデルローエの生涯・年表まとめ【作品から名言、死因まで】

ミースファンデルローエは近代建築の三大巨匠の1人に数えられます。自由な空間と自然の調和を重視した「ユニバーサル・スペース」を提唱し、それを元に作られた「ファンズワース邸」は近代建築の傑作と呼ばれています。

バルセロナ・パビリオン

他にも、2001年に世界文化遺産に登録された「トゥーゲントハット邸」や1929年のバルセロナ万博の時に設計した「バルセロナ・パビリオン」なども代表作としてあげられ、それぞれの建物に合わせたデザインの椅子も製作しました。

ミースファンデルローエ

ミースファンデルローエが主に活躍していた時代から約100年が経過しようとしていますが、いまだに彼の作品を鑑賞する人は後を断ちません。その後多くの建築家が誕生しているにも関わらず、なぜこれほどまでに人を惹きつけるのでしょうか。

ミースファンデルローエの設計したファンズワース邸に魅了され、その建築コストの高さに驚き、訴訟を起こされたという逸話に「そりゃそうだろうな」と納得し、その後彼の文献を読み漁った筆者が、ミースファンデルローエの生涯、名言、エピソードなどについてご紹介します。

ミースファンデルローエとはどんな人物か

ミースファンデルローエ 切手
名前ルートヴィヒ・ミースファンデルローエ
誕生日1886年3月27日
没日1969年8月17日
生地ドイツ帝国(プロイセン王国)
アーヘン
没地アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
配偶者アダ・ブルーン
埋葬場所アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
グレースランド墓地

ミースファンデルローエの生涯をハイライト

ミースファンデルローエの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • ドイツのアーヘンという街に石工の息子として誕生。
  • 普通教育終了後、製図工の教育を受ける。
  • 建築事務所に所属し、1907年、最初の作品「リール邸」の設計を担当する。
  • 1913年、27歳の時にアダ・ブルーンと結婚し、娘をもうける。
  • 1929年、バルセロナ万博でパビリオンを設計する。
  • バウハウス(モダニズムの祖となる美術学校)の第3代校長に抜擢。
  • 世界遺産「トゥーゲントハット邸」と近代建築の傑作「ファンズワース邸」の設計。
  • 各国(イギリス、アメリカ、ドイツ)の建築家協会より、功績を讃えて、ゴールドメダルが贈られる。
  • 1969年、シカゴの病院にて食道癌で亡くなる。享年83歳。

ミースファンデルローエの建築物の特徴とは?

ユニバーサル・スペース 「ファンズワース邸」

ミースファンデルローエの建築物の特徴としては「ユニバーサル・スペース」という構造が挙げられます。代表作の「ファンズワース邸」をはじめ、イリノイ大学の「クラウン・ホール」、1958年にニューヨークに建てられた「シーグラムビル」などに採用されています。

「ユニバーサル・スペース」とは、床と天井を柱のみでつないで広々とした空間を確保し、どのような用途にも使える場所として提供されるスペースのことです。その住宅に住む人が自由にアレンジできるようなシンプルな空間にすることと、自然と調和できる開放的な空間にすることを目指しました。

ミースファンデルローエの主な作品は?

ミースファンデルローエの主な作品として2つご紹介します。ミースファンデルローエの代表作にして「20世紀最高の建築」と呼ばれる「トゥーゲントハット邸」とほぼ同時期にバルセロナ万博のために作られた「バルセロナ・パビリオン」です。

トゥーゲントハット邸

「トゥーゲントハット邸」はル・コルビュジエが提唱した「近代建築の5原則」のなかで「自由な平面」を全面に押し出した建築です。壁で部屋を仕切らず、平面的な空間を自由に使えるようにした構造が特徴となっています。「トゥーゲントハット邸」は2001年に世界遺産に登録されました。

バルセロナ・パビリオン

「バルセロナ・パビリオン」は鉄とガラスを基調として作られた建物で、外壁には大理石が用いられました。「ユニバーサル・スペース」も設けられており、そこには建物に合わせて作られた「バルセロナ・チェア」が配置してあります。

ミースファンデルローエが校長を務めた「バウハウス」とは?

バウハウス

バウハウスは1919年に創立した工芸・デザインなどを専門に扱う学校です。モダニズム建築の先駆けとなった教育機関で、当時はその先進的な活動が話題を呼び、建築家たちに多大な影響を及ぼしました。

バウハウスで学ぶ建築学は近代建築の合理主義、機能主義に基づいており、当時の建築業界の大量生産の精神にも適していたのです。

2代目の校長が近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスで、ミースファンデルローエとは親交が深かったため、彼を3代目の校長として推薦したのでした。

ミースファンデルローエの功績

功績1「近代建築の三大巨匠の1人」

近代建築の三代巨匠の1人 フランク・ロイド・ライトの「グッゲンハイム美術館」

ミースファンデルローエは近代建築の三代巨匠の1人として挙げられています。他の2人はル・コルビュジエとフランク・ロイド・ライトです。ここにバウハウス第2代校長であるヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠と呼ばれることもありました。

三代巨匠はそれぞれ、ミースファンデルローエが「ユニバーサル・スペース」、ル・コルビュジエが「近代建築の5原則」、フランク・ロイド・ライトが「プレーリー・スタイル」という様式を確立し、その全てがその後の建築に多大な影響を与えているのです。

功績2「『トゥーゲントハット邸』が世界遺産に登録 」

トゥーゲントハット邸 内部

「トゥーゲントハット邸」は実業家のフリッツ・トゥーゲントハットのために1930年に作られた邸宅で、ミースファンデルローエの代表作、かつ、モダニズム建築の象徴として知られています。1963年に歴史的文化財の指定を受け、2001年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

「近代建築の5原則」の要素の一つである「自由な平面」を重視して作られた建物で、内部もシンプルな構造をしており、住む人によって自由に用途を設定できる構造となっています。この邸宅に合わせて設計された椅子は「トゥーゲントハット・チェア」と呼ばれ、現在でも人気の商品となっています。

功績3「多数の勲章受賞歴」

大統領自由勲章を授かるタイガーウッズ

ミースファンデルローエは建築業界に与えた影響を讃えて、多くの勲章を授与されています。

以下にその内容をまとめます。

  • 1959年:ロイヤル・ゴールドメダル
  • 1960年:1960年アメリカ建築家協会(AIA) ゴールドメダル
  • 1961年:イギリス王立建築家協会(RIBA) ゴールドメダル
  • 1963年:大統領自由勲章
  • 1966年:ドイツ建築家協会 ゴールドメダル

1963年に受章したアメリカ大統領自由勲章は各界のスターに授与されており、写真にあるタイガーウッズをはじめ、マザー・テレサ、ウォルト・ディズニーなども受章しています。

ミースファンデルローエの名言

「より少ないことは、より豊かなこと(Less is more.)」

この言葉の前には「私はいたずらにアイデアを詰め込みません。」という文章が入ります。ミースファンデルローエの提唱した「ユニバーサル・スペース」は何もない自由な空間を多く確保することにより、そこに住む人の選択肢を大幅に広げました。

「神は細部に宿る(God is in the detail.)」

建築物はどうしても外観に目が行ってしまいがちですが、ミースファンデルローエをはじめとするモダニズム建築家が求めたのは、「外側はシンプルに、しかし、人が住みやすいような構造に隅々までこだわる。」という思想でした。

「過去を見ていたら、前進することはできません。」

ミースファンデルローエは近代建築の三大巨匠の1人と言われています。彼らの推進したモダニズムは今までの建築物に重きを置く考え方を否定し、より人間が住みやすいデザインを作ることを大切にしていました。過去の考えにとらわれていたらモダニズムは提唱されていなかったかもしれません。

ミースファンデルローエの人物相関図

近代建築の三大巨匠

ミースファンデルローエにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「代表作『ファンズワース邸』が高額すぎて訴訟を起こされた」

訴訟 イメージ

「ファンズワース邸」はミースファンデルローエの代表作として知られていますが、元々は女医のエディス・ファンズワースのために作られた邸宅なのです。ファンズワース氏が、「休日に利用する別荘として建てて欲しい」と依頼してきたことがきっかけで設計されました。

大量のドル札

しかし、一流のデザインで、自然との調和を考え、さらに住みやすさも重視するという欲張りな計画を建てたために、建築費用が非常に高くなり、訴訟を起こすまでに発展してしまいます。裁判の結果、ミースファンデルローエ側が勝訴するのですが、近代建築の傑作を生み出すまでに膨大なコストがかかったことは心に留めておきたいですよね。

ちなみに、価格は当時のお金で7万3000ドル、現在の日本円に換算すると約10億円になります。

都市伝説・武勇伝2「建築物に合わせた椅子も開発し、人気商品となる」

バルセロナ・チェア

ミースファンデルローエは建築物を設計する際に、その建物に合わせたデザインの椅子も設計しています。

一番有名なのはバルセロナ・チェアで、1929年のバルセロナ万博の時に製作されました。日本でも、ニトリや大塚家具で購入することができます。

トゥーゲントハット・チェア

同じく人気の椅子は「トゥーゲントハット・チェア」です。一見、「バルセロナ・チェア」と同じデザインに見えますが、脚の形が微妙に異なります。

ブルーノ・チェア

最後に、一番シンプルなデザインの椅子が「ブルーノ・チェア」です。こちらの家具もシックな部屋にちょうど良いデザインで、根強い人気を誇っています。

ミースファンデルローエの簡単年表

1886年 - 0歳
ミースファンデルローエの誕生

ルートヴィヒ・ミースファンデルローエはドイツのアーヘンに誕生しました。父は石工のミヒャエル・ミース、母はアマーリエで、母親の旧姓がローエであったため、ミースファンデルローエと名乗るようになります。

1900年 - 14歳
カテドラルスクール普通教育の修了後、職業訓練学校へ

アーヘンにあるカテドラルスクール(聖堂学校)に通い、普通教育を受けます。同校を卒業後に職業訓練学校へ進学し、製図工の教育を受けました。

1905年 - 19歳
工芸家ブルーノ・パウルのもとで建築を学ぶ

工芸家ブルーノ・パウルの事務所に勤務し、建築を学ぶようになります。1907年には仕事仲間の紹介で「リール邸」の設計を担当しました。この設計が評価されることとなり、建築家のペーター・ベーレンスの事務所に招かれることになります。

1908年 - 22歳
ペーター・ベーレンスの事務所で働く

ベーレンスの事務所では製図工として働くことになります。そのかたわらで建築についての勉強も怠りませんでした。

1912年 - 26歳
自身の事務所を開設

4年間、ベーレンスの事務所で建築について学び、1912年に晴れて自分の事務所を構えることになります。

1913年 - 27歳
アダ・ブルーンと結婚

27歳の時にアダ・ブルーンと結婚し、娘・ジョージアを授かります。ミースファンデルローエはこの年、アダの紹介によりドイツのベルリンに位置する富裕層の住宅の設計を手がけました。

1914年 - 28歳
兵役で第一次世界大戦へ参加

この頃に勃発した第一次世界大戦に兵士として参加することになります。

1921年 - 35歳
フリードリッヒ街事務所の設計

フリードリッヒのオフィスビル案を計画しますが、結局実現しませんでした。戦争から帰国後、初めての大掛かりな設計でした。

1927年 - 41歳
シュトゥットガルト住宅展に参加

ドイツ工作連盟副会長であったミースファンデルローエは、シュトゥットガルト住宅展に参加し、ヴァルター・グロピウス、ルコルビュジエらとともに実験的な集合住宅を建設することになりました。

1929年 - 43歳
バルセロナ万博のパビリオンを設計

1929年に開かれたバルセロナ万国博覧会でバルセロナ・パビリオンを設計しました。バルセロナ・パビリオンは鉄とガラスと大理石でできており、モダニズムの象徴として認知されています。

1930年 - 44歳
バウハウスの校長に

ヴァルター・グロピウスの後を継いで、バウハウス(モダニズムの源流となった教育機関)の第3代校長に任命されました。3年後にはバウハウスをベルリンへと移しますが、ナチスの支配下に置かれ、閉鎖されることになります。

1938年 - 52歳
アーマー工科大学の建築学科に新しい教育課程を作る

1938年から1958年まで20年間に渡って、アーマー工科大学(のちのイリノイ工科大学)の建築学科の主任教授を任せられ、新たな建築の教育課程を作ることになりました。後年、クラウン・ホールをはじめとするキャンパス設計にも携わることになります。

1950年 - 64歳
「ファンズワース邸」の設計

ミースファンデルローエの代表作と言われる「ファンズワース邸」の設計を行います。ガラス張りの建物に「ユニバーサル・スペース」という概念を取り入れた画期的なデザインとなっています。

1959年 - 73歳
ロイヤル・ゴールデンメダルを受賞

今までの功績を讃えて、ロイヤルゴールデンメダルを授与されました。その後、アメリカ建築家協会、イギリス王立建築家協会、ドイツ建築家協会からも金メダルを受けます。

1969年 - 83歳
シカゴにて亡くなる・死因は食道癌

1969年8月17日、アメリカ・イリノイ州シカゴの病院にてミースファンデルローエは亡くなりました。死因は食道癌です。墓はシカゴのグレースランド墓地に設けられました。

ミースファンデルローエの年表

1886年 – 0歳「ドイツのアーヘンにてミースファンデルローエ誕生」

ミースファンデルローエの生誕地 ドイツ アーヘン

石工の息子として誕生

ミースファンデルローエはドイツ(プロイセン王国)アーヘンにて生を受けます。父親はミヒャエル・ミースで、墓石や暖炉などの石を作る石工として働いていました。母親はアマーリエ・ミースと言い、旧姓がローエだったため、息子はミースファンデルローエと名付けたのです。

幼少期は地元のカテドラルスクール(聖堂学校)に通い、普通教育を受けることになります。これを無事に修了すると、職業訓練学校に入り、製図工の教育を受けました。卒業後は工芸家ブルーノ・パウルの事務所に勤務することになります。

1907年 – 21歳「人生初の建築『リール邸』の設計」

リール邸

自身初の作品「リール邸」の設計

ブルーノ・パウルの事務所で知り合った仕事仲間から「リール邸」の設計をするように紹介を受けます。これを引き受け、ミースファンデルローエ自身初となる建築物の設計を行うことになりました。この仕事が功を奏し、翌年にはペーター・ベーレンスの事務所へ引き抜かれることになります。

ペーター・ベーレンスの事務所に

ペーター・ベーレンス

1908年、ペーター・ベーレンスの事務所に異動となります。製図工として働き始め、仕事のかたわらでベーレンスから建築について学び、教養を深めていきます。そして、ベーレンスの事務所に勤めてから4年後の1912年に、自分の事務所を構えることとなるのでした。

1913年 – 27歳「アダ・ブルーンとの結婚」

結婚 イメージ画像

アダ・ブルーンと結婚し、1女をもうける

1913年にアダ・ブルーンと結婚し、その後女の子が生まれます。名前はジョージア・ファンデルローエと名付けました。ジョージアは後年、ドイツのダンサーや女優として活躍することになります。

アダ・ブルーンと結婚後、彼女の紹介により、ドイツ・ベルリンにある高級住宅街の建物の設計を引き受けることになりました。

1927年 – 41歳「シュトゥットガルト住宅展に参加」

シュトゥットガルト住宅展の実験的集合住宅

近代建築の巨匠らとともに集合住宅を実験的に建築

ドイツ工作連盟の副会長であったミースファンデルローエはシュトゥットガルト住宅展に参加し、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエら近代建築の巨匠らとともに集合住宅の建築について話し合いをしました。

ヴァイセンホーフ・ジードルング 現在も公開されているル・コルビュジエの作品

のちに実験的に集合住宅を建築することになります。合計で17人の建築家が参加し、全部で33棟が建てられました。この住宅群を「ヴァイセンホーフ・ジードルング」と名付け、今でも観覧できる建物もあります。

バルセロナ万博でパビリオンの設計

バルセロナ・パビリオン

1929年に開催されたバルセロナ万国博覧会にてミースファンデルローエはパビリオンの制作を任されました。完成したバルセロナ・パビリオンは鉄、ガラス、大理石を用いて建設され、モダニズム建築を見事に表した建造物として注目を集めることになります。

バルセロナ・チェア

この時に、パビリオンに合うデザインの椅子も設計しており、「バルセロナ・チェア」として人気を集めました。パビリオンは現在、当時の構造を復元し、「ミースファンデルローエ記念館」として保存されています。

1930年 – 44歳「バウハウスの第3代校長に任命される」

バウハウスのあるドイツ・ヴァイマル

ヴァルター・グロピウスの推薦を受けてバウハウス第3代校長に

バウハウスは工芸やデザインなど、美術と建築に関する教育を行う学校で、モダニズムの源流ともなった教育機関です。第2代校長として、近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスが仕切っていましたが、第3代校長を任命する際に、グロピウスと親交の深かったミースファンデルローエを校長へ推薦したのです。

ヴァルター・グロピウス

晴れてバウハウスの校長となったミースファンデルローエは3年後に校舎をベルリンへと移します。しかし、当時のベルリンはナチスの支配下となっていたので、バウハウスもナチスの統制下に追いやられてしまい、最終的には閉鎖されることとなってしまいました。

「トゥーゲントハット邸」の設計

トゥーゲントハット邸

のちに世界文化遺産に登録される「トゥーゲントハット邸」の設計を1929年に行います。「トゥーゲントハット邸」はチェコスロバキアのブルノという街に建てられた、モダニズム建築の象徴として知られる邸宅で、機能主義・合理主義的建築の中で最も美しいとされています。

1963年には歴史的文化財に指定され、2001年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

1938年 – 52歳「アーマー大学で教鞭をとるようになり、建築学科の教育課程を作る」

イリノイ工科大学(前身:アーマー大学)

アーマー大学建築学科の主任教授に

ミースファンデルローエは1938年から1958年までアーマー大学(現:イリノイ工科大学)で建築学科の教授として講義を行いました。その間に主任教授に登りつめ、写真家のヴァルター・ペーターハンと建築家のルードヴィヒ・ヒルベルザイマーとともに建築の教育課程を編成します。

クラウン・ホール

また、キャンパス内の建物の設計にも携わり、クラウン・ホールをはじめとして、礼拝堂や学生食堂、宿舎に至るまで数多くの建物のデザインを考えたのでした。

「ファンズワース邸」の設計

ミースファンデルローエの代表作である「ファンズワース邸」の設計を行います。これは自身最後の住宅作品となりました。クラウン・ホールにも使用されている「ユニバーサル・スペース」を「ファンズワース邸」にも取り入れ、住み方の自由度を増すとともに、自然環境へも溶け込むという2つの大きなメリットを同時に達成しています。

ファンズワース邸

「ファンズワース邸」は建築費用が非常に高くなってしまったことにより、施主との間に訴訟が起こりました。

1959年 – 73歳「数々の賞を受賞する」

AIAゴールドメダル

各国から賞を受ける

1959年にロイヤル・ゴールドメダルを受賞したことを皮切りに、1960年アメリカ建築家協会(AIA)の金メダル、1961年イギリス王立建築家協会(RIBA)の金メダル、1966年ドイツ建築家協会の金メダルを受賞しています。

1963年にはアメリカ大統領自由勲章も受章しており、同章はマザー・テレサ、モハメド・アリ、ウォルト・ディズニーなどのそうそうたるメンバーも受賞しています。

1966年、80歳の時にはイリノイ工科大学より名誉学位も受けています。

1969年 – 83歳「ミースファンデルローエ死去・死因は食道癌」

ミースファンデルローエの没した地 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

シカゴで帰らぬ人に 死因は食道癌

80代になってもニューナショナル・ギャラリー、ドミニオン・センターの設計など、精力的に建築家としての活動を行っていましたが、1969年8月17日にシカゴの病院にて食道癌で亡くなります。享年83歳でした。墓地はシカゴのグレースランドに設けられています。

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ミース・ファン・デル・ローエ

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建築のしくみ 住吉の長屋/サヴォア邸/ファンズワース邸/白の家

「住吉の長屋」、「サヴォア邸」、「ファンズワース邸」、「白の家」の4つ建築物を図面・模型・3DCGを用いて建築の仕組みを解説しています。それぞれが特徴を持っており、どのような部分が世界に評価されているのかがよくわかる書籍となっています。

おすすめの作品集・図面集

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GAディテール No.1改訂新版―ファンズワース邸 MIES VAN DER ROHE/farnsworth house (GA DETAIL)

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世界現代住宅全集 24 ミース・ファン・デル・ローエ トゥーゲントハット邸

2001年に世界文化遺産に登録された「トゥーゲントハット邸」を写真とともに紹介しています。約35cm×25cmの大きさがあるため、写真に迫力があり、細かいところまで鑑賞することができます。修復された後の綺麗な状態で写真を取られているため、非常に価値のある一冊です。

おすすめの作品

ブルーノチェア ミース・ファンデルローエ 本皮仕様 ブラック ダイニングチェア カウンターチェア

ミースファンデルローエが1930年にデザインした椅子で、90年近くが経った現在でも多くの人に愛されています。イタリア製の本革とスチールバーを使っており、シンプルなデザインが高級感を引き立たせています。

バルセロナチェア ミースファンデルローエ 総本革イタリアンレザー仕様 ブラック 黒 BARCELONA Chair 北欧家具 デザイナーズ リプロダクト

1929年のバルセロナ万博の時に、パビリオンとともに製作された椅子です。製作から100年近くが経つ現在でも多数の支持を集めています。シンプルなデザインのため、どんな場所においても馴染むおすすめの逸品です。

レゴ (LEGO) アーキテクチャー ファンズワース邸 21009

「ファンズワース邸」をレゴブロックで再現した商品です。ミースファンデルローエが設計した20世紀最高の住宅とも言われる作品を忠実に表現しています。子供と一緒に遊びながら楽しんだり、完成した作品の細部に見とれたりしてみてください。

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ミース・ファン・デル・ローエ

ミースファンデルローエの生涯を映像化した作品です。幼少期にドイツで育ちながら、ナチスに追われてアメリカへ移住し、そこで多くの作品を手がけるとともに、新しい建築家を育てた彼の一生についてドキュメンタリー形式で紹介しています。

Sarah Morris “Points on a Line” HD

海外の動画ですが、映像と音楽だけなので、英語がわからなくても楽しむことができます。「ファンズワース邸」を動画で紹介しており、周囲の風景とともに写っているので、どのような環境に、どのような佇まいで建っているのかがよく分かる映像となっています。

ミースファンデルローエについてのまとめ

ミースファンデルローエは1907年に「リール邸」を設計したのを皮切りに数々の近代建築の傑作を作り上げ、「近代建築の三大巨匠」と呼ばれるまでになりました。彼の作品は建物だけにとどまらず、設計した作品に調和するような椅子もデザインしたのです。これは現在でも根強い人気を誇り、世界中で愛されています。

最期は食道癌により帰らぬ人となってしまいますが、その後の建築業界に与えた影響は多大なものでした。そしていまだに人々を魅了してやまないのです。

今回はミースファンデルローエについてご紹介しました。今回の記事でさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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