ミースファンデルローエの生涯・年表まとめ【作品から名言、死因まで】

ミースファンデルローエは近代建築の三大巨匠の1人に数えられます。自由な空間と自然の調和を重視した「ユニバーサル・スペース」を提唱し、それを元に作られた「ファンズワース邸」は近代建築の傑作と呼ばれています。

バルセロナ・パビリオン

他にも、2001年に世界文化遺産に登録された「トゥーゲントハット邸」や1929年のバルセロナ万博の時に設計した「バルセロナ・パビリオン」なども代表作としてあげられ、それぞれの建物に合わせたデザインの椅子も製作しました。

ミースファンデルローエ

ミースファンデルローエが主に活躍していた時代から約100年が経過しようとしていますが、いまだに彼の作品を鑑賞する人は後を断ちません。その後多くの建築家が誕生しているにも関わらず、なぜこれほどまでに人を惹きつけるのでしょうか。

ミースファンデルローエの設計したファンズワース邸に魅了され、その建築コストの高さに驚き、訴訟を起こされたという逸話に「そりゃそうだろうな」と納得し、その後彼の文献を読み漁った筆者が、ミースファンデルローエの生涯、名言、エピソードなどについてご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ミースファンデルローエとはどんな人物か

ミースファンデルローエ 切手

名前ルートヴィヒ・ミースファンデルローエ
誕生日1886年3月27日
没日1969年8月17日
生地ドイツ帝国(プロイセン王国)
アーヘン
没地アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
配偶者アダ・ブルーン
埋葬場所アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
グレースランド墓地

ミースファンデルローエの生涯をハイライト

ミースファンデルローエの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • ドイツのアーヘンという街に石工の息子として誕生。
  • 普通教育終了後、製図工の教育を受ける。
  • 建築事務所に所属し、1907年、最初の作品「リール邸」の設計を担当する。
  • 1913年、27歳の時にアダ・ブルーンと結婚し、娘をもうける。
  • 1929年、バルセロナ万博でパビリオンを設計する。
  • バウハウス(モダニズムの祖となる美術学校)の第3代校長に抜擢。
  • 世界遺産「トゥーゲントハット邸」と近代建築の傑作「ファンズワース邸」の設計。
  • 各国(イギリス、アメリカ、ドイツ)の建築家協会より、功績を讃えて、ゴールドメダルが贈られる。
  • 1969年、シカゴの病院にて食道癌で亡くなる。享年83歳。

ミースファンデルローエの建築物の特徴とは?

ユニバーサル・スペース 「ファンズワース邸」

ミースファンデルローエの建築物の特徴としては「ユニバーサル・スペース」という構造が挙げられます。代表作の「ファンズワース邸」をはじめ、イリノイ大学の「クラウン・ホール」、1958年にニューヨークに建てられた「シーグラムビル」などに採用されています。

「ユニバーサル・スペース」とは、床と天井を柱のみでつないで広々とした空間を確保し、どのような用途にも使える場所として提供されるスペースのことです。その住宅に住む人が自由にアレンジできるようなシンプルな空間にすることと、自然と調和できる開放的な空間にすることを目指しました。

ミースファンデルローエの主な作品は?

ミースファンデルローエの主な作品として2つご紹介します。ミースファンデルローエの代表作にして「20世紀最高の建築」と呼ばれる「トゥーゲントハット邸」とほぼ同時期にバルセロナ万博のために作られた「バルセロナ・パビリオン」です。

トゥーゲントハット邸

「トゥーゲントハット邸」はル・コルビュジエが提唱した「近代建築の5原則」のなかで「自由な平面」を全面に押し出した建築です。壁で部屋を仕切らず、平面的な空間を自由に使えるようにした構造が特徴となっています。「トゥーゲントハット邸」は2001年に世界遺産に登録されました。

バルセロナ・パビリオン

「バルセロナ・パビリオン」は鉄とガラスを基調として作られた建物で、外壁には大理石が用いられました。「ユニバーサル・スペース」も設けられており、そこには建物に合わせて作られた「バルセロナ・チェア」が配置してあります。

ミースファンデルローエが校長を務めた「バウハウス」とは?

バウハウス

バウハウスは1919年に創立した工芸・デザインなどを専門に扱う学校です。モダニズム建築の先駆けとなった教育機関で、当時はその先進的な活動が話題を呼び、建築家たちに多大な影響を及ぼしました。

バウハウスで学ぶ建築学は近代建築の合理主義、機能主義に基づいており、当時の建築業界の大量生産の精神にも適していたのです。

2代目の校長が近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスで、ミースファンデルローエとは親交が深かったため、彼を3代目の校長として推薦したのでした。

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