ミースファンデルローエの年表
1886年 – 0歳「ドイツのアーヘンにてミースファンデルローエ誕生」
石工の息子として誕生
ミースファンデルローエはドイツ(プロイセン王国)アーヘンにて生を受けます。父親はミヒャエル・ミースで、墓石や暖炉などの石を作る石工として働いていました。母親はアマーリエ・ミースと言い、旧姓がローエだったため、息子はミースファンデルローエと名付けたのです。
幼少期は地元のカテドラルスクール(聖堂学校)に通い、普通教育を受けることになります。これを無事に修了すると、職業訓練学校に入り、製図工の教育を受けました。卒業後は工芸家ブルーノ・パウルの事務所に勤務することになります。
1907年 – 21歳「人生初の建築『リール邸』の設計」
自身初の作品「リール邸」の設計
ブルーノ・パウルの事務所で知り合った仕事仲間から「リール邸」の設計をするように紹介を受けます。これを引き受け、ミースファンデルローエ自身初となる建築物の設計を行うことになりました。この仕事が功を奏し、翌年にはペーター・ベーレンスの事務所へ引き抜かれることになります。
ペーター・ベーレンスの事務所に
1908年、ペーター・ベーレンスの事務所に異動となります。製図工として働き始め、仕事のかたわらでベーレンスから建築について学び、教養を深めていきます。そして、ベーレンスの事務所に勤めてから4年後の1912年に、自分の事務所を構えることとなるのでした。
1913年 – 27歳「アダ・ブルーンとの結婚」
アダ・ブルーンと結婚し、1女をもうける
1913年にアダ・ブルーンと結婚し、その後女の子が生まれます。名前はジョージア・ファンデルローエと名付けました。ジョージアは後年、ドイツのダンサーや女優として活躍することになります。
アダ・ブルーンと結婚後、彼女の紹介により、ドイツ・ベルリンにある高級住宅街の建物の設計を引き受けることになりました。
1927年 – 41歳「シュトゥットガルト住宅展に参加」
近代建築の巨匠らとともに集合住宅を実験的に建築
ドイツ工作連盟の副会長であったミースファンデルローエはシュトゥットガルト住宅展に参加し、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエら近代建築の巨匠らとともに集合住宅の建築について話し合いをしました。
のちに実験的に集合住宅を建築することになります。合計で17人の建築家が参加し、全部で33棟が建てられました。この住宅群を「ヴァイセンホーフ・ジードルング」と名付け、今でも観覧できる建物もあります。
バルセロナ万博でパビリオンの設計
1929年に開催されたバルセロナ万国博覧会にてミースファンデルローエはパビリオンの制作を任されました。完成したバルセロナ・パビリオンは鉄、ガラス、大理石を用いて建設され、モダニズム建築を見事に表した建造物として注目を集めることになります。
この時に、パビリオンに合うデザインの椅子も設計しており、「バルセロナ・チェア」として人気を集めました。パビリオンは現在、当時の構造を復元し、「ミースファンデルローエ記念館」として保存されています。
1930年 – 44歳「バウハウスの第3代校長に任命される」
ヴァルター・グロピウスの推薦を受けてバウハウス第3代校長に
バウハウスは工芸やデザインなど、美術と建築に関する教育を行う学校で、モダニズムの源流ともなった教育機関です。第2代校長として、近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスが仕切っていましたが、第3代校長を任命する際に、グロピウスと親交の深かったミースファンデルローエを校長へ推薦したのです。
晴れてバウハウスの校長となったミースファンデルローエは3年後に校舎をベルリンへと移します。しかし、当時のベルリンはナチスの支配下となっていたので、バウハウスもナチスの統制下に追いやられてしまい、最終的には閉鎖されることとなってしまいました。
「トゥーゲントハット邸」の設計
のちに世界文化遺産に登録される「トゥーゲントハット邸」の設計を1929年に行います。「トゥーゲントハット邸」はチェコスロバキアのブルノという街に建てられた、モダニズム建築の象徴として知られる邸宅で、機能主義・合理主義的建築の中で最も美しいとされています。
1963年には歴史的文化財に指定され、2001年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
1938年 – 52歳「アーマー大学で教鞭をとるようになり、建築学科の教育課程を作る」
アーマー大学建築学科の主任教授に
ミースファンデルローエは1938年から1958年までアーマー大学(現:イリノイ工科大学)で建築学科の教授として講義を行いました。その間に主任教授に登りつめ、写真家のヴァルター・ペーターハンと建築家のルードヴィヒ・ヒルベルザイマーとともに建築の教育課程を編成します。
また、キャンパス内の建物の設計にも携わり、クラウン・ホールをはじめとして、礼拝堂や学生食堂、宿舎に至るまで数多くの建物のデザインを考えたのでした。
「ファンズワース邸」の設計
ミースファンデルローエの代表作である「ファンズワース邸」の設計を行います。これは自身最後の住宅作品となりました。クラウン・ホールにも使用されている「ユニバーサル・スペース」を「ファンズワース邸」にも取り入れ、住み方の自由度を増すとともに、自然環境へも溶け込むという2つの大きなメリットを同時に達成しています。
「ファンズワース邸」は建築費用が非常に高くなってしまったことにより、施主との間に訴訟が起こりました。
1959年 – 73歳「数々の賞を受賞する」
各国から賞を受ける
1959年にロイヤル・ゴールドメダルを受賞したことを皮切りに、1960年アメリカ建築家協会(AIA)の金メダル、1961年イギリス王立建築家協会(RIBA)の金メダル、1966年ドイツ建築家協会の金メダルを受賞しています。
1963年にはアメリカ大統領自由勲章も受章しており、同章はマザー・テレサ、モハメド・アリ、ウォルト・ディズニーなどのそうそうたるメンバーも受賞しています。
1966年、80歳の時にはイリノイ工科大学より名誉学位も受けています。
1969年 – 83歳「ミースファンデルローエ死去・死因は食道癌」
シカゴで帰らぬ人に 死因は食道癌
80代になってもニューナショナル・ギャラリー、ドミニオン・センターの設計など、精力的に建築家としての活動を行っていましたが、1969年8月17日にシカゴの病院にて食道癌で亡くなります。享年83歳でした。墓地はシカゴのグレースランドに設けられています。