ミースファンデルローエの功績
功績1「近代建築の三大巨匠の1人」
ミースファンデルローエは近代建築の三代巨匠の1人として挙げられています。他の2人はル・コルビュジエとフランク・ロイド・ライトです。ここにバウハウス第2代校長であるヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠と呼ばれることもありました。
三代巨匠はそれぞれ、ミースファンデルローエが「ユニバーサル・スペース」、ル・コルビュジエが「近代建築の5原則」、フランク・ロイド・ライトが「プレーリー・スタイル」という様式を確立し、その全てがその後の建築に多大な影響を与えているのです。
功績2「『トゥーゲントハット邸』が世界遺産に登録 」
「トゥーゲントハット邸」は実業家のフリッツ・トゥーゲントハットのために1930年に作られた邸宅で、ミースファンデルローエの代表作、かつ、モダニズム建築の象徴として知られています。1963年に歴史的文化財の指定を受け、2001年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
「近代建築の5原則」の要素の一つである「自由な平面」を重視して作られた建物で、内部もシンプルな構造をしており、住む人によって自由に用途を設定できる構造となっています。この邸宅に合わせて設計された椅子は「トゥーゲントハット・チェア」と呼ばれ、現在でも人気の商品となっています。
功績3「多数の勲章受賞歴」
ミースファンデルローエは建築業界に与えた影響を讃えて、多くの勲章を授与されています。
以下にその内容をまとめます。
- 1959年:ロイヤル・ゴールドメダル
- 1960年:1960年アメリカ建築家協会(AIA) ゴールドメダル
- 1961年:イギリス王立建築家協会(RIBA) ゴールドメダル
- 1963年:大統領自由勲章
- 1966年:ドイツ建築家協会 ゴールドメダル
1963年に受章したアメリカ大統領自由勲章は各界のスターに授与されており、写真にあるタイガーウッズをはじめ、マザー・テレサ、ウォルト・ディズニーなども受章しています。
ミースファンデルローエの名言
「より少ないことは、より豊かなこと(Less is more.)」
この言葉の前には「私はいたずらにアイデアを詰め込みません。」という文章が入ります。ミースファンデルローエの提唱した「ユニバーサル・スペース」は何もない自由な空間を多く確保することにより、そこに住む人の選択肢を大幅に広げました。
「神は細部に宿る(God is in the detail.)」
建築物はどうしても外観に目が行ってしまいがちですが、ミースファンデルローエをはじめとするモダニズム建築家が求めたのは、「外側はシンプルに、しかし、人が住みやすいような構造に隅々までこだわる。」という思想でした。
「過去を見ていたら、前進することはできません。」
ミースファンデルローエは近代建築の三大巨匠の1人と言われています。彼らの推進したモダニズムは今までの建築物に重きを置く考え方を否定し、より人間が住みやすいデザインを作ることを大切にしていました。過去の考えにとらわれていたらモダニズムは提唱されていなかったかもしれません。
ミースファンデルローエの人物相関図
ミースファンデルローエにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「代表作『ファンズワース邸』が高額すぎて訴訟を起こされた」
「ファンズワース邸」はミースファンデルローエの代表作として知られていますが、元々は女医のエディス・ファンズワースのために作られた邸宅なのです。ファンズワース氏が、「休日に利用する別荘として建てて欲しい」と依頼してきたことがきっかけで設計されました。
しかし、一流のデザインで、自然との調和を考え、さらに住みやすさも重視するという欲張りな計画を建てたために、建築費用が非常に高くなり、訴訟を起こすまでに発展してしまいます。裁判の結果、ミースファンデルローエ側が勝訴するのですが、近代建築の傑作を生み出すまでに膨大なコストがかかったことは心に留めておきたいですよね。
ちなみに、価格は当時のお金で7万3000ドル、現在の日本円に換算すると約10億円になります。
都市伝説・武勇伝2「建築物に合わせた椅子も開発し、人気商品となる」
ミースファンデルローエは建築物を設計する際に、その建物に合わせたデザインの椅子も設計しています。
一番有名なのはバルセロナ・チェアで、1929年のバルセロナ万博の時に製作されました。日本でも、ニトリや大塚家具で購入することができます。
同じく人気の椅子は「トゥーゲントハット・チェア」です。一見、「バルセロナ・チェア」と同じデザインに見えますが、脚の形が微妙に異なります。
最後に、一番シンプルなデザインの椅子が「ブルーノ・チェア」です。こちらの家具もシックな部屋にちょうど良いデザインで、根強い人気を誇っています。
ミースファンデルローエの簡単年表
ルートヴィヒ・ミースファンデルローエはドイツのアーヘンに誕生しました。父は石工のミヒャエル・ミース、母はアマーリエで、母親の旧姓がローエであったため、ミースファンデルローエと名乗るようになります。
アーヘンにあるカテドラルスクール(聖堂学校)に通い、普通教育を受けます。同校を卒業後に職業訓練学校へ進学し、製図工の教育を受けました。
工芸家ブルーノ・パウルの事務所に勤務し、建築を学ぶようになります。1907年には仕事仲間の紹介で「リール邸」の設計を担当しました。この設計が評価されることとなり、建築家のペーター・ベーレンスの事務所に招かれることになります。
ベーレンスの事務所では製図工として働くことになります。そのかたわらで建築についての勉強も怠りませんでした。
4年間、ベーレンスの事務所で建築について学び、1912年に晴れて自分の事務所を構えることになります。
27歳の時にアダ・ブルーンと結婚し、娘・ジョージアを授かります。ミースファンデルローエはこの年、アダの紹介によりドイツのベルリンに位置する富裕層の住宅の設計を手がけました。
この頃に勃発した第一次世界大戦に兵士として参加することになります。
フリードリッヒのオフィスビル案を計画しますが、結局実現しませんでした。戦争から帰国後、初めての大掛かりな設計でした。
ドイツ工作連盟副会長であったミースファンデルローエは、シュトゥットガルト住宅展に参加し、ヴァルター・グロピウス、ルコルビュジエらとともに実験的な集合住宅を建設することになりました。
1929年に開かれたバルセロナ万国博覧会でバルセロナ・パビリオンを設計しました。バルセロナ・パビリオンは鉄とガラスと大理石でできており、モダニズムの象徴として認知されています。
ヴァルター・グロピウスの後を継いで、バウハウス(モダニズムの源流となった教育機関)の第3代校長に任命されました。3年後にはバウハウスをベルリンへと移しますが、ナチスの支配下に置かれ、閉鎖されることになります。
1938年から1958年まで20年間に渡って、アーマー工科大学(のちのイリノイ工科大学)の建築学科の主任教授を任せられ、新たな建築の教育課程を作ることになりました。後年、クラウン・ホールをはじめとするキャンパス設計にも携わることになります。
ミースファンデルローエの代表作と言われる「ファンズワース邸」の設計を行います。ガラス張りの建物に「ユニバーサル・スペース」という概念を取り入れた画期的なデザインとなっています。
今までの功績を讃えて、ロイヤルゴールデンメダルを授与されました。その後、アメリカ建築家協会、イギリス王立建築家協会、ドイツ建築家協会からも金メダルを受けます。
1969年8月17日、アメリカ・イリノイ州シカゴの病院にてミースファンデルローエは亡くなりました。死因は食道癌です。墓はシカゴのグレースランド墓地に設けられました。