リヒャルト・ワーグナーとは、19世紀のドイツで活躍した作曲家の一人です。『ワルキューレの騎行』に代表される壮大な音楽を作曲したことで知られる他、近代指揮理論に強い影響を与えた指揮者であったり、オペラの脚本家であったりと、19世紀ドイツの文化の大部分を担った人物でもあります。
その幅広い功績は、19世紀ヨーロッパのロマン主義精神に基づいた”ロマン派歌劇”の頂点と称されるほどすさまじく、その功績から「楽劇王」の異名を誇る文化人として、ワーグナーは現在でも親しまれているのです。
しかしそんな文化的な功績の一方で、ワーグナー自身に対する評価は現在でも議論になり、ユダヤ系民族やドイツでは、ワーグナーに対する否定的な評価が目立つのが現状です。元はと言えば彼自身の人格の問題による評価ではありますが、これらの状況に関しては現在も議論があるのが現状です。
このように、文化的には間違いなく偉大な功績を打ち立てながらも、その人格的な部分には眉を顰められる部分も多い人物であるワーグナーという作曲家。
では何故、ワーグナーは偉大な功績と禍根を同時に残すことになってしまったのか。この記事では、そんなワーグナーの生涯を紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
リヒャルト・ワーグナーとはどんな人物か
名前 | リヒャルト・ワーグナー |
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誕生日 | 1813年5月22日 |
没日 | 1883年2月13日(享年69) |
生地 | ザクセン王国・ライプツィヒ |
没地 | イタリア王国・ベネツィア |
配偶者 | ミンナ・プラーナ―(1836年~1866年) →コジマ・ワーグナー(1870年~1833年) |
埋葬場所 | バイロイト・ヴァーンフリート荘の裏庭 |
職業 | 作曲家、指揮者、文筆家 |
代表曲 | 『ワルキューレの騎行』 『ニーベルングの指輪』 『タンホイザー序曲』etc… |
ジャンル | ロマン派 |
リヒャルト・ワーグナーの生涯をハイライト
ワーグナーは、1813年にザクセン王国のライプツィヒに生まれました。ワーグナー家は音楽好きとして知られる一家であり、一家と親交のあったカール・マリア・フォン・ウェーバーなどから強い影響を受けたリヒャルトは、15歳の時には音楽家を志すようになっていたようです。
そうして音楽家として身を立てることを決意したリヒャルトは、10代から積極的に作曲や劇作を行い、1832年には生涯唯一の交響曲である『交響曲第一番ハ長調』と、歌劇である『婚礼』を作曲。その1年後には合唱指揮者としてデビューすることにもなりました。
こうして指揮者としては一定の地位を得たワーグナーでしたが、歌劇作曲者としてはあまり評価されることがなく、彼自身の性質も相まって、若きワーグナーの生活は困窮していたようです。
その後、所属していた劇団の解散によってワーグナーは各地を転々とした後に、夜逃げ同然にロンドンに密航し、そこからフランスへ。そこでワーグナーは、有力な歌劇作曲家であるマイアベーアと親交を持ちますが、状況の上手くいかなさも相まって半ば喧嘩別れをすることに。この時期のマイアベーアとの不仲は、ワーグナーの人生観に深い影響を与えることになりました。
こうしてパリでも作品を認められずにザクセン王国に戻ったワーグナーでしたが、そこでようやくザクセン宮廷指揮者に任じられる名誉を受けます。こうしてようやく成功を掴んだかに見えたワーグナーでしたが、1848年にはドイツ三月革命が勃発。革命に参加したことで指名手配を受けたワーグナーは、スイスへと亡命することになってしまいました。
こうしてザクセン王国を追われたワーグナーでしたが、亡命期間中にも『ニーベルングの指輪』『トリスタンとイゾルデ』などの作曲を展開。ザクセンでの追放令が取り消された後にも彼は各地を転々とし、バイエルン国王であるルートヴィヒ2世からの招きに応じたりと、音楽活動を展開しました。
その後1872年にはバイロイトに移住し、バイロイト祝祭劇場の建築を開始。旺盛な作曲活動も並行して行いつつ、反ユダヤ的な論文を多数執筆し、彼の抱く価値観を良かれ悪しかれ多くの人々の目に晒す後半生を送りました。
そして1883年、旅行先のヴェネツィアで心臓発作により死亡。彼の死は多くの人々に衝撃を与え、信望者だったルートヴィヒ2世のみならず、ワーグナーとは犬猿の中だったブラームスなども、その死を悼んだと伝わっています。
リヒャルト・ワーグナーの作品の特徴
ワーグナーの作品の特徴を一言で表すとするなら「革新的なオペラ」という言葉に集約されるでしょう。ワーグナー以前のオペラは、「歌劇」として「分離した音楽を繋いでいく」という手法――いわゆる「番号オペラ」と呼ばれるものが主流でした。
しかしワーグナーは、それらの番号オペラを「音楽が分離してしまう」と考え、無限旋律などの様々な技法を用いて、オペラを「留まらない一つの音楽」として昇華。他にも、ライトモティーフと呼ばれる「最小の意味を持つ旋律」を数多く用いる革新的な手法で作曲を行い、劇が終わらない限り音楽が無限に続く形式の「音楽であり劇である総合芸術」として、ドイツオペラを大成させたのです。
これによって、それまでは「歌劇」だったオペラは、「楽劇」と称される総合芸術へとジャンプアップ。ワーグナーの「楽劇王」という異名は、このように「楽劇を大成させた」という部分から来ていると言えそうです。
リヒャルト・ワーグナーの性格
「楽劇王」の異名からも分かる通り、間違いなく偉大な作曲家であることは間違いないワーグナーですが、彼の人格的な部分は、端的に言って「問題アリ」と評さざるを得ない部分が多数存在しています。
ワーグナーの性格の問題点は、まず第一にその唯我独尊ぶり。他人の行動には口うるさくケチをつけるにもかかわらず、自分自身の行動の問題部分はまったく顧みなかったり、自分自身を「天才だ」と評してはばからなかったりと、近くにいたらちょっと関わり合いになりたくない彼の性格を示すエピソードは、その生涯の中でも事欠きません。
他にも、彼の死後にナチスドイツに利用され、現在もイスラエルなどを中心に議論を生んでいる「強すぎる反ユダヤ的思想」や、誇大妄想のようにも受け取れる幼さすら滲む傲慢さなど、どうにも一個人としてのワーグナーは、天才ではありましたが問題のある人物でもあったように、様々な記録からは窺えます。
とはいえ、彼がすぐれた作品を残す天才であり、多くの音楽理論に影響を与えたことは事実。記録されている人格がどうであれ、彼が偉大な音楽家であることには変わりありません。一面的にはとらえられない人間臭さも、ワーグナーという人物の面白い所だと言えるでしょう。
リヒャルト・ワーグナーが影響を受けた人物
ワーグナーが最も大きく影響を受けた人物は、おそらくベートーベンだと言えるでしょう。
自分を「天才だ」と公言してはばからなかったワーグナーですが、彼は唯一「自分を超える作曲家」として、ベートーベンの名を挙げています。実際、ワーグナーの大成させた「楽劇」における理論の源流は、ベートーベンの交響曲第9番とされており、そのような部分からもベートーベンがワーグナーに与えた影響の深さを読み取れます。
他にも、リヒャルトが幼い頃、ワーグナー家に出入りしていたカール・マリア・フォン・ウェーバーに対しても、生涯にわたって強い尊敬の念を抱いていた事が記録され、ウェーバーの遺骨を移送する式典の演出を担当。ウェーバーを湛える合唱曲の作詞作曲や、追悼演説なども任されたことが記録されています。
また、亡命期間中に自身を保護してくれたフランツ・リストに対しては無条件の信頼と尊敬を寄せていたらしく、「ワーグナーが無条件で言うことを聞くのは、リストからの物言いだけだ」と評されていたことが記録されているようです。
リヒャルト・ワーグナーの最期
多くの歌劇や音楽、あるいは彼自身の思想を著した論文を残したワーグナーは、1883年2月13日、旅行中のイタリアのヴェネツィアにて帰らぬ人となりました。享年は69。死因はかねてより患っていた心臓発作だったそうです。
彼の死は音楽界のみならずヨーロッパ中に驚愕をもたらし、「オペラ王」として知られるジュゼッペ・ヴェルディは、その死の翌日に『我々は偉大な人物を失った』という声明を発表。他にも、ワーグナーの信望者だったルートヴィヒ2世は、その無情さに打ち震えたという記録を残しています。
そして彼の死は、彼を好意的に見ていた者だけでなく、いわゆる「敵」として対立していた人々にも大きな衝撃を与えました。訃報が伝えられた際に合唱の練習をしていたブラームスは、ワーグナーへの弔意を示すためにその日の練習を打ち切り、ワーグナーの一派から離反していたニーチェも、その訃報には悔みの手紙を送ったことが伝わっています。
その後、ワーグナーの楽曲は作曲者であるリヒャルト自身の思想も相まって、ややこしい事態に巻き込まれていくことになるのですが、それはまた別のお話です。年表で軽く触れますので、その辺りまでお読みいただければ幸いに思います。