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リヒャルト・ワーグナーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲も紹介】

リヒャルト・ワーグナーとは、19世紀のドイツで活躍した作曲家の一人です。『ワルキューレの騎行』に代表される壮大な音楽を作曲したことで知られる他、近代指揮理論に強い影響を与えた指揮者であったり、オペラの脚本家であったりと、19世紀ドイツの文化の大部分を担った人物でもあります。

その幅広い功績は、19世紀ヨーロッパのロマン主義精神に基づいた”ロマン派歌劇”の頂点と称されるほどすさまじく、その功績から「楽劇王」の異名を誇る文化人として、ワーグナーは現在でも親しまれているのです。

リヒャルト・ワーグナー

しかしそんな文化的な功績の一方で、ワーグナー自身に対する評価は現在でも議論になり、ユダヤ系民族やドイツでは、ワーグナーに対する否定的な評価が目立つのが現状です。元はと言えば彼自身の人格の問題による評価ではありますが、これらの状況に関しては現在も議論があるのが現状です。

このように、文化的には間違いなく偉大な功績を打ち立てながらも、その人格的な部分には眉を顰められる部分も多い人物であるワーグナーという作曲家。

では何故、ワーグナーは偉大な功績と禍根を同時に残すことになってしまったのか。この記事では、そんなワーグナーの生涯を紹介していきたいと思います。

リヒャルト・ワーグナーとはどんな人物か

名前リヒャルト・ワーグナー
誕生日1813年5月22日
没日1883年2月13日(享年69)
生地ザクセン王国・ライプツィヒ
没地イタリア王国・ベネツィア
配偶者ミンナ・プラーナ―(1836年~1866年)
→コジマ・ワーグナー(1870年~1833年)
埋葬場所バイロイト・ヴァーンフリート荘の裏庭
職業作曲家、指揮者、文筆家
代表曲『ワルキューレの騎行』
『ニーベルングの指輪』
『タンホイザー序曲』etc…
ジャンルロマン派

リヒャルト・ワーグナーの生涯をハイライト

ライプツィヒのワーグナーの生家跡は
現在では別の建物が建っている

ワーグナーは、1813年にザクセン王国のライプツィヒに生まれました。ワーグナー家は音楽好きとして知られる一家であり、一家と親交のあったカール・マリア・フォン・ウェーバーなどから強い影響を受けたリヒャルトは、15歳の時には音楽家を志すようになっていたようです。

そうして音楽家として身を立てることを決意したリヒャルトは、10代から積極的に作曲や劇作を行い、1832年には生涯唯一の交響曲である『交響曲第一番ハ長調』と、歌劇である『婚礼』を作曲。その1年後には合唱指揮者としてデビューすることにもなりました。

こうして指揮者としては一定の地位を得たワーグナーでしたが、歌劇作曲者としてはあまり評価されることがなく、彼自身の性質も相まって、若きワーグナーの生活は困窮していたようです。

フランスにてワーグナーを庇護した作曲家・マイアベーア

その後、所属していた劇団の解散によってワーグナーは各地を転々とした後に、夜逃げ同然にロンドンに密航し、そこからフランスへ。そこでワーグナーは、有力な歌劇作曲家であるマイアベーアと親交を持ちますが、状況の上手くいかなさも相まって半ば喧嘩別れをすることに。この時期のマイアベーアとの不仲は、ワーグナーの人生観に深い影響を与えることになりました。

こうしてパリでも作品を認められずにザクセン王国に戻ったワーグナーでしたが、そこでようやくザクセン宮廷指揮者に任じられる名誉を受けます。こうしてようやく成功を掴んだかに見えたワーグナーでしたが、1848年にはドイツ三月革命が勃発。革命に参加したことで指名手配を受けたワーグナーは、スイスへと亡命することになってしまいました。

バイエルン国王・ルートヴィヒ2世は
ワーグナーの信望者としても有名

こうしてザクセン王国を追われたワーグナーでしたが、亡命期間中にも『ニーベルングの指輪』『トリスタンとイゾルデ』などの作曲を展開。ザクセンでの追放令が取り消された後にも彼は各地を転々とし、バイエルン国王であるルートヴィヒ2世からの招きに応じたりと、音楽活動を展開しました。

その後1872年にはバイロイトに移住し、バイロイト祝祭劇場の建築を開始。旺盛な作曲活動も並行して行いつつ、反ユダヤ的な論文を多数執筆し、彼の抱く価値観を良かれ悪しかれ多くの人々の目に晒す後半生を送りました。

そして1883年、旅行先のヴェネツィアで心臓発作により死亡。彼の死は多くの人々に衝撃を与え、信望者だったルートヴィヒ2世のみならず、ワーグナーとは犬猿の中だったブラームスなども、その死を悼んだと伝わっています。

リヒャルト・ワーグナーの作品の特徴

ドイツオペラを「歌劇」から「楽劇」に変化させたことが、ワーグナーの最大の功績

ワーグナーの作品の特徴を一言で表すとするなら「革新的なオペラ」という言葉に集約されるでしょう。ワーグナー以前のオペラは、「歌劇」として「分離した音楽を繋いでいく」という手法――いわゆる「番号オペラ」と呼ばれるものが主流でした。

しかしワーグナーは、それらの番号オペラを「音楽が分離してしまう」と考え、無限旋律などの様々な技法を用いて、オペラを「留まらない一つの音楽」として昇華。他にも、ライトモティーフと呼ばれる「最小の意味を持つ旋律」を数多く用いる革新的な手法で作曲を行い、劇が終わらない限り音楽が無限に続く形式の「音楽であり劇である総合芸術」として、ドイツオペラを大成させたのです。

これによって、それまでは「歌劇」だったオペラは、「楽劇」と称される総合芸術へとジャンプアップ。ワーグナーの「楽劇王」という異名は、このように「楽劇を大成させた」という部分から来ていると言えそうです。

リヒャルト・ワーグナーの性格

優れた作曲家であったワーグナーだが、その人格部分は中々問題が多かったようで…

「楽劇王」の異名からも分かる通り、間違いなく偉大な作曲家であることは間違いないワーグナーですが、彼の人格的な部分は、端的に言って「問題アリ」と評さざるを得ない部分が多数存在しています。

ワーグナーの性格の問題点は、まず第一にその唯我独尊ぶり。他人の行動には口うるさくケチをつけるにもかかわらず、自分自身の行動の問題部分はまったく顧みなかったり、自分自身を「天才だ」と評してはばからなかったりと、近くにいたらちょっと関わり合いになりたくない彼の性格を示すエピソードは、その生涯の中でも事欠きません。

他にも、彼の死後にナチスドイツに利用され、現在もイスラエルなどを中心に議論を生んでいる「強すぎる反ユダヤ的思想」や、誇大妄想のようにも受け取れる幼さすら滲む傲慢さなど、どうにも一個人としてのワーグナーは、天才ではありましたが問題のある人物でもあったように、様々な記録からは窺えます。

とはいえ、彼がすぐれた作品を残す天才であり、多くの音楽理論に影響を与えたことは事実。記録されている人格がどうであれ、彼が偉大な音楽家であることには変わりありません。一面的にはとらえられない人間臭さも、ワーグナーという人物の面白い所だと言えるでしょう。

リヒャルト・ワーグナーが影響を受けた人物

「至高の天才」を自称したワーグナーが
おそらく唯一「自分以上の天才」と認めた作曲家・ベートーベン

ワーグナーが最も大きく影響を受けた人物は、おそらくベートーベンだと言えるでしょう。

自分を「天才だ」と公言してはばからなかったワーグナーですが、彼は唯一「自分を超える作曲家」として、ベートーベンの名を挙げています。実際、ワーグナーの大成させた「楽劇」における理論の源流は、ベートーベンの交響曲第9番とされており、そのような部分からもベートーベンがワーグナーに与えた影響の深さを読み取れます。

他にも、リヒャルトが幼い頃、ワーグナー家に出入りしていたカール・マリア・フォン・ウェーバーに対しても、生涯にわたって強い尊敬の念を抱いていた事が記録され、ウェーバーの遺骨を移送する式典の演出を担当。ウェーバーを湛える合唱曲の作詞作曲や、追悼演説なども任されたことが記録されています。

また、亡命期間中に自身を保護してくれたフランツ・リストに対しては無条件の信頼と尊敬を寄せていたらしく、「ワーグナーが無条件で言うことを聞くのは、リストからの物言いだけだ」と評されていたことが記録されているようです。

リヒャルト・ワーグナーの最期

ワーグナーの墓がある、ヴァーンフリート荘

多くの歌劇や音楽、あるいは彼自身の思想を著した論文を残したワーグナーは、1883年2月13日、旅行中のイタリアのヴェネツィアにて帰らぬ人となりました。享年は69。死因はかねてより患っていた心臓発作だったそうです。

彼の死は音楽界のみならずヨーロッパ中に驚愕をもたらし、「オペラ王」として知られるジュゼッペ・ヴェルディは、その死の翌日に『我々は偉大な人物を失った』という声明を発表。他にも、ワーグナーの信望者だったルートヴィヒ2世は、その無情さに打ち震えたという記録を残しています。

そして彼の死は、彼を好意的に見ていた者だけでなく、いわゆる「敵」として対立していた人々にも大きな衝撃を与えました。訃報が伝えられた際に合唱の練習をしていたブラームスは、ワーグナーへの弔意を示すためにその日の練習を打ち切り、ワーグナーの一派から離反していたニーチェも、その訃報には悔みの手紙を送ったことが伝わっています。

その後、ワーグナーの楽曲は作曲者であるリヒャルト自身の思想も相まって、ややこしい事態に巻き込まれていくことになるのですが、それはまた別のお話です。年表で軽く触れますので、その辺りまでお読みいただければ幸いに思います。

リヒャルト・ワーグナーの功績

功績1「”歌劇(楽劇)”を芸術として完成させた」

ワーグナーが自身の作品のために建築した、バイロイト祝祭劇場

先のトピックでもふれたとおり、ワーグナーの功績として最も有名なのは、オペラを一つの「総合芸術」にまで高めたことでしょう。ベートーベンの交響曲第9番に秘められた音楽理論を解体し、それを体系化したオペラへと応用できるようにアレンジを加えたその手腕は、まさに彼が自称する「天才」の手腕だという他ありません。

イタリアで生じた舞台芸術であるオペラですが、現在ではドイツオペラも、イタリアのものと引けを取らない芸術作品として、全世界から愛されています。

そんなドイツオペラの隆盛の一端を担った人物こそが、「楽劇王」であるワーグナーその人なのです。

功績2「音楽界にとどまらず、多くの創作物に影響を与えた」

多くのファンタジー作品に登場する「ワルキューレ」なども
ワーグナーの『ニーベルングの指環』で有名になった

この記事を読んでいる中には、「ワーグナーって誰?」という部分から記事を読んでいる方もいるかと思います。実際、音楽史に多少の興味を持った方でなければ、ワーグナーの名を知ることはあまりないと思いますので、そういう方がいるのは無理からぬことでしょう。

しかし、ゲームや漫画などのサブカル好きであれば、「ワルキューレ」「ジークフリート」「ブリュンヒルデ」「ヴァルハラ」なんかの言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか?

これらは全て北欧神話に由来する言葉なのですが、これらの神話上の言葉が一般大衆に至るまで有名になったことに、ワーグナーが『ニーベルングの指環』という北欧神話をモデルにした大長編を描いたことが一助となっているのは間違いありません。

そういう意味では、ワーグナーの作り出した多くの作品群は、音楽界のみならず様々な分野の創作物にも影響を与えていると言えそうです。

功績3「近代指揮理論の一端を担う 」

犬猿の仲だったブラームス

作曲家としての部分が有名なワーグナーですが、彼は指揮者としても有名であり、実は彼の著作の中には『指揮について』などの指揮理論に関しての論文も存在しています。

その理論は独自性が強いものではありましたが、理に適ったものでもあったらしく、彼は生涯にわたって多くの識者を育成。近代以降の指揮理論の二大源流の一角としても知られることになっています。

そしてその一方で、ワーグナーとはまた違う独自の指揮理論で指揮者を育成していた、同じく二大源流の一角であるブラームスとは、かなりの犬猿の仲だったという記録も残っています。

とはいえ、ワーグナーの死を知ったブラームスが、弔意を示す意味で合唱練習を打ち切ったというエピソードが残っていることもあり、人間的な仲はどうあれ、お互いの実力自体は認め合っている関係でもあったようです。

リヒャルト・ワーグナーの代表作

ワルキューレの騎行

ワーグナーと言えば、恐らくこの曲を連想する方が最も多いかと思われます。映画『地獄の黙示録』の劇中歌としても使用された曲のため、そちらの印象が強い方も多いかもしれません。

壮大かつ荘厳なその音楽は、一度聞くと確実に耳に残り、微妙に気が大きくなってしまうこと請け合いです。そういう意味では、ワーグナーという人物を最も象徴している曲だと言えるのかもしれません。

結婚行進曲

歌劇『ローエングリン』の中で演奏された、タイトル通りの「結婚式」をイメージした楽曲です。

教会の風景が目に浮かぶような神聖なオルガンの旋律と、やはりどことなく感じるワーグナーらしい重厚感が耳に楽しい一曲です。これから結婚式を控えている方は、ぜひこの一曲を指揮の中で使ってみてはいかがでしょうか?

タンホイザー序曲

歌劇『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』の序曲として演奏される曲です。ドラマ『白い巨塔』でも使用されたため、そちらの印象が強い方も多いかと思われます。

入りこそ静かで、少々ワーグナーらしくない印象を受けますが、1;55あたりからの天へと上るようなイメージの、透き通った音から続く部分は、やはりワーグナーらしさに満ちた荘厳な仕上がりとなっています。

様々な曲調が入り混じる複雑な楽曲ですが、まったく耳障りを感じない、誤解を恐れずに言えば非常に「楽しい」楽曲ですので、ぜひ最後までお聞きいただければと思います。

リヒャルト・ワーグナーにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「現代で言う『自演』の元祖?」

現在でこそ、自作自演で作品の評判を操作することは
ネット炎上などにも繋がりかねないが…?

現代において、自分の作品に自分で高評価を付けることは「自演」と呼ばれ、炎上にも繋がりかねない行為だとされています。しかし実はワーグナーも、その「自演」と呼ばれそうな行為を若いころにやらかしているのはご存知でしょうか?

実は若い頃のワーグナーは、偽名を使って自分の作品を称える手紙を、新聞や出版社に投書するという行為を繰り返していたと記録されています。さらに、そんな自演行為のみならず、一説ではそれがバレた時には大いに逆ギレをして相手を困らせたのだとか。

「唯我独尊の天才」というイメージの強いワーグナーですが、そう言ったエピソードを知ると、実は少々みみっちく、名誉欲の強い人物だったとも言えるのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「実は身長コンプレックス持ち?妻であるコジマ夫人の苦悩」

リヒャルトの2番目の妻であるコジマ・ワーグナーは、長身の女性だったのだが…

近代の人物であるワーグナーは、身体的な特徴などの記録が多く残っています。とくに有名なのはその身長で、記録によれば彼の身長は167㎝程度と、日本人から見ても若干小柄な程度の身長だったと記録されています。

そして彼にとっては少々悪いことに、後妻であったコジマ・ワーグナーは父親譲りの長針だったことが記録されています。そのためコジマは、夫と共に写真に写る時は、様々な工夫を凝らして身長差が目立たないようにしていたことが記録に残っているようです。

もちろん、「ワーグナーに身長コンプレックスがあった」という明確な記録があるわけではありませんが、コジマ夫人の涙ぐましい努力の記録などから、ワーグナーが自分の身長にコンプレックスを抱いていたことは、かなり想像しやすいように思えます。

リヒャルト・ワーグナーの年表

1813年 – 0歳「ザクセン王国・ライプツィヒにて誕生」

ワーグナーの生まれたライプツィヒの現在

評価の高い下級官吏の子として生まれるが…

1813年の5月22日、リヒャルト・ワーグナーはザクセン王国のライプツィヒにてこの世に生を受けました。父であるカール・フリードリヒ・ワーグナーは、身分こそ下級官吏でしたがフランス語が堪能で、当時ザクセン王国に駐屯していたナポレオンの通訳として駆り出されるなど、上役からの覚えのいい人物で、そこそこ羽振りの良い人物だったようです。

しかし、原因は不明ですがカールはリヒャルトが生まれて6か月後に死去。これによって未亡人となったリヒャルトの母・ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナーは、ユダヤ人俳優であり、カールとも知り合いだったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚。

晩年の彼の思想を見ると信じられない事でもありますが、彼はユダヤ人の義父から愛を受けて、すくすく成長していくことになったのです。

幼きリヒャルト・ワーグナー

ワーグナー家は元々音楽好きとして知られる家であり、幼い日のワーグナー家の子供たちは、その将来を示すように多くの音楽に触れて過ごしました。

特に一家と親交があり、度々ワーグナー家に出入りしていた作曲家、カール・マリア・フォン・ウェーバーは幼いリヒャルトにとっては憧れの人物だったようで、唯我独尊の考え方が強いリヒャルトが、生涯を通じて敬意を払い続けた人物として知られています。

1828年 – 15歳「ベートーベンに憧れ、音楽家を志す」

リヒャルトが音楽の道に踏みこむ決定的なきっかけとなったのは、ベートーベン

ベートーベンに憧れ、音楽家を目指す

幼いころから音楽に接して育ったリヒャルトは、この年にベートーベンの音楽に触れ、その音楽に強いあこがれを抱き、音楽家として生きる道を選んだのだそうです。

一方で、シェイクスピアやギリシャの古典に触れたことで劇作家としての道にも興味を示していたらしく、後の「楽劇王」となるワーグナーの片鱗は、この頃から確実に散見されていました。

1831年 – 18歳「対位法作曲の基礎を学ぶ」

ワーグナーに対位法作曲を指導した、テオドール・ヴァインリヒ

音楽家としての目覚め

音楽家を目指すようになって以降、様々な作曲や『交響曲第9番』のスコア作成などを行っていたリヒャルトですが、そこへの評価は「子供にしては凄い」程度のもの。

そんな中で彼はこの年、聖トーマス教会のテオドール・ヴァインリヒから指導を受け、対位法作曲の基礎を教えられたと記録されています。

1833年 – 20歳「ヴァルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者になる」

この頃ワーグナーと知り合い
彼の思想に影響を与えたという青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベ

『交響曲第一番ハ長調』を作曲

1832年、19歳のころに、ワーグナーは『交響曲第一番ハ長調』を作曲。ワーグナーが作曲した唯一の交響曲として知られるこの作品は、ベートーベンやモーツァルト、そして尊敬する師であるウェーバーの影響を強く受けた作品として仕上がっています。

しかしこの『交響曲第一番ハ長調』の原本は紛失してしまっており、現在で回っているのはアントン・ザイドルによって復元され、その際にワーグナーが若干改訂を行った第二稿になっています。

ヴァルツブルク市立歌劇場、最初の論文、最初の恋人

1833年、ヴァルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となったワーグナーは、時を同じくして劇作にも手を出しますが、これには失敗。生来の金遣いの荒さも相まって、この頃のワーグナーの生活はかなり困窮していたようです。

また、1834年には青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、最初の論文である『ドイツのオペラ』を発表。「真の音楽は何処にもよらない場所から生まれる」という、青年ドイツ派の影響を受けた論調を発表しました。

また、同じ年にマクデブルクのベートマン劇団の指揮者に抜擢され、そこで知り合った女優、ミンナ・プラーナーと恋仲にもなっていたようです。

1836年 – 23歳「結婚、そして遍歴へ」

ワーグナーの先妻であるミンナ・プラーナーは
美しい反面少々問題のある人物で…

ケーニヒスベルクへ

この年、ワーグナーとミンナが所属するベートマン劇団が解散。ミンナはケーニヒスベルクの劇団と契約したため、ワーグナーも彼女についていく形でケーニヒスベルクに向かい、二人は同地で結婚することになりました。

しかし、独占欲の強いワーグナーと、浮気性なミンナの関係はかなり不安定だったようで、1837年の5月に、ミンナはワーグナーの元を離れて姿を消してしまいました。

遍歴生活の始まり

ミンナが姿を消してからしばらくの間、ワーグナーはドレスデンや帝政ロシア領リガ(現ラトビア)などで劇場指揮者をしながら各地を遍歴。

しかし1839年にはリガの劇場を解雇されてしまい、多額の借金を抱えながら彼はロンドンへと密航を行いました。ワーグナーの良くない側面が出ているエピソードですが、この密航時に暴風に遭ったことが、後のオペラ『さまよえるオランダ人』の原型になったとも言われています。

1839年 – 26歳「パリにて~後の禍根の始まり~」

パリを訪れたワーグナーを庇護したマイアベーアだが
両者の関係は徐々に冷え込んでいき…

パリにて~邪推の目覚め~

リガからロンドンを経由してパリにわたったワーグナーは、ミンナ夫人の知り合いであるジョコモ・マイアベーアの庇護を受けてパリで活動することになります。

マイアベーアはパリで活躍する売れっ子のユダヤ人音楽家であり、ワーグナーは彼が自分を後援し、生活の援助をしてくれることに感激し、彼の事を尊敬していましたが、次第にマイアベーアの後援が意味を成さないことが増えてくると、その尊敬は邪推へと変化。

結果としてワーグナーは、マイアベーアのようなユダヤ人やパリの音楽を敵視する、非常に偏った思想観を抱くことになってしまいました。

1842年 – 29歳「『リエンツィ』でようやく注目を集める」

エドワード・ブルワー=リットンの小説を元にした
オペラ『リエンツィ』でようやく注目を集め始める

鬱屈を抱えたまま、パリを去る

ワーグナーがエドワード・ブルワー=リットンの小説を題材にして制作したオペラ『リエンツィ』が、ザクセン王国のゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)で上演決定。

これによってワーグナーは、マイアベーアへの邪推から生じた反ユダヤ感情や、自分の作品を認めないパリへの鬱屈を抱えたまま、パリを去ってザクセン王国へと戻ることになりました。

『リエンツィ』初演

1842年10月20日に行われた『リエンツィ』の公演は大成功。これによってワーグナーは、遅咲きながらようやく音楽界で注目を集めることになりました。

そしてその注目もあってか、1843年にはザクセン宮廷指揮者に任じられることに。これによってザクセン王国の音楽界において、ワーグナーの名声は非常に高まることになりました。

また、1843年には『さまよえるオランダ人』の初演も行われましたが、これは成功こそしたものの、『リエンツィ』程の大ヒットにはなれなかったことが記録されています。

1843~1847年 – 30~34歳「ザクセン宮廷指揮者として」

カール・マリア・フォン・ウェーバー

1844年・尊敬する師を偲ぶ式典の演出を行う

ザクセン宮廷指揮者となったワーグナーは、1844年に、尊敬する師であり1826年にこの世を去ったウェーバーの遺骨を移葬する式典の演出を担当。葬送行進曲や、ウェーバーの功績を讃える合唱などを作曲し、いまは亡き師を偲びました。

また、ワーグナーが担当した追悼演説も評判が高かったらしく、この式典はウェーバーへの尊敬の念があったにせよ、ワーグナーの多才さを多くの人々に知らしめる結果ともなりました。

1845年・『タンホイザー』を作曲、上演

この年、彼の代表的な作品の一つである『タンホイザー』が初演。『タンホイザー』は発表当初こそ不評でしたが、回を重ねるごとにその評判は塗り替わっていき、最終的にはザクセンお告各地で上演される大ヒット作品となりました。

1846年・『交響曲第9番』を指揮。忘れられた曲に日の目を当てる

ワーグナーの指揮によって
ベートーベンの『交響曲第9番』は日の目を見ることになった

この年、ワーグナーは特別演奏会で、ベートーベンの『交響曲第9番』を指揮。今でこそ「名曲」と名高い『第九』ですが、当時は半ば忘れられた作品となっており、周囲からの反対も大きなものでしたがワーグナーは演奏を断行。

結果として演奏は大成功に終わり、以降『交響曲第9番』は、名曲としての評価を確立することになりました。

1847年・ザクセン宮廷指揮者を辞任する

この前年よりワーグナーは、王立歌劇団の待遇改善や団員の増強を求めていましたが、楽団の総監督はこれをすべて却下。

これに腹を立てたワーグナーは宮廷演劇顧問に直訴しますが、これも突っぱねられたため、彼はザクセン宮廷指揮者を辞任することになりました。

1848年 – 35歳「ドイツ3月革命に参加」

世界史的にも大事件だったドイツ3月革命に、ワーグナーは積極的に参加した

ドイツ3月革命

19世紀のヨーロッパを覆っていた革命の機運が、この頃にはドイツにも浸透。「ドイツ3月革命」と名付けられるこの事件は、革命の元祖となったフランスのような国民像をドイツにも浸透させるために始まったもので、ワーグナーはその革命派に加入し、革命活動を行いました。

しかしワーグナーの行った演説は多くの人々から攻撃されたようで、彼は革命派の中において、あまり支持を集めることはできなかったようです。

スイスへ亡命

また、革命の機運が高まる中で、ユダヤ人排斥の動きも加速。そんな中である1849年に起こったドレスデン蜂起にワーグナーは中心人物として参加しますが、これは失敗。

指名手配犯となってしまったワーグナーは、ドイツを脱出してスイスのチューリッヒへ亡命することを余儀なくされてしまいました。

1849~1862年 – 36~49歳「スイス亡命生活」

スイスに亡命したワーグナーを助けた、フランツ・リスト

亡命生活の最中、様々な論文を発表

祖国を追われ、スイスのフランツ・リストのもとに身を寄せることになったワーグナーは、『芸術と革命』『未来の芸術作品』『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』などの論文を続々と発表し、自身の思想を広める文筆活動を行いました。

その内容こそ「大言壮語」「誇大妄想」と呼べるようなものが殆どですが、この時期のワーグナーの文筆活動は非常に旺盛で、それらの論文は歴史的資料として価値を持つものになっています。

1850年・『ローエングリン』の初演と、加速するユダヤへの嫌悪

この年、ワイマールにてオペラ『ローエングリン』の初演が敢行。リストの尽力があっての初演でしたが、指名手配犯であるワーグナーはその初演を見ることができず、ワーグナーが初めて『ローエングリン』を聞いたのは、1861年だったと伝わっています。

また、この頃からワーグナーの反ユダヤ感情は加速。リストの前でユダヤ人を口汚くののしっていたことが記録されています。

しかしその一方でユダヤ人ピアニストのカール・タウジヒらを庇護する活動を行っているなど、音楽については人種に関わりなく真摯に向き合っていたことも分かっています。

1851年・『ニーベルングの指環』の執筆を開始

2016年に国立新劇場で上演された『ニーベルングの指環』

1851年に、後の彼の代表作となる『ニーベルングの指環』の執筆を開始。

4部作に及ぶ長編であるこの作品は、1853年に台本が私費出版され、1869年に初演が行われたことが記録されていますが、実はこの初演時に『ニーベルングの指環』はまだ完結していなかったらしく、この初演はワーグナーの望むものではなかったようです。

1862年・亡命生活の終わり

論文の発表や『ニーベルングの指輪』の執筆を行なっていたワーグナーでしたが、この年には恩赦によって指名手配が解除され、彼はザクセンに帰ることに。

別居していた妻であるミンナとは、この時に再会したようですが、これ以降彼らが再び会ったという記録は残っていません。

1864年 – 51歳「ルートヴィヒ2世より、王宮に招かれる」

「狂王」という蔑称でも知られるルートヴィヒ2世は
ワーグナーの熱烈な信望者だった

ルートヴィヒ2世からの招待

バイエルン国王であるルートヴィヒ2世から正体を受けたワーグナーは、王宮で彼と謁見。

しかし音楽と神話に心酔し、破滅的な浪費を繰り返すルートヴィヒ2世に対する敵対勢力や、リストの娘でありハンス・フォン・ビューローの妻であるコジマとの不貞にまつわるスキャンダルで、招かれたワーグナーは一転してスイスに退避する羽目になってしまいました。

1866年・先妻・ミンナの急逝

1866年、別居していた先妻・ミンナが急逝。この知らせを聞いたワーグナーはスイスのルツェルンの郊外・トリープシェンに移住し、ここで後妻になるコジマと共に暮らし始めました。

1870年 – 55歳「後妻・コジマ・ワーグナーと結婚」

後妻であるコジマと結ばれたワーグナーだが
その結婚は大きな軋轢を生む結果にもなった

コジマと正式に結婚

この年、後妻であるコジマと正式に婚姻を結んだワーグナー。しかし不貞の恋を実らせたことで、コジマの前夫であるビューローとは袂を分かつ結果となってしまいました。

また、生年不明ですが娘であるイゾルデと、1869年には長男であるジークフリートが結婚前に誕生しており、ワーグナーはこの年の妻の誕生日に『ジークフリート牧歌』という曲を、妻と子供たちに送っています。

1872~1876年 – 57~61歳「バイロイト祝祭劇場の建築を開始」

ワーグナーが夢見ていたバイロイト祝祭劇場は、現在も観光名所として人々が絶えない

バイロイト祝祭劇場と『ニーベルングの指環』が完成

バイロイトに移住したワーグナーは、かねてよりの夢だった、自身の自身による自身のための劇場であるバイロイト祝祭劇場の建築を開始。

更に建築途中の1874年に、大長編の4部作である『ニーベルングの指環』が完成し、1876年のバイロイト祝祭劇場の完成と同時に、ワーグナーの演出によって『ニーベルングの指環』が華々しく上演されました。

しかしこの時の『ニーベルングの指環』の初演は、あまり評価が高くなかったようで、ワーグナーは再演を計画。しかし劇場の建設などによる多額の負債によって、彼の生前に『ニーベルングの指環』が再び演じられることはありませんでした。

1882年 – 68歳「生涯最後の指揮」

ワーグナーが生涯最後の指揮を行ったとされる、ラ・フェニーチェ劇場の現在

生涯最後に指揮した曲は…

老いてなお様々な作曲や文筆活動を展開し、良かれ悪しかれ多くの分野に影響を与えたワーグナーは、この年のクリスマスに生涯で最後の指揮を行っています。

この時に指揮した曲は、ワーグナー自身が作曲した唯一の交響曲である『交響曲第一番ハ長調』であるとも言われ、クリスマスと言う日取りも相まって、中々ロマンチックさを感じさせるエピソードにもなっています。

1883年 – 69歳「ヴェネツィアにてこの世を去る」

ワーグナーの墓

2月、ヴェネツィアにて死去

1883年2月13日、ワーグナーは旅行先のヴェネツィアにてこの世を去りました。死因はかねてより患っていた心臓発作だとされています。

妻であるコジマは、その死に大変ショックを受けたようで、夫の遺体を抱きしめながら一日中身動き一つしなかったという記録が残されています。

遺体はバイロイトにある自宅の、ヴァーンフリート荘に埋葬され、現在もワーグナーのファンがしきりに墓参りに訪れているようです。

ワーグナーの死後、その音楽たちは

ワーグナーの死後、彼の遺した様々な音楽は、ヒトラー率いるナチスドイツの庇護を受け、その活動に利用されることになりました。

これによって、「ワーグナーの音楽=ナチスドイツの象徴」のような印象が様々なところに植え付けられてしまい、現在もイスラエルやドイツなどでは、ワーグナーという人物については激しい議論が展開されているのが現状です。

リヒャルト・ワーグナーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ワーグナー

ワーグナーの伝記と作品評論が、丁度いい具合に混ぜ合わされた「ワーグナー入門」にピッタリの書籍です。

「伝記」「評論」のどちらかに特化した書籍がお望みの方にはお勧めできませんが、今からワーグナーについて知っていきたいという方には、まずはこの1冊から勉強を始めることをお勧めいたします。

ニーベルングの指環

ワーグナーの歌劇『ニーベルングの指輪』の漫画版です。良い意味で漫画的ではなく、原作である歌劇のリスペクトとして書かれているため、あくまでも「歌劇をそのままコミカライズした作品」として楽しめます。

絵柄としては若干古めかしく、「漫画を楽しみたい!」という方には不向きですが、「自分なりのペースで『ニーベルングの指輪』を楽しみたい!」という方にはぴったりの作品ですので、そういった方はぜひ挑戦してみてください。

トリスタンとイゾルデ (オペラ対訳ライブラリー)

歌劇『トリスタンとイゾルデ』の対訳です。小説のように「これ1冊で全てわかる」というタイプの本ではありませんが、『トリスタンとイゾルデ』の物語の予習や、歌劇とこの1冊を突き合わせることで作品を非常に理解しやすくなる1冊になっています。

これ1冊を購入するのではなく、『トリスタンとイゾルデ』の全編を感激する際の予習や、ガイドブック的な使い方をすることで、作品の魅力をさらに高めることのできる一冊だと言えるでしょう。

おすすめの映画

地獄の黙示録

言わずと知れた戦争映画の名作であり、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が劇中歌として使われた作品です。

『ワルキューレの騎行』が流れるシーンは、その描写も相まってインパクト抜群の代物。「ワーグナー好き」というよりも、彼の音楽の壮大さが好きな方にぜひ見てほしい、映画BGM界の三本の指に入るほどの名シーンです。是非ともご覧ください。

関連外部リンク

ワーグナーの有名な曲・代表曲 解説と試聴
リヒャルト・ワーグナー記念館

リヒャルト・ワーグナーについてのまとめ

ドイツオペラの大成や近代指揮理論の提唱など、多くの功績を残した偉大な音楽家であるワーグナー。その壮大な音楽や楽劇が、今も多くの人々を楽しませていることからも、彼が遺した功績は非常に大きいものであると言えるでしょう。

しかしその一方で、彼自身があまり褒められた性格の持ち主ではなかったこともまた事実。天才音楽家としての功績と、一個人としてのどうにも格好のつかないダメさ加減は、転じて「歴史の難しさ」「人間の多面性」を象徴しているように筆者には映りました。

筆者個人としても書きながら学ぶ部分は大きく、どうにも捉えがたい彼に対する評価は、まだ考え続ける必要性を感じています。2020年6月現在も世界各地で起こっている様々な差別や社会問題などにも通じるこの問いは、ただの「ワーグナーへの評価」だけでなく「当時の社会に対する評価」としても考え続ける必要がありそうです。

もしよろしければ、この記事をお読みいただいた皆さんも、私と一緒に「ワーグナーから続く社会問題」について考えていただければと思います。

それでは、この記事におつきあい頂いまして誠にありがとうございました。

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