リヒャルト・ワーグナーの年表
1813年 – 0歳「ザクセン王国・ライプツィヒにて誕生」
評価の高い下級官吏の子として生まれるが…
1813年の5月22日、リヒャルト・ワーグナーはザクセン王国のライプツィヒにてこの世に生を受けました。父であるカール・フリードリヒ・ワーグナーは、身分こそ下級官吏でしたがフランス語が堪能で、当時ザクセン王国に駐屯していたナポレオンの通訳として駆り出されるなど、上役からの覚えのいい人物で、そこそこ羽振りの良い人物だったようです。
しかし、原因は不明ですがカールはリヒャルトが生まれて6か月後に死去。これによって未亡人となったリヒャルトの母・ヨハンナ・ロジーネ・ワーグナーは、ユダヤ人俳優であり、カールとも知り合いだったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚。
晩年の彼の思想を見ると信じられない事でもありますが、彼はユダヤ人の義父から愛を受けて、すくすく成長していくことになったのです。
幼きリヒャルト・ワーグナー
ワーグナー家は元々音楽好きとして知られる家であり、幼い日のワーグナー家の子供たちは、その将来を示すように多くの音楽に触れて過ごしました。
特に一家と親交があり、度々ワーグナー家に出入りしていた作曲家、カール・マリア・フォン・ウェーバーは幼いリヒャルトにとっては憧れの人物だったようで、唯我独尊の考え方が強いリヒャルトが、生涯を通じて敬意を払い続けた人物として知られています。
1828年 – 15歳「ベートーベンに憧れ、音楽家を志す」
ベートーベンに憧れ、音楽家を目指す
幼いころから音楽に接して育ったリヒャルトは、この年にベートーベンの音楽に触れ、その音楽に強いあこがれを抱き、音楽家として生きる道を選んだのだそうです。
一方で、シェイクスピアやギリシャの古典に触れたことで劇作家としての道にも興味を示していたらしく、後の「楽劇王」となるワーグナーの片鱗は、この頃から確実に散見されていました。
1831年 – 18歳「対位法作曲の基礎を学ぶ」
音楽家としての目覚め
音楽家を目指すようになって以降、様々な作曲や『交響曲第9番』のスコア作成などを行っていたリヒャルトですが、そこへの評価は「子供にしては凄い」程度のもの。
そんな中で彼はこの年、聖トーマス教会のテオドール・ヴァインリヒから指導を受け、対位法作曲の基礎を教えられたと記録されています。
1833年 – 20歳「ヴァルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者になる」
『交響曲第一番ハ長調』を作曲
1832年、19歳のころに、ワーグナーは『交響曲第一番ハ長調』を作曲。ワーグナーが作曲した唯一の交響曲として知られるこの作品は、ベートーベンやモーツァルト、そして尊敬する師であるウェーバーの影響を強く受けた作品として仕上がっています。
しかしこの『交響曲第一番ハ長調』の原本は紛失してしまっており、現在で回っているのはアントン・ザイドルによって復元され、その際にワーグナーが若干改訂を行った第二稿になっています。
ヴァルツブルク市立歌劇場、最初の論文、最初の恋人
1833年、ヴァルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となったワーグナーは、時を同じくして劇作にも手を出しますが、これには失敗。生来の金遣いの荒さも相まって、この頃のワーグナーの生活はかなり困窮していたようです。
また、1834年には青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、最初の論文である『ドイツのオペラ』を発表。「真の音楽は何処にもよらない場所から生まれる」という、青年ドイツ派の影響を受けた論調を発表しました。
また、同じ年にマクデブルクのベートマン劇団の指揮者に抜擢され、そこで知り合った女優、ミンナ・プラーナーと恋仲にもなっていたようです。
1836年 – 23歳「結婚、そして遍歴へ」
ケーニヒスベルクへ
この年、ワーグナーとミンナが所属するベートマン劇団が解散。ミンナはケーニヒスベルクの劇団と契約したため、ワーグナーも彼女についていく形でケーニヒスベルクに向かい、二人は同地で結婚することになりました。
しかし、独占欲の強いワーグナーと、浮気性なミンナの関係はかなり不安定だったようで、1837年の5月に、ミンナはワーグナーの元を離れて姿を消してしまいました。
遍歴生活の始まり
ミンナが姿を消してからしばらくの間、ワーグナーはドレスデンや帝政ロシア領リガ(現ラトビア)などで劇場指揮者をしながら各地を遍歴。
しかし1839年にはリガの劇場を解雇されてしまい、多額の借金を抱えながら彼はロンドンへと密航を行いました。ワーグナーの良くない側面が出ているエピソードですが、この密航時に暴風に遭ったことが、後のオペラ『さまよえるオランダ人』の原型になったとも言われています。
1839年 – 26歳「パリにて~後の禍根の始まり~」
パリにて~邪推の目覚め~
リガからロンドンを経由してパリにわたったワーグナーは、ミンナ夫人の知り合いであるジョコモ・マイアベーアの庇護を受けてパリで活動することになります。
マイアベーアはパリで活躍する売れっ子のユダヤ人音楽家であり、ワーグナーは彼が自分を後援し、生活の援助をしてくれることに感激し、彼の事を尊敬していましたが、次第にマイアベーアの後援が意味を成さないことが増えてくると、その尊敬は邪推へと変化。
結果としてワーグナーは、マイアベーアのようなユダヤ人やパリの音楽を敵視する、非常に偏った思想観を抱くことになってしまいました。
1842年 – 29歳「『リエンツィ』でようやく注目を集める」
鬱屈を抱えたまま、パリを去る
ワーグナーがエドワード・ブルワー=リットンの小説を題材にして制作したオペラ『リエンツィ』が、ザクセン王国のゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)で上演決定。
これによってワーグナーは、マイアベーアへの邪推から生じた反ユダヤ感情や、自分の作品を認めないパリへの鬱屈を抱えたまま、パリを去ってザクセン王国へと戻ることになりました。
『リエンツィ』初演
1842年10月20日に行われた『リエンツィ』の公演は大成功。これによってワーグナーは、遅咲きながらようやく音楽界で注目を集めることになりました。
そしてその注目もあってか、1843年にはザクセン宮廷指揮者に任じられることに。これによってザクセン王国の音楽界において、ワーグナーの名声は非常に高まることになりました。
また、1843年には『さまよえるオランダ人』の初演も行われましたが、これは成功こそしたものの、『リエンツィ』程の大ヒットにはなれなかったことが記録されています。
1843~1847年 – 30~34歳「ザクセン宮廷指揮者として」
1844年・尊敬する師を偲ぶ式典の演出を行う
ザクセン宮廷指揮者となったワーグナーは、1844年に、尊敬する師であり1826年にこの世を去ったウェーバーの遺骨を移葬する式典の演出を担当。葬送行進曲や、ウェーバーの功績を讃える合唱などを作曲し、いまは亡き師を偲びました。
また、ワーグナーが担当した追悼演説も評判が高かったらしく、この式典はウェーバーへの尊敬の念があったにせよ、ワーグナーの多才さを多くの人々に知らしめる結果ともなりました。
1845年・『タンホイザー』を作曲、上演
この年、彼の代表的な作品の一つである『タンホイザー』が初演。『タンホイザー』は発表当初こそ不評でしたが、回を重ねるごとにその評判は塗り替わっていき、最終的にはザクセンお告各地で上演される大ヒット作品となりました。
1846年・『交響曲第9番』を指揮。忘れられた曲に日の目を当てる
この年、ワーグナーは特別演奏会で、ベートーベンの『交響曲第9番』を指揮。今でこそ「名曲」と名高い『第九』ですが、当時は半ば忘れられた作品となっており、周囲からの反対も大きなものでしたがワーグナーは演奏を断行。
結果として演奏は大成功に終わり、以降『交響曲第9番』は、名曲としての評価を確立することになりました。
1847年・ザクセン宮廷指揮者を辞任する
この前年よりワーグナーは、王立歌劇団の待遇改善や団員の増強を求めていましたが、楽団の総監督はこれをすべて却下。
これに腹を立てたワーグナーは宮廷演劇顧問に直訴しますが、これも突っぱねられたため、彼はザクセン宮廷指揮者を辞任することになりました。
1848年 – 35歳「ドイツ3月革命に参加」
ドイツ3月革命
19世紀のヨーロッパを覆っていた革命の機運が、この頃にはドイツにも浸透。「ドイツ3月革命」と名付けられるこの事件は、革命の元祖となったフランスのような国民像をドイツにも浸透させるために始まったもので、ワーグナーはその革命派に加入し、革命活動を行いました。
しかしワーグナーの行った演説は多くの人々から攻撃されたようで、彼は革命派の中において、あまり支持を集めることはできなかったようです。
スイスへ亡命
また、革命の機運が高まる中で、ユダヤ人排斥の動きも加速。そんな中である1849年に起こったドレスデン蜂起にワーグナーは中心人物として参加しますが、これは失敗。
指名手配犯となってしまったワーグナーは、ドイツを脱出してスイスのチューリッヒへ亡命することを余儀なくされてしまいました。