リヒャルト・ワーグナーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲も紹介】

1849~1862年 – 36~49歳「スイス亡命生活」

スイスに亡命したワーグナーを助けた、フランツ・リスト

亡命生活の最中、様々な論文を発表

祖国を追われ、スイスのフランツ・リストのもとに身を寄せることになったワーグナーは、『芸術と革命』『未来の芸術作品』『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』などの論文を続々と発表し、自身の思想を広める文筆活動を行いました。

その内容こそ「大言壮語」「誇大妄想」と呼べるようなものが殆どですが、この時期のワーグナーの文筆活動は非常に旺盛で、それらの論文は歴史的資料として価値を持つものになっています。

1850年・『ローエングリン』の初演と、加速するユダヤへの嫌悪

この年、ワイマールにてオペラ『ローエングリン』の初演が敢行。リストの尽力があっての初演でしたが、指名手配犯であるワーグナーはその初演を見ることができず、ワーグナーが初めて『ローエングリン』を聞いたのは、1861年だったと伝わっています。

また、この頃からワーグナーの反ユダヤ感情は加速。リストの前でユダヤ人を口汚くののしっていたことが記録されています。

しかしその一方でユダヤ人ピアニストのカール・タウジヒらを庇護する活動を行っているなど、音楽については人種に関わりなく真摯に向き合っていたことも分かっています。

1851年・『ニーベルングの指環』の執筆を開始

2016年に国立新劇場で上演された『ニーベルングの指環』

1851年に、後の彼の代表作となる『ニーベルングの指環』の執筆を開始。

4部作に及ぶ長編であるこの作品は、1853年に台本が私費出版され、1869年に初演が行われたことが記録されていますが、実はこの初演時に『ニーベルングの指環』はまだ完結していなかったらしく、この初演はワーグナーの望むものではなかったようです。

1862年・亡命生活の終わり

論文の発表や『ニーベルングの指輪』の執筆を行なっていたワーグナーでしたが、この年には恩赦によって指名手配が解除され、彼はザクセンに帰ることに。

別居していた妻であるミンナとは、この時に再会したようですが、これ以降彼らが再び会ったという記録は残っていません。

1864年 – 51歳「ルートヴィヒ2世より、王宮に招かれる」

「狂王」という蔑称でも知られるルートヴィヒ2世は
ワーグナーの熱烈な信望者だった

ルートヴィヒ2世からの招待

バイエルン国王であるルートヴィヒ2世から正体を受けたワーグナーは、王宮で彼と謁見。

しかし音楽と神話に心酔し、破滅的な浪費を繰り返すルートヴィヒ2世に対する敵対勢力や、リストの娘でありハンス・フォン・ビューローの妻であるコジマとの不貞にまつわるスキャンダルで、招かれたワーグナーは一転してスイスに退避する羽目になってしまいました。

1866年・先妻・ミンナの急逝

1866年、別居していた先妻・ミンナが急逝。この知らせを聞いたワーグナーはスイスのルツェルンの郊外・トリープシェンに移住し、ここで後妻になるコジマと共に暮らし始めました。

1870年 – 55歳「後妻・コジマ・ワーグナーと結婚」

後妻であるコジマと結ばれたワーグナーだが
その結婚は大きな軋轢を生む結果にもなった

コジマと正式に結婚

この年、後妻であるコジマと正式に婚姻を結んだワーグナー。しかし不貞の恋を実らせたことで、コジマの前夫であるビューローとは袂を分かつ結果となってしまいました。

また、生年不明ですが娘であるイゾルデと、1869年には長男であるジークフリートが結婚前に誕生しており、ワーグナーはこの年の妻の誕生日に『ジークフリート牧歌』という曲を、妻と子供たちに送っています。

1872~1876年 – 57~61歳「バイロイト祝祭劇場の建築を開始」

ワーグナーが夢見ていたバイロイト祝祭劇場は、現在も観光名所として人々が絶えない

バイロイト祝祭劇場と『ニーベルングの指環』が完成

バイロイトに移住したワーグナーは、かねてよりの夢だった、自身の自身による自身のための劇場であるバイロイト祝祭劇場の建築を開始。

更に建築途中の1874年に、大長編の4部作である『ニーベルングの指環』が完成し、1876年のバイロイト祝祭劇場の完成と同時に、ワーグナーの演出によって『ニーベルングの指環』が華々しく上演されました。

しかしこの時の『ニーベルングの指環』の初演は、あまり評価が高くなかったようで、ワーグナーは再演を計画。しかし劇場の建設などによる多額の負債によって、彼の生前に『ニーベルングの指環』が再び演じられることはありませんでした。

1882年 – 68歳「生涯最後の指揮」

ワーグナーが生涯最後の指揮を行ったとされる、ラ・フェニーチェ劇場の現在

生涯最後に指揮した曲は…

老いてなお様々な作曲や文筆活動を展開し、良かれ悪しかれ多くの分野に影響を与えたワーグナーは、この年のクリスマスに生涯で最後の指揮を行っています。

この時に指揮した曲は、ワーグナー自身が作曲した唯一の交響曲である『交響曲第一番ハ長調』であるとも言われ、クリスマスと言う日取りも相まって、中々ロマンチックさを感じさせるエピソードにもなっています。

1883年 – 69歳「ヴェネツィアにてこの世を去る」

ワーグナーの墓

2月、ヴェネツィアにて死去

1883年2月13日、ワーグナーは旅行先のヴェネツィアにてこの世を去りました。死因はかねてより患っていた心臓発作だとされています。

妻であるコジマは、その死に大変ショックを受けたようで、夫の遺体を抱きしめながら一日中身動き一つしなかったという記録が残されています。

遺体はバイロイトにある自宅の、ヴァーンフリート荘に埋葬され、現在もワーグナーのファンがしきりに墓参りに訪れているようです。

ワーグナーの死後、その音楽たちは

ワーグナーの死後、彼の遺した様々な音楽は、ヒトラー率いるナチスドイツの庇護を受け、その活動に利用されることになりました。

これによって、「ワーグナーの音楽=ナチスドイツの象徴」のような印象が様々なところに植え付けられてしまい、現在もイスラエルやドイツなどでは、ワーグナーという人物については激しい議論が展開されているのが現状です。

リヒャルト・ワーグナーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ワーグナー

ワーグナーの伝記と作品評論が、丁度いい具合に混ぜ合わされた「ワーグナー入門」にピッタリの書籍です。

「伝記」「評論」のどちらかに特化した書籍がお望みの方にはお勧めできませんが、今からワーグナーについて知っていきたいという方には、まずはこの1冊から勉強を始めることをお勧めいたします。

ニーベルングの指環

ワーグナーの歌劇『ニーベルングの指輪』の漫画版です。良い意味で漫画的ではなく、原作である歌劇のリスペクトとして書かれているため、あくまでも「歌劇をそのままコミカライズした作品」として楽しめます。

絵柄としては若干古めかしく、「漫画を楽しみたい!」という方には不向きですが、「自分なりのペースで『ニーベルングの指輪』を楽しみたい!」という方にはぴったりの作品ですので、そういった方はぜひ挑戦してみてください。

トリスタンとイゾルデ (オペラ対訳ライブラリー)

歌劇『トリスタンとイゾルデ』の対訳です。小説のように「これ1冊で全てわかる」というタイプの本ではありませんが、『トリスタンとイゾルデ』の物語の予習や、歌劇とこの1冊を突き合わせることで作品を非常に理解しやすくなる1冊になっています。

これ1冊を購入するのではなく、『トリスタンとイゾルデ』の全編を感激する際の予習や、ガイドブック的な使い方をすることで、作品の魅力をさらに高めることのできる一冊だと言えるでしょう。

おすすめの映画

地獄の黙示録

言わずと知れた戦争映画の名作であり、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が劇中歌として使われた作品です。

『ワルキューレの騎行』が流れるシーンは、その描写も相まってインパクト抜群の代物。「ワーグナー好き」というよりも、彼の音楽の壮大さが好きな方にぜひ見てほしい、映画BGM界の三本の指に入るほどの名シーンです。是非ともご覧ください。

関連外部リンク

ワーグナーの有名な曲・代表曲 解説と試聴
リヒャルト・ワーグナー記念館

リヒャルト・ワーグナーについてのまとめ

ドイツオペラの大成や近代指揮理論の提唱など、多くの功績を残した偉大な音楽家であるワーグナー。その壮大な音楽や楽劇が、今も多くの人々を楽しませていることからも、彼が遺した功績は非常に大きいものであると言えるでしょう。

しかしその一方で、彼自身があまり褒められた性格の持ち主ではなかったこともまた事実。天才音楽家としての功績と、一個人としてのどうにも格好のつかないダメさ加減は、転じて「歴史の難しさ」「人間の多面性」を象徴しているように筆者には映りました。

筆者個人としても書きながら学ぶ部分は大きく、どうにも捉えがたい彼に対する評価は、まだ考え続ける必要性を感じています。2020年6月現在も世界各地で起こっている様々な差別や社会問題などにも通じるこの問いは、ただの「ワーグナーへの評価」だけでなく「当時の社会に対する評価」としても考え続ける必要がありそうです。

もしよろしければ、この記事をお読みいただいた皆さんも、私と一緒に「ワーグナーから続く社会問題」について考えていただければと思います。

それでは、この記事におつきあい頂いまして誠にありがとうございました。

1 2 3 4

コメントを残す