ロスチャイルド家とは?資産や家系図、歴史、現在の事業までを詳しく解説

ロスチャイルド家と日本との関係

世界の支配構造まとめ

ロスチャイルド家と日本の関わりは、幕末まで遡ります。パリのロスチャイルド家のジェームスは徳川家を支援し、ロンドンのロスチャイルド家のライオネルは薩長を支援しました。

ロスチャイルド家は、明治以降の日本に対して影響力を持てるよう、伊藤博文と井上馨を育て、以降は榎本武揚、高橋是清、原敬を育てました。

三井家はロスチャイルド家と組んで日本の大財閥となり、日本の金融を動かすようになりました。1904年に日露戦争が起きると、ロスチャイルド家のアメリカにおける大番頭だったヤーコブ・シフは、日本に1000万ポンドの資金提供をしています。

また、渋沢栄一が日本銀行の元となった第一銀行を作ったのは、パリのロスチャイルド家2代目当主のアルフォンソに目をかけられていたからとも言われています。

ロスチャイルド家の家系図

ロスチャイルド家の家系図
出典:Celeby

ロスチャイルド家は、金貸し業を営みながら生活をしていた初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルドから始まります。

マイアーは、ドイツの名門貴族ヘッセン家のヴィルヘルム9世と知り合い、高利貸しとなって莫大な自己資金を得ました。その後、ロスチャイルド家を一層発展させ、ロスチャイルド家の基礎を固めたのがマイヤーの5人の息子たちです。

報道されない権力者 世界の真の支配者ロスチャイルド一族

マイアーは、長男をフランクフルトに残し、残りの4人の息子たちをヨーロッパ列強であったフランス、イギリス、イタリア、オーストリアの首都に送りました。息子たちは兄弟ならではの強いネットワークを築き協力しあったことで、ロスチャイルド家は国際的に発展します。

4か国に派遣された息子たちは、それぞれの国の政府と結びつき、貴族の称号を得てロスチャイルド家の基礎をつくると同時に、国際金融ビジネスの原型を作り上げました。

ロンドンのロスチャイルド家

ネイサン・メイアー・ロスチャイルド

ロンドンのロスチャイルド家は、マイアー・ロスチャイルドの3男ネイサン・ロスチャイルドが作りました。1810年にロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなると、ネイサンが新しい支配者となり、世界一の金融王となります。

1815年、フランス軍とイギリス軍が戦ったワーテルローの戦いで、イギリス勝利の情報を入手したネイサンは、イギリス国債を売ることでイギリスの敗北を偽装し、自らは紙屑同然のイギリス国債を極秘に買い漁ったことで大儲けをしました。この出来事で多くの投資家と多くの名門家系が破産しましたが、ネイサンは約100万ポンドの利益を得、ロスチャイルド家の財産は2500倍に膨れ上がったといわれています。

1875年には、ロスチャイルド一族の融資によってイギリス政府がスエズ運河会社の最大株主となり、ロスチャイルド一族はイギリス政府との結びつきを強めていきました。ロンドンのロスチャイルド家は、現在に至るまでもイギリス王室や政府と結びつき、MI5やMI6の設立や近代化にも貢献しました。

パリのロスチャイルド家

ジェイコブ・マイエール・ド・ロチルド

パリのロスチャイルド家は、マイアーの5男であるジェイムス・ロスチャイルドがつくりました。ジェイムスは金融業だけでなく、鉄道事業に進出し「ヨーロッパの鉄道王」 と呼ばれ、他にも南アフリカのダイヤモンド鉱山や金鉱山への投資や、ロシアのバクー油田の利権を握るなど、交通産業・エネルギー産業・貴金属産業での権力を拡大しました。

先のワーテルローの戦いで敗れたフランスは、イギリス同盟国に賠償金の7億フランを支払わなければならず、ジェームスはこの支払いを公債として引き受けました。ジェームスは、この公債を売却して得たお金を投資家の貸付けに流用し、年間で50%の利息を稼いだといわれています。また、ジェームスはウィーンのサロモン・ロスチャイルドと協力し、ヨーロッパ全体を網羅する通信システムと馬車輸送のネットワークを作り上げました。

ウィーンのロスチャイルド家

ルイ・ロスチャイルド男爵の逮捕

ウィーンのロスチャイルド家は、マイアーの次男であるサロモン・ロスチャイルドが作りました。サロモンは、鉄道や製鉄所などへの投資で成功を収め、ハプスブルク帝国一の銀行家に。パリのジェームスと共に通信と馬車輸送のネットワークを築くなど、他国にいる兄弟たちと連携をとりロスチャイルド家の力を一層強めることに成功します。

しかし、ウィーンのロスチャイルド家は、5代目当主ルイ・ロスチャイルドが第二次世界大戦下にアメリカに亡命したことで、途絶えます。ナチスドイツに押収されたウィーンの邸宅や資産は、戦後にルイの元に返還されましたが、それらは全てオーストリアに寄付し、ウィーンに戻ることはありませんでした。アメリカに亡命後ニューイングランド地方バーモント州の農場に住み、家業の再開をしなかったルイは、ウィーンのロスチャイルド家の最後の当主となりました。

ナポリのロスチャイルド家

カール・マイアー・フォン・ロートシルト

ナポリのロスチャイルド家は、マイアーの4男カール・ロスチャイルドが始めました。1821年にオーストリア軍がナポリを占領したのをきっかけに、長男アムシェルによってナポリに派遣されました。カールは、ルイージ・デ・メディチ蔵相に接近し、良好な関係を作り上げると、ロスチャイルド家の銀行をナポリにおける主要銀行とすることに成功します。

1822年、カールは4人の兄弟ともに、オーストリア皇帝フランツ1世から男爵に叙せられます。1829年には、シチリアの在フランクフルト総領事に任命され、1832年1月にはローマ教皇グレゴリウス16世から騎士団勲章を受けています。

フランクフルトのロスチャイルド家

アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト

フランクフルトのロスチャイルド家は、マイアーの長男アムシェル・ロスチャイルドが引き継ぎました。大陸諸国に侵攻したナポレオンが、イギリスに経済的打撃を与えるため大陸封鎖令を出すと、ロンドンに渡ったネイサンと協力し、大陸にイギリス商品を密輸し、大陸各地に売りさばいて利益をあげました。

1812年に父マイアーが死去すると、アムシェルはロスチャイルド家の家長の座とフランクフルト・アム・マインの銀行を引き継ぎます。アムシェルには子供がいなかったため、フランクフルトのロスチャイルド家は2代目のアムシェルを最後に途絶えてしまいました。

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