アンリマティスはパブロ・ピカソと並んで20世紀を代表する絵画の巨匠です。それまでの芸術の概念にはなかった「フォーヴィズム」という革命的な画法を発表しました。人物の肌に緑色を用いたり、現実ではありえない形の物を描いたりして話題となったのです。
マティス以前の絵画は、写真の代わりでもあったため、いかに本物に近づけられるかが1つの焦点でもありました。しかし、写真の技術が発達してから「本物そっくりの絵」は需要が少なくなっていったのです。
そこで、20世紀の芸術は「絵画にしか出せない表現」を模索する時代となりました。その第一歩を踏み出したのがアンリマティスだったのです。
マティスの発表した「フォーヴィズム」はその後の芸術家たちに多大な影響を及ぼすのでした。ピカソの作り上げた「キュビズム」という概念も「フォーヴィズム」の影響を受けているのです。
マティスが活躍していた時代から100年近くが経過していますが、いまだに彼の展覧会が多くの場所で開催されています。なぜマティスの絵画がこれほどまでに私たちを惹きつけるのでしょうか。もちろん作品から受ける衝撃や感動が大きいことがその理由ですが、それだけではありません。
マティスの描いた「大きな赤い室内」の鮮やかな色彩に魅了され、部屋に飾る用のポスターを購入するほどファンになってしまった筆者が、さまざまな文献を読み漁って得た知識をもとに、アンリマティスの生涯、作品、エピソードについてご紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アンリマティスとはどんな人物か
名前 | アンリ・エミール・ブノワ・マティス |
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誕生日 | 1869年12月31日 |
没日 | 1954年11月3日 |
生地 | フランス ノール県ル・カトー=カンプレシ |
没地 | フランス アルプ=マリティーム県=ニース |
配偶者 | アメリー・パレイル(1898-1939) |
埋葬場所 | フランス・ニース ノートルダム・ド・シミエ修道院 |
アンリマティスの生涯をハイライト
アンリマティスの生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- フランス北部のノール県ル・カトー=カンプレシにて誕生。
- 父親の要望により、弁護士を目指す。法律を学びにパリへ。
- 虫垂炎を患い、入院。その療養中に母親に絵画を勧められ、のめり込むようになる。
- 芸術の道へ進むことを決心し、美術学校へ進学。
- アメリー・パレイルとの結婚。2人の男の子をもうける。
- 「帽子の女性」と「開いた窓」をサロンに出品し、批評家から「フォーヴ(野獣)だ!」と酷評される。これをきっかけに「フォーヴィズム」が広がっていく。
- パブロ・ピカソと出会う。生涯を通じて切磋琢磨し、20世紀の芸術を牽引していく。
- 晩年にはドミニコ会修道院のデザインを手がける。
- フランスのニース滞在中、心臓発作で帰らぬ人となる。享年84歳。
「フォーヴィズム」の由来となった作品たち
マティスの有名な作品は数多くありますが、やはり「フォーヴィズム」の由来となった「帽子の女性」「開いた窓」はマティスの代表作と言えるでしょう。今までに前例がないような色使い(人間の肌に緑色を使う、景色に赤を多用する)で表現し、当時は大いに批判されました。
しかし、20世紀の絵画の革新はこのマティスの絵から始まったのです。のちのピカソの「キュビズム」やジャクソン・ポロックの「抽象表現主義」などもマティスの活動がなければ、それまでの概念を破壊して新しい芸術を生み出すという風潮は起こらなかったかもしれません。
マティスの作品では他にも「大きな赤い室内」、「ダンス」、「ブルーヌード」などが特に有名な作品となっています。
ゴッホとピカソに大きな影響を受ける
マティスはさまざまな人から影響を受け、また影響を与えました。その中でも特にマティスの人生を左右した人物はゴッホとピカソです。
マティスは1906年、ゴッホの絵画に偶然出会ったときにその色彩に衝撃を受けました。当時ゴッホは全くの無名で、絵画も世間には知られていませんでしたが、マティスはその迫力に圧倒され、その後の自身の絵画では鮮やかな色使いをするようになったのです。
また、ピカソとはお互いに影響を与え合った1人です。性格や趣向の違う2人は進む道こそ異なりましたが、20世紀の芸術へ与えた影響は計り知れません。マティスが「フォーヴィズム」を確立すれば、ピカソが「キュビズム」を発表し、一方が古典回帰をすれば、もう一方が違う形での古典芸術の表現を編み出すなど、生涯を通じて切磋琢磨したのでした。
おおらかで思いやりのある人物
マティスの性格は、同時代の画家ジョルジュ・ルオーに宛てた手紙の中から考察できます。手紙の中には、ナチス迫害下で物資の不足に苦しむルオーに対して、油を送ったり、状況を気遣ったりする文面が見受けられました。マティスは他人を思いやることのできる、心の広い人物だったようです。
マティスは絵画を描く上で目指していたのは「不安や気がかりのの無い、均衡と純粋さと静穏の芸術」でした。これはマティスの育ったフランスの「良識と中庸」という文化に起因していると思われます。そのような環境下で生活していたマティスは周囲からも、非常におおらかな性格だったと言われていました。
3人の子供をもつ父親
マティスは1898年にアメリ―パレイルと結婚しました。アメリ―は帽子デザイナーで、婦人用品店を経営している女性でした。マティスの作品『緑の筋のあるマティス夫人』のモデルとして知られています。
2人の間にはジャン、ピエールという2人の息子がいます。また、マティスと元恋人の間に生まれた娘・マルグリットも育てていました。このうち次男のピエールはニューヨークでギャラリーを営むようになり、シュールレアリスムの画家をはじめ多くのアメリカ現代美術のアーティストを世に紹介しました。
日本で見られるマティス作品
現在、マティスの作品は世界中の美術館に収蔵されています。日本で数多く所蔵しているのは、東京・中央区にあるアーティゾン美術館です。油絵やステンシルをはじめ、40点ものマティス作品を収蔵しています。
神奈川・箱根にあるポーラ美術館にも数多くあります。西洋絵画を中心に1万点もの作品をコレクションしている美術館で、マティスの作品は12点ほど収蔵されています。
アンリマティスの功績
功績1「フォーヴィズムの提唱者」
マティス以前の画家は、モチーフをいかに本物らしく描き上げるかが画家としての力の証明にもなっていました。しかし、写真の技術が向上すると、対象物をリアルに描く必要が次第になくなっていきます。そこで、絵画の時代はもう終わりなのではないかという風潮が出始めていたときにマティスの「フォーヴィズム」が台頭するのです。
「見た通りに描かなくても芸術と呼べるのではないか」「自分の感じたことをそのままキャンバスに描くことが芸術なのではないか」という考えのもと、普通では考えられないような色彩を駆使して絵を描いていきました。そうして出来上がったのが「帽子の女性」と「開かれた窓」です。
批評家には「フォーヴ(獣)に囲まれているような絵だ!」と揶揄されますが、これが「フォーヴィズム」の語源となり、のちの芸術家たちに多大な影響を与えることになるのでした。
功績2「色彩の魔術師の異名を持つ」
マティスの絵は赤、緑、青など原色に近い色を多用して描かれている印象があると思います。特にフォーヴィズムの初期の頃は非常に鮮やかな色をキャンバスの上に並べており、「色彩の魔術師」の異名も持ち合わせていました。
ピカソとマティスはお互いに影響され合っていたということは先ほども述べましたが、ピカソが形の概念を壊すことを目指していたのに対し、マティスは色彩の常識を覆すことを念頭に置いて絵画に取り組んでいました。
そのため、マティスの描いた絵は平面的で、奇抜な色に富んだ作品が多くなっているのです。当時の芸術の傾向からすると考えられないような作風であり、非常に革新的な考え方でした。
功績3「20世紀の3大アーティストの一人」
マティスはパブロ・ピカソ、マルセル・デュシャンと並んで、「20世紀3大アーティストの一人」としてその名を美術史に刻んでいます。20世紀は「写真には表せないようなアートを模索する」時代でした。そのような流れを大きく前進させたのがこの3人なのです。
ピカソは「キュビズム」によって1つの画面に多方向からの視点を取り入れたことで美術界に革命を与えました。デュシャンは「およそ美からはかけ離れている対象も芸術として成立するのではないか」という考えを示し、「便器」をアートとして展示したことで有名です。
そして、マティスは20世紀にアートの先駆けとなる「フォーヴィズム」を提唱し、今までの絵画の概念を破壊することに成功したのです。この3人なくして、この時代の多種多様な芸術は生まれてこなかったのではないかといわれています。
アンリマティスの代表作品
豪奢、静寂、逸楽
マティスのすべての作品の基礎であり、フォーヴィズムの出発点ともいわれる作品です。ポール・シニャックが提唱した「分割描法」によって描かれています。この作品を描いたことでマティスは「自分には『線』が必要だ」と気づき、翌年に分割描法を止めてフォーヴィズムの作風に転向しました。
帽子の女
『開いた窓』とともに、マティスやその仲間たちが「フォーヴィズム」と呼ばれるきっかけとなった作品です。先ほどの『豪奢、静寂、逸楽』での分割描法から抜け出して、マティス自身の表現を手に入れたターニングポイントになった作品でもあります。
モデルとなったマティスの妻・アメリ―は実際にはブラックドレスを着ていたとされています。マティスは、絵画では現実の色彩を再現する必要はなく、自身の心のままに色彩が表現されていればいいと考えていました。マティスのその考え方を頭に入れて作品を観ると、また違った面白さが出てきます。
赤いハーモニー(赤い部屋)
マティスがフォーヴィズムの作風で絵画を制作していたのは1908年から5年ほどのことでした。この期間に制作された中で最も完成度が高いといわれているのがこの作品です。パリにあったマティスのアトリエが描かれていて、画面右側にいるメイドは実は作品の構想を練るマティス自身だといわれています。
ダンスⅡ
マティスはダンスをモチーフにいくつもの作品を描いていますが、そのなかでも有名なのはエルミタージュ美術館にあるこちらの作品です。この作品を描いたころ、マティスはプリミティブ・アートに影響を受けていました。青と緑で描かれた自然を感じさせる背景に赤い肉体が躍動する構図は、抑圧からの解放や衝動を表現したものです。
トルコ椅子にもたれるオダリスク
「オダリスク」とは、イスラムの君主に寵愛を受けていたハーレムの女性のことです。パリ市立近代美術館にあるこの作品はマティスがイスラム美術に傾倒していたころの作品で、オダリスクをモチーフにしたところや赤地に青い模様の壁紙を背景にした部分などは大きく影響を受けています。マティスはモロッコなどへ旅をするたび、布や調度品を買って帰り作品に登場させました。
王の悲しみ
聖書に登場するサウル王とその悲しみを慰めるダビデが切り絵によって描かれています。カラフルな色使いに楽しげな人の姿、『王の悲しみ』というタイトルではありますが重きが置かれているのは悲しみを癒す行為の方に感じられます。おおらかな人柄だったといわれるマティスらしい作品です。
アンリマティスの名言
「真に独創的な画家にとって、バラを描くことより難しいことはないものだ。なぜならそのためには、まずこれまでに描かれた全てのバラを忘れる必要があるからだ。」
写真の技術が向上した後の絵画に影響を与えたマティスらしい名言です。これまでの「見た目に忠実に」という画風から「自分の感じたままに独創的に」という流れを作ったのがマティスであり、それを全ての画家に対して提唱しているのです。
「私は、ただ感覚を表現するような色を置くようにしている。」
「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスは常識にとらわれずに、自分が感じた色をそのままキャンバスに落とし込みました。肌の色が緑であれ、景色が赤色であれ、自らがそう感じたのであれば、それが絵画の真理であると考えたマティスの信念を表した言葉です。
「私はものを描かない。私はものとものの違いを描いているだけだ。」
マティスの絵は一つ一つのモチーフに焦点を当てると、何を描いているのか理解するのに時間がかかるかもしれません。しかし、他のものと比べることでそれが「花だ」「壁だ」「椅子だ」と気づくことが出来るのです。