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アンリマティスとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作品、名言から死因についても紹介】

アンリマティスはパブロ・ピカソと並んで20世紀を代表する絵画の巨匠です。それまでの芸術の概念にはなかった「フォーヴィズム」という革命的な画法を発表しました。人物の肌に緑色を用いたり、現実ではありえない形の物を描いたりして話題となったのです。

マティス以前の絵画は、写真の代わりでもあったため、いかに本物に近づけられるかが一つの焦点でもありました。しかし、写真の技術が発達してから、「本物そっくりの絵」は需要が少なくなっていったのです。そこで、20世紀の芸術は「絵画にしか出せない表現」を模索する時代となりました。その第一歩を踏み出したのがアンリマティスだったのです。

アンリマティス

マティスの発表した「フォーヴィズム」はその後の芸術家たちに多大な影響を及ぼすのでした。ピカソの作り上げた「キュビズム」という概念も「フォーヴィズム」の影響を受けているのです。

パブロ・ピカソ キュビズム 「ミューズ」

マティスが活躍していた時代から100年近くが経過していますが、いまだに彼の展覧会が多くの場所で開催されています。なぜマティスの絵画がこれほどまでに私たちを惹きつけるのでしょうか。もちろん作品から受ける衝撃や感動が大きいことがその理由ですが、それだけではありません。

マティスの描いた「大きな赤い室内」の鮮やかな色彩に魅了され、部屋に飾る用のポスターを購入するほどファンになってしまった筆者が、様々な文献を読み漁った結果得た知識をもとに、アンリマティスの生涯、作品、エピソードについてご紹介していきます。

アンリマティスとはどんな人物か

アンリマティス
名前アンリ・エミール・ブノワ・マティス
誕生日1869年12月31日
没日1954年11月3日
生地フランス
ノール県ル・カトー=カンプレシ
没地フランス
アルプ=マリティーム県=ニース
配偶者アメリー・パレイル(1898-1939)
埋葬場所フランス・ニース
ノートルダム・ド・シミエ修道院

アンリマティスの生涯をハイライト

アンリマティス「帽子の女性」

アンリマティスの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • フランス北部のノール県ル・カトー=カンプレシにてアンリマティス誕生。
  • 父親の要望により、弁護士を目指す。法律を学びにパリへ。
  • 虫垂炎を患い、入院。その療養中に母親に絵画を勧められ、のめり込むようになる。
  • 芸術の道へ進むことを決心し、美術学校へ進学。
  • アメリー・パレイルとの結婚。2人の男の子をもうける。
  • 「帽子の女性」と「開いた窓」をサロンに出品し、批評家から「フォーヴ(野獣)だ!」と酷評される。これをきっかけに「フォーヴィズム」が広がっていく。
  • パブロ・ピカソと出会う。生涯を通じて切磋琢磨し、20世紀の芸術を牽引していく。
  • 晩年にはドミニコ会修道院のデザインを手がける。
  • フランスのニース滞在中、心臓発作で帰らぬ人となる。享年84歳。

アンリマティスの性格は?

ジョルジュ・ルオー「秋の夜景」

マティスの性格は、ジョルジュ・ルオーに宛てた手紙の中から考察できます。手紙の中には、ナチス迫害下で物資の不足に苦しむルオーに対して、油を送ったり、状況を気遣ったりする文面が見受けられました。マティスは他人を思いやることのできる、心の広い人物だったようです。

マティスは絵画を描く上で目指していたのは「不安や気がかりのの無い、均衡と純粋さと静穏の芸術」でした。これはマティスの育ったフランスの「良識と中庸」という文化に起因していると思われます。そのような環境下で生活していたマティスは周囲からも、非常におおらかな性格だったと言われていました。

アンリマティスの有名な作品は?

アンリマティス「開いた窓」

マティスの有名な作品は数多くありますが、やはり「フォーヴィズム」の由来となった「帽子の女性」、「開いた窓」はマティスの代表作と言えるでしょう。今までに前例がないような色使い(人間の肌に緑色を使う、景色に赤を多用する)で表現し、当時は大いに批判されました。

しかし、20世紀の絵画の革新はこのマティスの絵から始まったのです。のちのピカソの「キュビズム」やジャクソン・ポロックの「抽象表現主義」などもマティスの活動がなければ、それまでの概念を破壊して新しい芸術を生み出すという風潮は起こらなかったかもしれません。

アンリマティス 「大きな赤い室内」 一部分

マティスの作品では他にも「大きな赤い室内」、「ダンス」、「ブルーヌード」などが特に有名な作品となっています。

アンリマティスが影響を受けた人物、与えた人物は?

ゴッホ「自画像」

マティスは色々な人から影響され、影響を与えました。その中でも特にマティスの人生を左右させた人物はゴッホとピカソです。

1906年にゴッホの絵画に偶然出会った時にその色彩に衝撃を受けるのです。当時のゴッホは全くの無名で絵画も世間には知られていませんでしたが、マティスはその迫力に圧倒され、その後の自身の絵画では鮮やかな色使いをするようになったのです。

パブロ・ピカソ キュビズム「アヴィニョンの娘たち」

また、ピカソとはお互いに影響され、影響を与えた一人です。性格や趣向の違う二人は進む道こそ異なりましたが、20世紀の芸術の世界へ与えた影響は計り知れません。マティスが「フォーヴィズム」を確立すれば、ピカソが「キュビズム」を発表し、一方が古典回帰をすれば、もう一方が違う形での古典芸術の表現を編み出すなど、生涯を通じて切磋琢磨したのでした。

アンリマティスの功績

功績1「フォーヴィズムの提唱者」

アンリマティス フォーヴィズム「ダンス」

マティス以前の画家はモチーフをいかに本物らしく描き上げるかが画家としての力の証明にもなっていました。しかし、写真の技術が向上すると、対象物をリアルに描く必要が次第になくなっていきます。そこで、絵画の時代はもう終わりなのではないかという風潮が出始めていた時にマティスの「フォーヴィズム」が台頭するのです。

「見た通りに描かなくても芸術と呼べるのではないか」「自分の感じたことをそのままキャンバスに描くことが芸術なのではないか」という考えのもと、普通では考えられないような色彩を駆使して絵を描いていくのです。そうして出来上がったのが「帽子の女性」と「開かれた窓」です。

批評家には「フォーヴ(獣)に囲まれているような絵だ!」と揶揄されますが、これが「フォーヴィズム」の語源となり、のちの芸術家たちに多大な影響を与えることになるのでした。

功績2「色彩の魔術師の異名を持つ」

アンリマティス「ラ・フランス」

マティスの絵は赤、緑、青など原色に近い色を多用して描かれている印象があると思います。特にフォーヴィズムの初期の頃は非常に鮮やかな色をキャンバスの上に並べており、「色彩の魔術師」の異名も持ち合わせていました。

ピカソとマティスはお互いに影響され合っていたと言うことは先ほども述べましたが、ピカソが形の概念を壊すことを目指していたのに対し、マティスは色彩の常識を覆すことを念頭に置いて絵画に取り組んでいました。

そのため、マティスの描いた絵は平面的で、奇抜な色に富んだ作品が多くなっているのです。当時の芸術の傾向からすると考えられないような作風であり、非常に革新的な考え方だったのです。

功績3「20世紀の3大アーティストの一人」

マルセル・デュシャン「泉」

マティスはパブロ・ピカソ、マルセル・デュシャンと並んで、「20世紀3大アーティストの一人」としてその名を美術史に刻んでいます。20世紀は「写真には表せないようなアートを模索する」時代でした。そのような流れを大きく前進させたのがこの3人なのです。

ピカソは「キュビズム」によって一つの画面に多方向からの視点を取り入れたことで美術界に革命を与えました。デュシャンは「およそ美からはかけ離れている対象も芸術として成立するのではないか」という考えを示し、「便器」をアートとして展示したことで有名です。

そして、マティスは20世紀にアートの先駆けとなる「フォーヴィズム」を提唱し、今までの絵画の概念を破壊することに成功したのです。この3人なくして、この時代の多種多様な芸術は生まれてこなかったのではないかと言われています。

アンリマティスの名言

「真に独創的な画家にとって、バラを描くことより難しいことはないものだ。なぜならそのためには、まずこれまでに描かれた全てのバラを忘れる必要があるからだ。」

写真の技術が向上して以降の絵画に影響を与えたマティスらしい名言です。これまでの「見た目に忠実に」という画風から「自分の感じたままに独創的に」という流れを作ったのがマティスであり、それを全ての画家に対して提唱しているのです。

「私は、ただ感覚を表現するような色を置くようにしている。」

「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスは常識にとらわれずに、自分が感じた色をそのままキャンバスに落とし込みました。肌の色が緑であれ、景色が赤色であれ、自らがそう感じたのであれば、それが絵画の真理であると考えたマティスの信念を表した言葉です。

「私はものを描かない。私はものとものの違いを描いているだけだ。」

マティスの絵は一つ一つのモチーフに焦点を当てると、何を描いているのか理解するのに時間がかかるかもしれません。しかし、他のものと比べることでそれが「花だ」、「壁だ」、「椅子だ」と気づくことが出来るのです。

アンリマティスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「暇つぶしで絵画を始めた」

絵を描く イメージ

マティスは天才画家と称されていますが、実は絵画を始めたきっかけは「暇つぶし」だったのです。20歳前後の時に急性虫垂炎で入院を余儀なくされましたが、その療養中は非常に時間を持て余してしまいました。その時に見舞いに来た母親(アマチュア画家)の勧めにより、絵を描くことで暇を潰すことにしたのです。

もともとは弁護士を目指して法律の勉強をしていましたが、この入院をきっかけに画家を目指すことになりました。そして、最終的には20世紀を代表する芸術家に成り上がったのです。

都市伝説・武勇伝2「様々な画風の作品が残されている」

マティスの初期作品

マティスは画家になりたての頃は古典絵画に興味を持っており、画風もそれに近いものとなっていました。そこから美術について勉強していくに連れ、印象派などの近代美術から日本画にまで興味を示すようになり、様々な種類の作品を残すことになったのです。

その後、印象派画家のもとで経験を積むようになった折に、ゴッホの絵と出会うことになります。これ以後はゴッホやゴーギャンの影響を受けて、色鮮やかな絵を描くようになり、のちの「フォーヴィズム」へと繋がっていきました。

アンリマティス 「金魚」

1920年代にはイスラム美術やプリミティビスムなどにも影響を受けており、わざわざスペインやモロッコに滞在して勉強するほどの熱中ぶりでした。その作風は「金魚」の中に現れており、これはモロッコの人々の生活をイメージして描かれたそうです。

都市伝説・武勇伝3「建築や彫刻作品も残している」

マティス美術館に展示してある彫刻作品

マティスは絵画が非常に有名ですが、実は彫刻作品や建築物の内装なども手がけているのです。マティスの彫刻作品は、ちょうどアフリカ美術やプリミティビスムに感化されている時期であったので、プリミティヴ(原始的)な印象を受けるものが多くなっています。

また、建築作品ではロザリオ礼拝堂のステンドグラスや壁の装飾を手がけたことが有名ですが、晩年、シャガールとともに共同制作に取り組んだ、ニューヨークのユニオン教会のステンドグラスもマティスの建築代表作として知られています。

アンリマティスの簡単年表

1869年 - 0歳
アンリマティスの誕生

アンリマティスはフランスのノール県ル・カトー=カンプレシにて誕生します。実家は農産物を売る商人の家で、平均よりは裕福な暮らしをしていました。

1870年 - 1歳
普仏戦争開戦のため、フランス北部のピカルディへ

1870年に開戦した普仏戦争の影響を逃れるためにフランス北部のピカルディにあるボアン=ヴェルマンドワに引越しをします。

1887年 - 18歳
弁護士になるために法律を学ぶ

マティスは両親に勧められ、弁護士になることを目指すようになります。そのため、1人フランス・パリへ出て法律を学ぶようになりました。

1889年 - 20歳
芸術家をこころざすようになる

20歳の時に虫垂炎を患い、入院することになります。病床に伏している時間が退屈であったため、母から勧められた絵画を始めることになりました。マティスはこれにのめり込むようになり、芸術家になることを決めたのです。

1891年 - 22歳
美術学校へ入学

フランス・パリにある美術学校、ジュリアン・アカデミーに入学し、絵の描き方を学びます。ここにはギュスターヴ・モローなどの売れている画家が講師として勤めていました。

1896年 - 27歳
ゴッホの絵に影響を受ける

美術学校を卒業すると、オーストリアの印象派の画家のもとで画家としての活動を始めます。そこで紹介されたゴッホの絵に影響を受け、これ以降、色彩豊かな絵を書いていくようになります。ちなみにゴッホは当時全くの無名だったそうです。

1898年 - 29歳
アメリー・パレイルとの結婚

マティスは29歳の時に、帽子デザイナーで婦人用品店を経営していたアメリーパレイルと結婚することになります。アメリーパレイルはマティスの代表作「緑のすじのあるマティス婦人」のモデルとなった人物です。

1900年 - 31歳
フォーヴィズムの誕生

マティスは1900年頃から、のちに「フォーヴィズム」と呼ばれるアートのスタイルを開発します。世間に認知されるのはそれから5年後のことですが、この頃から段階的に「フォーヴィズム」に着手していきます。

1904年 - 35歳
初の個展を開く

フランスのアンブロワーズ・ヴォラールでマティス自身初の個展を開催します。しかし、あまり受け入れられず、手応えはつかめませんでした。

1905年 - 36歳
フォーヴィズムの広がり

マティスと親交の深かった画家仲間を集めて、パリのサロンに作品を出品します。この時にマティスが出した作品が「帽子の女性」と「開いた窓」でした。この色彩に驚いた批評家が「野獣(フォーヴ)に囲まれているようだ!」と言い、批評文に表したことから「フォーヴィズム」という言葉が広まっていきました。

1906年 - 37歳
パブロ・ピカソとの出会い

マティスが37歳の時に、当時26歳であったパブロ・ピカソと出会います。彼らは生涯を通じて、お互いに刺激し合うようになります。思想は2人とも違えど、女性をモチーフにすることが多いということが共通点となりました。

1910年 - 41歳
イスラム美術に魅かれる

マティスのフォーヴィズムは徐々に薄れていき、アフリカのアートやプリミティビスムに影響されるようになります。1910年にミュンヘンで開催されたイスラム美術に魅了されて、この芸術を学ぶために、スペインやモロッコに滞在するようになりました。

1917年 - 48歳
古典回帰

この頃になると19世紀までの芸術を踏襲するような作風に戻るようになりました。この古典回帰の風潮は多くのアーティストに広がっていきます。

1930年 - 61歳
ふたたび簡素化の芸術へ

古典回帰の約10年後にはふたたび簡素化や抽象化された絵画を描くようになります。一方でフォーヴィズム時代のような鮮やかな色彩ではなく、どちらかというと地味な色合いの絵を製作しました。

1939年 - 70歳
アメリー・パレイルとの離婚

マティスはロシア人のある若い女性に恋心を抱くようになります。それに気づいたアメリー・パレイルとの関係が非常に険悪になり、最終的には離婚にまで発展してしまったのです。

1941年 - 72歳
十二指腸癌の手術

マティスは72歳で十二指腸癌に侵されます。手術自体は成功しましたが、高齢という事もあり、手術の反動から、長い間寝たきり状態となってしまいます。3ヶ月以上の療養の甲斐もあって、無事に回復し、その後は切り絵の作品を多く製作するようになったのでした。

1946年 - 77歳
ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂のデザインを行う

マティスは入院している際に看護を担当していた女性と親密な関係になります。その女性がドミニコ修道女となったことをきっかけに、ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインと修道服のデザインをマティスが引き受けることになりました。

1952年 - 83歳
マティス美術館を設立

マティスは今までの作品を収蔵する「マティス美術館」を故郷のノール県ル・カトーに設立します。

1954年 - 84歳
アンリマティスの死去・死因は心臓発作

1954年11月3日、アンリマティスは心臓発作にてあえなく逝ってしまうのでした。享年84歳でした。墓はフランス・ニースのノートルダム・ド・シミエ修道院に設けられています。

アンリマティスの年表

1869年 – 0歳「フランスにてアンリマティスの誕生」

フランス ノール県

フランス北部のノール県にてアンリマティス誕生

アンリマティスは1869年12月31日にフランス北部のノール県、ル・カトー=カンプレシにて誕生します。両親は農産物を売る商人として働いていました。一般的な家庭よりは裕福な家だったので、幼少期は特に不自由なく育っていきます。

1870年には普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)が起こったため、避難するためにフランスのピカルディ地域へと引っ越しをしました。

1887年 – 18歳「弁護士になるべく、法律を学ぶ」

弁護士 法律 イメージ

父親の希望に応えるために弁護士を目指す

マティスは18歳になると今後の進路をどうしていくのかに悩みました。そこで、父親が弁護士になることを勧めたため、法律を学ぶべく、パリへと出ることになります。ゆくゆくは故郷の弁護士事務所に勤めることを目指して勉強に励みました。

虫垂炎で病床に伏しているときに絵画と出会う

マティスは20歳の時に虫垂炎を発症します。治療自体は上手くいきましたが、療養のために病床にいなくてはならない時間が退屈だったため、母親から勧められた絵画を始めることにしました。そして、徐々に絵を描くことの魅力に引き込まれていき、芸術家になることをこころざすようになったのです。

マティスが弁護士になることを望んでいた父は、画家になるという目標が新たに出来たことを知ると、大いに失望したそうです。

1891年 – 22歳「美術学校ジュリアン・アカデミーに入学」

ジュリアンアカデミー

パリのジュリアンアカデミーに入学

絵画を本格的に勉強することを決心したマティスは1891年に美術学校ジュリアンアカデミーに入学します。そこにはギュスターヴ・モローやウィリアム・ブグローなどの有名な画家が講師として教鞭を執っていました。

ギュスターヴ・モローの作品広告

もともと古典絵画に興味のあったマティスは、古典美術について積極的に学んでいきます。この頃は人物画ではなく、静物画や風景画をメインで描いていました。マティスは生涯に多くの様式の絵画を残しており、印象派や日本画に影響を受けた時期もあったのです。

ゴッホの絵に影響を受ける

ゴッホ「ひまわり」

ジュリアンアカデミーを卒業後はオーストリアの印象派画家のもとで活動を開始します。そこで紹介されたのがゴッホの「ひまわり」です。マティスはこの絵画に衝撃を受け、その後の製作に大いに影響を受けることになりました。

ゴッホは当時、売れない画家であったために名前は知られていませんでしたが、マティスはその絵画の魅力に気づいていたのです。

1898年 – 29歳「アメリーパレイルとの結婚」

アンリマティスとアメリーパレイル

婦人洋品店を営んでいたアメリーパレイルと結婚

マティスは29歳の時に、帽子デザイナーで婦人洋品店を経営していたアメリーパレイルと結婚します。2人はジャンとピエールという男兄弟をもうけており、さらに、マティスの婚外子マルグリットも合わせて3人の子供と生活していました。

アメリーパレイルは、マティスの代表作である「緑のすじのあるマティス婦人」のモデルとなっています。

「緑のすじのあるマティス婦人」

1905年 – 36歳「フォーヴィズムの台頭」

フォーヴィズムの代表作「ダンス」

フォーヴィズムの確立

マティスは1900年頃からフォーヴィズムというスタイルに着手していましたが、実際に世の中に広まったのはその5年後の1905年からでした。1905年にパリで開催されたサロン・ドートンヌ展に「帽子の女性」と「開いた窓」を出品します。

アンリマティス「開いた窓」

これが批評家のルイ・ヴォークセルという人物に「野獣(フォーヴ)に囲まれているようだ!」と評され、そのまま新聞にも掲載されたことから「フォーヴィズム」という概念が世間に広まるようになったのでした。

1906年 – 37歳「パブロ・ピカソとの出会い」

パブロ・ピカソ「泣く女」

パリのサロンにてピカソと出会う

37歳のマティスはパリで開かれるコレクター主催のサロンを訪れます。その際に当時26歳だったパブロ・ピカソと出会いました。これ以後、2人はお互いに刺激し合いながら、生涯に渡り関係を持ち続けるのでした。

アンリマティス 「赤い部屋」

マティスは自然な風景や人物を描くのが主だったのに対し、ピカソは想像上のイメージをキャンバスに表すことを主としていました。2人の思想は全く違いましたが、生涯を通じて女性をモチーフにした作品を多く残したことは共通しています。

フォーヴィズムの衰退

ジョルジュ・ブラック「港(Le Port)」

フォーヴィズムは全盛期にはアンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、ラウル・デュフィなどが活動していましたが、徐々に勢いを失っていきます。マティス自身はアフリカへ旅行した際に、アフリカの芸術やプリミティビスムに影響を受け、そちらの方に興味が注がれていきます。

ラウル・デュフィ「ニースの窓辺」

1910年にはミュンヘンで開催されたイスラム美術の展覧会に感激し、その手法を学ぶためにスペインやモロッコに滞在して自分の作風の中に取り入れるという活動をしていました。こうしてフォーヴィズムは影を潜めていくのです。

1917年 – 48歳「古典美術を再び啓蒙するように」

アンリマティス 「自画像」

フォーヴィズムから原点回帰へ

フォーヴィズムの活動が衰退すると、マティスは再び古典絵画に影響されるようになります。見たままの風景や人物をできる限りその状態でキャンバスに落とし込むようになるのです。この傾向は他の画家も例外ではなく、古典美術が再び脚光を浴びるのでした。

パブロ・ピカソ「浜辺を走る二人の女性」

例えば、ピカソやストラヴィンスキーなどは「新古典主義」と呼ばれる新たなスタイルを確立していきました。

1930年以降は古典とフォーヴィズムの融合のような作風に

アンリマティス 「バラ色の娼婦」

1930年以降のマティスの作品は形に関してはフォーヴィズムの要素が入りつつ、色彩に関しては古典主義のような地味な色合いの絵画が増えていきました。

パブロ・ピカソ 「ゲルニカ」

ピカソもそれに対抗して形を崩す画風へと変化していき、「キュビズム」を確立していくのでした。1937年には有名な絵画「ゲルニカ」が完成しています。

1939年 – 70歳「アメリーパレイルとの離婚、十二指腸癌発症」

40年以上連れ添ったアメリーとの離婚

アンリマティス「リディア・デレクターズカヤ」

マティスはロシアの移民女性リディア・デレクターズカヤと親密になります。その関係性に気が付いたアメリー・パレイルとの間には亀裂が入り、最終的には離婚にまで発展するのでした。

その後、デレクターズカヤはマティスの秘書のような立ち位置で生活の中に溶け込んでいくのでした。

十二指腸癌発症

アンリマティスの切り絵

1941年、マティスが72歳の時に十二指腸癌を発症します。手術自体は無事に成功しますが、マティスが高齢であったこともあり、療養期間に長期臥床を余儀なくされます。その時に絵を描く代わりに切り絵を手がけるようになったのでした。切り絵の作品は現在も数多く残されています。

この入院の時に看護学生のモニーク・ブルジョアという女性と仲が良くなりました。のちに礼拝堂の内装を手がけるきっかけとなります。

1946年 – 77歳「ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインを手がける」

ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂 内部

礼拝堂の内装と修道服のデザインを担当する

入院時に世話になり、親交を深めた看護学生のモニークが修道女になることをきっかけに、ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインをマティスが手がけることになりました。病床に伏している際に取り組んだ切り絵のデザインをもとにステンドグラスを仕上げます。

礼拝堂のステンドグラス

この礼拝堂はマティスの晩年の秀作として、「20世紀キリスト教美術の傑作」とも称されています。礼拝堂の内装だけでなく、修道服も合わせてデザインしたのでした。

マティス美術館の設立

マティス美術館

1952年、今までの作品を収蔵するための「マティス美術館」を設立します。マティスの故郷であるフランス北部ノール県ル・カトーに建設され、現在でも多くのマティス作品が収容されています。

アンリマティス 晩年の切り絵

晩年のマティスは体力の衰えとともに切り絵を多く製作するようになります。自分が感じることを切り絵によって表現することを念頭に置き、助手のサポートを受けながら作品を作り上げていくのでした。

1954年 – 84歳「アンリマティスの死去・死因は心臓発作」

アンリマティスの死没地 フランス・ニース

84歳で帰らぬ人に・死因は心臓発作

晩年も精力的に製作活動を続けていましたが、高齢とともに、思うように体が動かないことが多くなります。そして、フランスのニースで作品制作をしている最中、心臓発作を引き起こし、そのまま帰らぬ人となってしまうのでした。

マティスとシャガール合作のステンドグラス

墓地はニースにあるノートルダム・ド・シミエ修道院に設けられています。また、マティス最後の作品と言われているニューヨークのユニオン教会のステンドグラスはマティスが亡くなってから2年後の1956年に完成しました。

南フランス・ニース ノートルダム・ド・シミエ修道院

アンリマティスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

マティス 画家のノート【新装版】

ゴッホ、ミレー、セザンヌなど芸術家について研究し、書籍を多数出版してきた著者がマティスについて広い観点から解説しています。作品の制作過程から家族について、闘病の記録などマティスの生涯を詳しく記しています。

マティスを追いかけて

アメリカ人の夫婦が1年間をかけてマティスの生涯をたどった回想録となっています。マティスの人生について詳細に描かれているので伝記ともとらえられる一冊です。マティスが実際に住んでいた家やアトリエなども訪れ、どのような環境で絵を書いていたのかを知ることができる本となっています。

おすすめの作品集

マティスの切り絵と挿絵の世界

絵画に目覚めてから油絵をメインで活動してきたマティスが、晩年、病床に伏したことをきっかけに制作に乗り出した切り絵や挿絵の作品を主に扱っています。作品の写真とともにわかりやすい解説も載せられているので、制作背景などを知りながら鑑賞することができます。

もっと知りたいマティス 生涯と作品

色々な芸術家の作品を扱っている「もっと知りたい」シリーズのマティス版です。マティスの代表作を中心に選んでいる反面、マニアでないと知らないような作品まで収められているので、マティスの絵画に興味のある方にはおすすめの一冊となっています。

マティス画集

フォーヴィズムという概念を作り出した20世紀絵画の巨匠アンリマティスの作品をメインに、フォーヴィズムに影響された画家の作品を170点収録しています。そのうちの代表作50点にはわかりやすい解説も施されています。写真が鮮やかなので、実物でなくても十分に楽しめる一冊です。

おすすめの作品

アンリ・マティス Henri Matisse 「赤い部屋(赤のハーモニー)」 額装アート作品

アンリマティスの代表作である「赤い部屋」のレプリカです。ファインアート紙を使用し、ジクレープリントで仕上げています。サイズも4種類そろえているので、好みに合わせて大きさを選ぶことができます。インテリアとして壁に飾ると非常に映えます。

ポスター アンリ マティス カタツムリ 1953

マティスが晩年に取り組んでいた切り絵の作品の一つです。シルクスクリーンによってプリントされており、サイズも70cm×65cmとコンパクトな作りになっているので、部屋に飾るのにちょうど良い大きさとなっています。

アンリ・マティス Henri Matisse 「La Fenetre ouverte」 額装アート作品

アンリマティスが最初にフォーヴィズムの揶揄をされた時に出品した作品です。この「開いた窓」と「帽子の女性」を出した展覧会で批評家から辛口なコメントを受けるのでした。レプリカ作品のため、サイズは4種類から選ぶことができます。

おすすめDVD

マティスとピカソ 二人の芸術家の対話

20世紀のはじめにサロンで出会ってから生涯を通じてお互いに影響し合ったマティスとピカソ。その二人の友情と人生をたどるドキュメンタリー映像となっています。解説をするのはピカソの愛人として知られるフランソワーズ・ジローです。

おすすめ動画

マティスとピカソ 二人の芸術家の対話

上で紹介したDVDの予告動画となっています。実際にどのような形で映像が取られたのかがわかるので、DVDを鑑賞しようと考えている方は一度この動画を見ていただけるといいかもしれません。映像は古いですが、貴重な絵面を見ることができます。

【アートの見方①】アートの固定観念を壊した6人の芸術家

人気のYoutubeチャンネル、中田敦彦のYouTube大学のアートに関する授業です。20世紀に芸術の概念を革新した6人の芸術家について解説しています。マティスは一番最初に取り上げられており、それまでの絵画の思想からは考えつかないような手法で絵を描いたことが盛り込まれています。

アンリマティスについてのまとめ

アンリマティスはフランスに生まれ、最初は親の意向もあって弁護士を目指すことになりますが、病気の療養中に偶然出会った絵画の世界に魅了されます。芸術の道へと進んでからは「フォーヴィズム」という当時の革新的な概念を生み出していくのです。芸術の天才と目されるパブロ・ピカソとも切磋琢磨し、20世紀の美術の世界を牽引していったのでした。

晩年は体力の衰えから、油絵ではなく、切り絵作品を多く残していきますが、南フランスのニースに滞在している際に心臓発作で帰らぬ人となってしまいます。84年という生涯を芸術に捧げた彼の業績は現在でも語り継がれているのです。

今回はアンリマティスについてご紹介しました。この記事でさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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