アンリマティスにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「暇つぶしで絵画を始めた」
マティスは天才画家と称されていますが、実は絵画を始めたきっかけは「暇つぶし」だったのです。20歳前後の時に急性虫垂炎で入院を余儀なくされましたが、その療養中は非常に時間を持て余してしまいました。そのときに見舞いに来た母親(アマチュア画家)の勧めにより、絵を描くことで暇を潰すことにしたのです。
もともとは弁護士を目指して法律の勉強をしていましたが、この入院をきっかけに画家を目指すことになりました。そして、最終的には20世紀を代表する芸術家に成り上がったのです。
都市伝説・武勇伝2「近代美術から日本画まで幅広い画風を取り入れた」
マティスは画家になりたての頃は古典絵画に興味を持っており、画風もそれに近いものとなっていました。そこから美術について勉強していくにつれ、印象派などの近代美術から日本画にまで興味を示すようになり、さまざまな種類の作品を残すことになったのです。
その後、印象派の画家のもとで経験を積むようになったときに、ゴッホの絵と出会うことになります。これ以後はゴッホやゴーギャンの影響を受けて、色鮮やかな絵を描くようになり、のちの「フォーヴィズム」へと繋がっていきました。
1920年代にはイスラム美術やプリミティビスムなどにも影響を受けており、わざわざスペインやモロッコに滞在して勉強するほどの熱中ぶりでした。その作風は「金魚」の中に現れており、これはモロッコの人々の生活をイメージして描かれたそうです。
都市伝説・武勇伝3「建築や彫刻作品も残した多彩な人物」
マティスは絵画が非常に有名ですが、実は彫刻作品や建築物の内装なども手がけているのです。マティスの彫刻作品は、ちょうどアフリカ美術やプリミティビスムに感化されている時期であったので、プリミティヴ(原始的)な印象を受けるものが多くなっています。
また、建築作品ではロザリオ礼拝堂のステンドグラスや壁の装飾を手がけたことが有名です。晩年にシャガールとともに共同制作に取り組んだ、ニューヨークのユニオン教会のステンドグラスもマティスの建築代表作として知られています。
アンリマティスの簡単年表
アンリマティスはフランスのノール県ル・カトー=カンプレシにて誕生します。実家は農産物を売る商人の家で、平均よりは裕福な暮らしをしていました。
1870年に開戦した普仏戦争の影響を逃れるためにフランス北部のピカルディにあるボアン=ヴェルマンドワに引越しをします。
マティスは両親に勧められ、弁護士になることを目指すようになります。そのため、1人フランス・パリへ出て法律を学ぶようになりました。
20歳の時に虫垂炎を患い、入院することになります。病床に伏している時間が退屈であったため、母から勧められた絵画を始めることになりました。マティスはこれにのめり込むようになり、芸術家になることを決めたのです。
フランス・パリにある美術学校、ジュリアン・アカデミーに入学し、絵の描き方を学びます。ここにはギュスターヴ・モローなどの売れている画家が講師として勤めていました。
美術学校を卒業すると、オーストリアの印象派の画家のもとで画家としての活動を始めます。そこで紹介されたゴッホの絵に影響を受け、これ以降、色彩豊かな絵を書いていくようになります。ちなみにゴッホは当時全くの無名だったそうです。
マティスは29歳の時に、帽子デザイナーで婦人用品店を経営していたアメリーパレイルと結婚することになります。アメリーパレイルはマティスの代表作「緑のすじのあるマティス婦人」のモデルとなった人物です。
マティスは1900年頃から、のちに「フォーヴィズム」と呼ばれるアートのスタイルを開発します。世間に認知されるのはそれから5年後のことですが、この頃から段階的に「フォーヴィズム」に着手していきます。
フランスのアンブロワーズ・ヴォラールでマティス自身初の個展を開催します。しかし、あまり受け入れられず、手応えはつかめませんでした。
マティスと親交の深かった画家仲間を集めて、パリのサロンに作品を出品します。この時にマティスが出した作品が「帽子の女性」と「開いた窓」でした。この色彩に驚いた批評家が「野獣(フォーヴ)に囲まれているようだ!」と言い、批評文に表したことから「フォーヴィズム」という言葉が広まっていきました。
マティスが37歳の時に、当時26歳であったパブロ・ピカソと出会います。彼らは生涯を通じて、お互いに刺激し合うようになります。思想は2人とも違えど、女性をモチーフにすることが多いということが共通点となりました。
マティスのフォーヴィズムは徐々に薄れていき、アフリカのアートやプリミティビスムに影響されるようになります。1910年にミュンヘンで開催されたイスラム美術に魅了されて、この芸術を学ぶために、スペインやモロッコに滞在するようになりました。
この頃になると19世紀までの芸術を踏襲するような作風に戻るようになりました。この古典回帰の風潮は多くのアーティストに広がっていきます。
古典回帰の約10年後にはふたたび簡素化や抽象化された絵画を描くようになります。一方でフォーヴィズム時代のような鮮やかな色彩ではなく、どちらかというと地味な色合いの絵を製作しました。
マティスはロシア人のある若い女性に恋心を抱くようになります。それに気づいたアメリー・パレイルとの関係が非常に険悪になり、最終的には離婚にまで発展してしまったのです。
マティスは72歳で十二指腸癌に侵されます。手術自体は成功しましたが、高齢という事もあり、手術の反動から、長い間寝たきり状態となってしまいます。3ヶ月以上の療養の甲斐もあって、無事に回復し、その後は切り絵の作品を多く製作するようになったのでした。
マティスは入院している際に看護を担当していた女性と親密な関係になります。その女性がドミニコ修道女となったことをきっかけに、ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインと修道服のデザインをマティスが引き受けることになりました。
マティスは今までの作品を収蔵する「マティス美術館」を故郷のノール県ル・カトーに設立します。
1954年11月3日、アンリマティスは心臓発作にてあえなく逝ってしまうのでした。享年84歳でした。墓はフランス・ニースのノートルダム・ド・シミエ修道院に設けられています。