アンリマティスとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作品、名言から死因についても紹介】

アンリマティスの年表

1869年 – 0歳「フランスにて誕生」

マティスの生まれたフランス・ノール県

フランス北部のノール県に生まれる

アンリマティスは1869年12月31日にフランス北部のノール県、ル・カトー=カンプレシにて誕生します。両親は農産物を売る商人として働いていました。一般的な家庭よりは裕福な家だったので、幼少期は特に不自由なく育っていきます。

1870年には普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)が起こったため、避難するためにフランスのピカルディ地域へと引っ越しをしました。

1887年 – 18歳「弁護士になるべく法律を学ぶ」

パリで法律を学ぶ

父親の希望に応えるために弁護士を目指す

マティスは18歳になると今後の進路をどうしていくのかに悩みました。そこで、父親が弁護士になることを勧めたため、法律を学ぶべく、パリへと出ることになります。ゆくゆくは故郷の弁護士事務所に勤めることを目指して勉強に励みました。

虫垂炎で病床に伏しているときに絵画と出会う

マティスは20歳のときに虫垂炎を発症します。治療自体は上手くいきましたが、療養のために病床にいなくてはならない時間が退屈だったため、母親から勧められた絵画を始めることにしました。そして、徐々に絵を描くことの魅力に引き込まれていき、芸術家になることを志すようになったのです。

マティスが弁護士になることを望んでいた父は、画家になるという目標が新たに出来たことを知ると、大いに失望したそうです。

1891年 – 22歳「美術学校ジュリアン・アカデミーに入学」

有名画家が講師を務めていたジュリアンアカデミー

パリのジュリアンアカデミーに入学

絵画を本格的に勉強することを決心したマティスは、1891年に美術学校ジュリアンアカデミーに入学します。そこにはギュスターヴ・モローやウィリアム・ブグローなどの有名な画家が講師として教鞭を執っていました。

ギュスターヴ・モローの作品広告

もともと古典絵画に興味のあったマティスは、古典美術について積極的に学んでいきます。この頃は人物画ではなく、静物画や風景画をメインで描いていました。マティスは生涯に多くの様式の絵画を残しており、印象派や日本画に影響を受けた時期もあったのです。

ゴッホの絵に影響を受ける

ゴッホ「ひまわり」

ジュリアンアカデミーを卒業後、オーストリアの印象派画家のもとで活動を開始しました。そこで紹介されたのがゴッホの「ひまわり」です。マティスはこの絵画に衝撃を受け、その後の制作に大いに影響を受けることになりました。

ゴッホは当時、売れない画家であったために名前は知られていませんでしたが、マティスはその絵画の魅力に気づいていたのです。

1898年 – 29歳「アメリーパレイルとの結婚」

アメリ―と結婚

婦人洋品店を営んでいたアメリーパレイルと結婚

マティスは29歳のときに、帽子デザイナーで婦人洋品店を経営していたアメリーパレイルと結婚します。2人はジャンとピエールという男兄弟をもうけており、さらに、マティスの婚外子マルグリットも合わせて3人の子供と生活していました。

アメリーパレイルは、マティスの代表作である「緑のすじのあるマティス夫人」のモデルとなっています。

「緑のすじのあるマティス夫人」

1905年 – 36歳「フォーヴィズムの台頭」

フォーヴィズムの代表作「ダンス」

フォーヴィズムの確立

マティスは1900年頃からフォーヴィズムというスタイルに着手していましたが、実際に世の中に広まったのはその5年後の1905年からでした。1905年にパリで開催されたサロン・ドートンヌ展に「帽子の女性」と「開いた窓」を出品します。

アンリマティス「開いた窓」

これが批評家のルイ・ヴォークセルという人物に「野獣(フォーヴ)に囲まれているようだ!」と評され、そのまま新聞にも掲載されたことから「フォーヴィズム」という概念が世間に広まるようになったのでした。

1906年 – 37歳「パブロ・ピカソとの出会い」

パブロ・ピカソ「泣く女」

パリのサロンにてピカソと出会う

37歳のマティスはパリで開かれていたコレクター主催のサロンを訪れます。そのときに当時26歳だったパブロ・ピカソと出会いました。これ以後、2人はお互いに刺激し合いながら、生涯に渡り関係を持ち続けるのでした。

アンリマティス 「赤い部屋」

マティスは自然な風景や人物を描くのが主だったのに対し、ピカソは想像上のイメージをキャンバスに表すことを主としていました。2人の思想は全く違いましたが、生涯を通じて女性をモチーフにした作品を多く残したことは共通しています。

フォーヴィズムの衰退

ジョルジュ・ブラック「港(Le Port)」

フォーヴィズムは全盛期にはアンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、ラウル・デュフィなどが活動していましたが、徐々に勢いを失っていきます。マティス自身はアフリカへ旅行した際に、アフリカの芸術やプリミティビスムに影響を受け、そちらの方に興味が注がれていきます。

ラウル・デュフィ「ニースの窓辺」
出典:カーサ ブルータス Casa BRUTUS

1910年にはミュンヘンで開催されたイスラム美術の展覧会に感激し、その手法を学ぶためにスペインやモロッコに滞在して自分の作風の中に取り入れるという活動をしていました。こうしてフォーヴィズムは影を潜めていくのです。

1917年 – 48歳「古典美術を再び啓蒙するように」

アンリマティス 「自画像」

フォーヴィズムから原点回帰へ

フォーヴィズムの活動が衰退すると、マティスは再び古典絵画に影響されるようになります。見たままの風景や人物をできる限りその状態でキャンバスに落とし込むようになるのです。この傾向は他の画家も例外ではなく、古典美術が再び脚光を浴びるのでした。

パブロ・ピカソ「浜辺を走る二人の女性」

例えば、ピカソやストラヴィンスキーなどは「新古典主義」と呼ばれる新たなスタイルを確立していきました。

1930年以降は古典とフォーヴィズムの融合のような作風に

アンリマティス「バラ色の娼婦」

1930年以降のマティスの作品は形に関してはフォーヴィズムの要素が入りつつ、色彩に関しては古典主義のような地味な色合いの絵画が増えていきました。

ピカソ『ゲルニカ』

ピカソもそれに対抗して形を崩す画風へと変化していき、「キュビズム」を確立していくのでした。1937年には有名な絵画「ゲルニカ」が完成しています。

1939年 – 70歳「アメリーパレイルとの離婚、十二指腸癌発症」

40年以上連れ添ったアメリーとの離婚

アンリマティス「リディア・デレクターズカヤ」

マティスはロシアの移民女性リディア・デレクターズカヤと親密になります。その関係性に気が付いたアメリー・パレイルとの間には亀裂が入り、最終的には離婚にまで発展するのでした。

その後、デレクターズカヤはマティスの秘書のような立ち位置で生活の中に溶け込んでいくのでした。

十二指腸癌発症

マティスの切り絵『かたつむり』

1941年、マティスは72歳のときに十二指腸癌を発症します。手術自体は無事に成功しますが、マティスが高齢であったこともあり、療養期間に長期臥床を余儀なくされます。

その時に絵を描く代わりに切り絵を手がけるようになったのでした。切り絵の作品は現在も数多く残されています。

この入院の時に看護学生のモニーク・ブルジョアという女性と仲が良くなりました。のちに礼拝堂の内装を手がけるきっかけとなります。

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