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鈴木貫太郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【内閣や子孫、死因も紹介】

鈴木貫太郎は太平洋戦争を終戦に導いた首相です。戦争反対と言えば非国民と言われたこの時代、戦争を終わらせることはとても難しい仕事でした。首相就任時はすでに77歳という高齢でしたが、鈴木の海軍軍人としての経歴と昭和天皇の侍従長を務めたキャリアが、大きく影響したと言えます。

内閣総理大臣在任時の貫太郎

徹底抗戦を叫ぶ一部の軍人たちをも戦争終結に導くことができたその手腕は、どのように培われたのでしょうか?また、昭和天皇からの信任はどのように勝ち得たのでしょうか?

この記事では、鈴木貫太郎に注目している筆者が、鈴木の生涯や功績を通じてその理由に迫っていきます。

鈴木貫太郎とはどんな人物か

名前鈴木貫太郎
誕生日1868年1月18日
没地1948年4月17日
生地和泉国大鳥郡久世村伏尾
(現大阪府堺市中区)
没地千葉県東葛飾郡関宿町
(現千葉県野田市)
配偶者鈴木トヨ(先妻)
鈴木たか(後妻)
埋葬場所実相寺(千葉県野田市)

鈴木貫太郎の生涯をダイジェスト

日露戦争の頃の貫太郎

貫太郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 1868年 和泉国久世村にて誕生
  • 1884年 海軍兵学校に入学
  • 1894年 日清戦争に従軍し、威海衛の戦いに参加
  • 1904年 日露戦争で「春日」の副長に任命され、日本海海戦で活躍
  • 1929年 侍従長に就任
  • 1936年 2.26事件で九死に一生を得る
  • 1937年 枢密院顧問官となる
  • 1945年 内閣総理大臣に就任し、ポツダム宣言を受諾
  • 1948年 故郷の関宿町で死去

鈴木貫太郎内閣の発足

鈴木貫太郎内閣

鈴木貫太郎内閣は1945年4月7日に発足します。目的は終戦工作ただ1つです。6月には戦争継続がほとんど不可能との認識がなされ、7月には天皇制を保持する事を目的とした「戦争指導大綱」が決定します。

日本はソ連に和平の仲介を頼みますが、ソ連はアメリカと繋がっていました。7月27日にアメリカからポツダム宣言が発せられ、8月6日には広島に9日には長崎に原爆が投下されます。

会議が紛糾する中、貫太郎は間合いを見て昭和天皇に聖断を仰いだのです。昭和天皇は受諾を決定し、8月15日に玉音放送で国民に降伏を伝えました。鈴木貫太郎内閣は敗戦の責任を取り、同日に総辞職しています。

鈴木貫太郎が参加した戦争は?

威海衛の戦い

貫太郎は日清戦争と日露戦争に参加しています。日清戦争では水雷艇艇長として従軍し、威海衛の戦いでは海軍史上初の夜襲を決行します。極寒の中で行われた為、敵艦を沈める事は出来なかったものの、大きな被害を与えた為、戦局に大きな影響を与えました。

貫太郎は日清戦争の功績から功五級金鵄勲章と勲六等瑞宝章を授与されています。当時の貫太郎はまだまだ下積みの地方官であり、破格の授与でした。

日露戦争では主砲の射程は世界一と言われる「春日」の副長に任命され、黄海海戦に参加します。後に駆逐艦「朝霧」に乗艦し、ロシアの軍艦に魚雷を命中させ、日本海海戦の勝利に大きく貢献しました。

日露戦争の功績では功三級金鵄勲章を授与されます。その功績から貫太郎は水雷艇のエキスパートとして教鞭を取る事となりました。

銃弾を受けるも妻に助けられた二・二六事件

鈴木貫太郎を襲撃しながらもトドメを刺すことを止めた安藤輝三の遺品

鈴木貫太郎は侍従長時代の1936年、二・二六事件で銃撃を受けるも一命を取り留めました。命を繋ぐことができたのは、安藤輝三という陸軍大尉が将兵を止めたことに加え、妻である「たか」のお陰でもありました。

まず、襲撃を受けたと知った鈴木は、日本刀を取りに行きます。しかし、たかが前の晩に片付けてしまっていたため、丸腰で将兵たちの前に出ることになりました。もし鈴木が刀を持って将兵たちに応戦しようとしていたなら、すぐにトドメを刺されていたかもしれません。

鈴木貫太郎と妻のたか

そして数発の銃弾を受け倒れた鈴木を、たかは会得していた「生気自強療法」で介抱し、出血を止めました。この応急措置が功を奏したのです。「生気自強療法」とは石井常造という陸軍少将が行っていたもので、導引術の一種です。残念ながら今は伝承されていません。

また、たかは元々、昭和天皇の養育係でした。たかが事の次第を宮中に電話したことで、昭和天皇は二・二六事件を初めて知ったとも言われています。二・二六事件の裏には、たかという一人の女性の活躍もあったのです。

武士道を重んじる「モーニングを着た西郷隆盛」!?

アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルト

鈴木貫太郎は、武士道を重んじた軍人でした。1945年4月にアメリカのルーズベルト大統領が亡くなると、当時首相であった鈴木は弔意を表します。敵を愛するという日本の精神を大事にしていた鈴木は、太平洋戦争真っ只中でも、敵国の大統領に対しても哀悼の意を示したのです。

鈴木は新聞のインタビューで、降伏した際、武士道は世界的な道義であるから、敵将を信頼するという信念を貫くことにしたと述べています。

吉田茂がマッカーサーに送った手紙には ” Bushido ” に下線が引かれている。

鈴木が学習院時代の師であった吉田は、日頃から鈴木を慕っていましたが、この記事をマッカーサーに送り、鈴木の武士道精神を褒め称えました。日頃返信が遅いマッカーサーも、この時ばかりはすぐに返事をし、謝意を述べています。

鈴木と接したことのある軍人の中には、鈴木のことを西郷隆盛になぞらえる人がいたという資料も残っており、鈴木はさながら「モーニングを着た西郷隆盛」だったのかもしれません。

軍人嫌いな志賀直哉も認めた鈴木貫太郎

志賀直哉は明治〜昭和時代を生きた小説家で「白樺派」を代表する一人。

「小説の神様」と呼ばれる志賀直哉が、鈴木について述べた随筆があります。鈴木が戦争を終わらせるため、組閣時にわざと軍部の主張を受け入れるなど、和平を望む自分の意思をひた隠しにし、軍部の反動を最小限に抑えられるよう振る舞っていたというのです。

これを読んだ鈴木は、会ったことも話したこともないのに自分の気持ちがわかるなんて、小説家はすごいものだと述べたそうです。軍人嫌いで有名な志賀直哉が鈴木のことを慮り、記しているというのは、鈴木の軍人という職業を超えた人間性に魅力があったということかもしれません。

鈴木貫太郎の家族構成や子孫は?

貫太郎の弟の孝雄

貫太郎の弟である孝雄は陸軍大将となり、後に靖国神社の4代目宮司となりました。次弟の三郎は久邇宮御用掛を務めた他、末弟の永田茂は陸軍中佐となりました。

1888年に貫太郎は大沼龍太郎の妹大沼トヨと結婚し一男二女を設けますが、とよは33歳で死去します。1915年に貫太郎は足立たかと再婚しています。たかは幼稚園の教師を務め、昭和天皇の養育係を務めていました。

長男の鈴木一は農林省に入省し、総理大臣秘書官を務めています。その息子の哲太郎は孫としてメディアによく出演していました。哲太郎は2女を儲け、長女の真理絵は濱田化成社長の浜田憲一に嫁いでいます。

長女のさかえは陸軍大将の藤江恵輔に嫁ぎ、息子の多くは陸軍軍人となりました。次女のみつ子は台北帝国大学教授の足立仁に嫁ぎます。和歌山大学教授の足立基浩は貫太郎のひ孫にあたります。

死因は肝臓癌

鈴木貫太郎は最終的に肝臓癌にて死去します。太平洋戦争を終戦に導くという使命を果たした僅か3年後の1948年4月17日のことでした。

死ぬ間際、貫太郎は、

「永遠の平和、永遠の平和」

という言葉を非常にはっきりと語りかけたそうです。最後までその和平主義な人間性が垣間見えますね。また、死後の火葬した際には二・二六事件の時の弾丸が混ざっていたそうです。

鈴木貫太郎の功績

功績1「ポツダム宣言を受諾し終戦を実現する」

ポツダム宣言を受諾するにあたり、外務省が行った交渉記録

鈴木貫太郎の最大の功績は、太平洋戦争を終わらせたことです。徹底抗戦を唱える一部の軍人たちをうまく扱いながら、和平への道筋をつけるために尽力し、最後は天皇の「聖断」に委ねるという形で終戦に持ち込みました。

首相に任命された時、鈴木はすでに77歳です。軍人が政治に関わるべきではないという信念を持っていた鈴木は、首班指名の際に何度も辞退しています。しかし昭和天皇から「頼む」と言われ、引き受けるに至りました。

江戸時代生まれの軍人に、終戦工作という重たい仕事を任せるのは、昭和天皇としても辛い判断だったのかもしれません。しかし侍従長も務め、昭和天皇から絶大な信頼を置かれていた鈴木以外、戦争を終わらせるという大役を担える人は他にいなかったのでしょう。

功績2「日露戦争で鬼の貫太郎と呼ばれる程の軍功を挙げる」

日本海海戦

貫太郎の戦法は高速近距離射法と呼ばれ、敵艦に極力近づき魚雷発射を行うものです。魚雷は本来遠距離から発射するもので、それまでの常識を覆します。この戦法は画期的なものの、敵艦に見つかるリスクもありました。

貫太郎は猛訓練の末に高速近距離射法を会得し、鬼の貫太郎と呼ばれたのです。日露戦争では敵艦隊スワロフに魚雷を撃ち込む事に成功し、大きな成果をあげました。

これは後の命を犠牲にした人間魚雷とは全く異なり、貫太郎の確かな経験と指揮系統による戦術でした。貫太郎は日清戦争の際に部下に「お前たちを殺すような下手な戦さはしない」と述べています。

貫太郎は海軍大学校教官時代に水雷艇射法について教鞭をとり、海軍水雷術の発展にも貢献しています。

功績3「侍従長として昭和天皇をサポートした」

皇居外苑

日露戦争後、貫太郎は出世を重ね、海軍軍令部長等の要職を歴任。海軍のトップに君臨しました。1929年には貫太郎は宮内省からの要請を受けて、軍のポストを捨てて侍従長に就任します。

侍従長は天皇の側近として身の回りのお世話をする仕事です。大役ですが軍令部長よりも格は大分落ちます。貫太郎か役を引き受けたのは、「格下になるのが嫌で名誉ある職を断った」と思われたくなかったからでした。

貫太郎は昭和天皇の話し相手として、献身的に支えていく事となります。当時の昭和天皇はまだ30代と若く、貫太郎は親代わりでもありました。

後に貫太郎が総理大臣に就任したのも、侍従長としての信頼があったからです。

功績4「人間性が終戦工作に大きな影響を与えた 」

鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾

貫太郎が総理大臣に就任した時点で、和平推進派は沢山いました。それでも貫太郎が選ばれたのは、その人間性にあるでしょう。陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか)はこのように述べています。

「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」

当時の内閣は陸軍海軍の大臣が辞任すると内閣は総辞職する事になっており、終戦へと導く為には双方の協力が必要でした。貫太郎に寄せる信頼が陸軍を動かしたのです。

そして惟幾は8月15日に陸軍官邸で自刃。陸軍の暴動を防ぐには、代表者である自分の死のみだと考えていたようです。貫太郎も「真に国を思ふ誠忠の人でした」と述べており、2人の間には深い信頼があったのです。

鈴木貫太郎の名言

「軍人は政治に関与してはならぬ。軍人は専心国防に任ずべきものである。国防は敵国に対してなされるものである。」

貫太郎は軍人は政治に関与してはいけないと考えていました。この言葉を2.26事件の隊長になる安藤輝三にも伝えています。数年後に輝三は貫太郎を襲撃しますが、深い尊敬を抱いていた為、トドメをささなかったのです。

「日本人として残しておきたい美点と言えば、武士道であると思う。日本が過去において世界に誇ってよかったものは武士道であると思う。武士道は正義を重んずる精神であり、慈悲に尊ぶ精神である。これを失ったままにしておく事は日本民族の精髄を失う事になる」

戦後に貫太郎が語った言葉です。GHQによる統治の中、日本の古き良き伝統は失われていく事になりますが、日本人が昔から持つ武士道だけは忘れてはならないと述べているのです。

「永遠の平和、永遠の平和」

死の直前、貫太郎が最期に遺した言葉です。日本の平和を最期まで案じていた貫太郎の気持ちを象徴するものですね。

鈴木貫太郎の人物相関図

こちらが鈴木貫太郎内閣の閣僚と、昭和天皇になります。彼らが主体で和平工作が進められていきます。

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