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鈴木貫太郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や名言、内閣の政策や死因についても紹介】

鈴木貫太郎は日本が太平洋戦争の真っ只中で総理大臣となり、昭和天皇に聖断を仰ぐ形でポツダム宣言を受諾し、日本を終戦に導いた総理大臣です。日本が敗戦濃厚となる中、昭和天皇や重臣達の後押しを受けて総理大臣となりました。

イタリアやドイツが降伏する中、日本は1億玉砕のスローガンを掲げ、本土を攻められても戦うつもりでいました。広島と長崎に原爆が落とされた後もその意思は変わらなかったのです。

貫太郎がいなければ戦争は更に長引き、多くの犠牲者が出た事でしょう。貫太郎は日本における大恩人なのです。

内閣総理大臣在任時の貫太郎

貫太郎は日清戦争や日露戦争で鬼貫とも呼ばれた程の生粋の海軍軍人でした。「軍人は政治に関わるべきではない」という信条を持つものの、その人格から天皇側近の要職である侍従長に抜擢され、政治の表舞台に駆り出される事となります。

貫太郎は江戸生まれの最後の総理大臣であり、武士道精神を持った人物でした。その精神は日本国民だけでなくアメリカ国民にも伝わり、終戦に一役買ったのは間違いありません。総理大臣として終戦へ導いたその姿は、人の上に立つ為に必要なものが何かを教えてくれるように思います。

今回はそんな貫太郎の生き方に心を奪われてしまった筆者が、鈴木貫太郎の生涯について紹介していきます。

鈴木貫太郎とはどんな人物か

名前鈴木貫太郎
誕生日1868年1月18日
没地1948年4月17日
生地和泉国大鳥郡久世村伏尾
(現大阪府堺市中区)
没地千葉県東葛飾郡関宿町
(現千葉県野田市)
配偶者鈴木トヨ(先妻)
鈴木たか(後妻)
埋葬場所実相寺(千葉県野田市)

鈴木貫太郎の生涯をダイジェスト

日露戦争の頃の貫太郎

貫太郎の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 1868年 和泉国久世村にて誕生
  • 1884年 海軍兵学校に入学
  • 1894年 日清戦争に従軍し、威海衛の戦いに参加
  • 1904年 日露戦争で「春日」の副長に任命され、日本海海戦で活躍
  • 1929年 侍従長に就任
  • 1936年 2.26事件で九死に一生を得る
  • 1937年 枢密院顧問官となる
  • 1945年 内閣総理大臣に就任し、ポツダム宣言を受諾
  • 1948年 故郷の関宿町で死去

鈴木貫太郎の家族構成や子孫は?

貫太郎の弟の孝雄

貫太郎は関宿藩士の鈴木由哲ときよの長男として生まれます。長弟の孝雄は陸軍大将となり、後に靖国神社の4代目宮司となりました。次弟の三郎は久邇宮御用掛を務めた他、末弟の永田茂は陸軍中佐となりました。

1888年に貫太郎は大沼龍太郎の妹大沼トヨと結婚。一男二女を設けますが、とよは33歳で死去します。1915年に貫太郎は足立たかと再婚しています。たかは幼稚園の教師を務め、昭和天皇の養育係を務めていました。

長男の鈴木一は農林省に入省し、総理大臣秘書官を務めています。その息子の哲太郎は孫としてメディアによく出演していました。哲太郎は2女を儲け、長女の真理絵は濱田化成社長の浜田憲一に嫁いでいます。

長女のさかえは陸軍大将の藤江恵輔に嫁ぎ、息子の多くは陸軍軍人となりました。次女のみつ子は台北帝国大学教授の足立仁に嫁ぎます。和歌山大学教授の足立基浩は貫太郎のひ孫にあたります。

鈴木貫太郎が参加した戦争は?

威海衛の戦い

貫太郎は日清戦争と日露戦争に参加しています。日清戦争では水雷艇艇長として従軍し、威海衛の戦いでは海軍史上初の夜襲を決行します。極寒の中で行われた為、敵艦を沈める事は出来なかったものの、大きな被害を与えた為、戦局に大きな影響を与えました。

貫太郎は日清戦争の功績から功五級金鵄勲章と勲六等瑞宝章を授与されています。当時の貫太郎はまだまだ下積みの地方官であり、破格の授与でした。

日露戦争では主砲の射程は世界一と言われる「春日」の副長に任命され、黄海海戦に参加します。後に駆逐艦「朝霧」に乗艦し、ロシアの軍艦に魚雷を命中させ、日本海海戦の勝利に大きく貢献しました。

日露戦争の功績では功三級金鵄勲章を授与されます。その功績から貫太郎は水雷艇のエキスパートとして教鞭を取る事となりました。

鈴木貫太郎内閣の政治は?

鈴木貫太郎内閣

鈴木貫太郎内閣は1945年4月7日に発足します。目的は終戦工作ただ1つです。6月には戦争継続がほとんど不可能との認識がなされ、7月には天皇制を保持する事を目的とした「戦争指導大綱」が決定します。

日本はソ連に和平の仲介を頼みますが、ソ連はアメリカと繋がっていました。7月27日にアメリカからポツダム宣言が発せられ、8月6日には広島に9日には長崎に原爆が投下されます。

会議が紛糾する中、貫太郎は間合いを見て昭和天皇に聖断を仰いだのです。昭和天皇は受諾を決定し、8月15日に玉音放送で国民に降伏を伝えました。鈴木貫太郎内閣は敗戦の責任を取り、同日に総辞職しています。

鈴木貫太郎の功績

功績1「日露戦争で鬼の貫太郎と呼ばれる程の軍功を挙げる」

日本海海戦

貫太郎の戦法は高速近距離射法と呼ばれ、敵艦に極力近づき魚雷発射を行うものです。魚雷は本来遠距離から発射するもので、それまでの常識を覆します。この戦法は画期的なものの、敵艦に見つかるリスクもありました。

貫太郎は猛訓練の末に高速近距離射法を会得し、鬼の貫太郎と呼ばれたのです。日露戦争では敵艦隊スワロフに魚雷を撃ち込む事に成功し、大きな成果をあげました。

これは後の命を犠牲にした人間魚雷とは全く異なり、貫太郎の確かな経験と指揮系統による戦術でした。貫太郎は日清戦争の際に部下に「お前たちを殺すような下手な戦さはしない」と述べています。

貫太郎は海軍大学校教官時代に水雷艇射法について教鞭をとり、海軍水雷術の発展にも貢献しています。

功績2「侍従長として昭和天皇をサポートした」

皇居外苑

日露戦争後、貫太郎は出世を重ね、海軍軍令部長等の要職を歴任。海軍のトップに君臨しました。1929年には貫太郎は宮内省からの要請を受けて、軍のポストを捨てて侍従長に就任します。

侍従長は天皇の側近として身の回りのお世話をする仕事です。大役ですが軍令部長よりも格は大分落ちます。貫太郎か役を引き受けたのは、「格下になるのが嫌で名誉ある職を断った」と思われたくなかったからでした。

貫太郎は昭和天皇の話し相手として、献身的に支えていく事となります。当時の昭和天皇はまだ30代と若く、貫太郎は親代わりでもありました。

後に貫太郎が総理大臣に就任したのも、侍従長としての信頼があったからです。

功績3「人間性が終戦工作に大きな影響を与えた 」

鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾

貫太郎が総理大臣に就任した時点で、和平推進派は沢山いました。それでも貫太郎が選ばれたのは、その人間性にあるでしょう。陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか)はこのように述べています。

「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」

当時の内閣は陸軍海軍の大臣が辞任すると内閣は総辞職する事になっており、終戦へと導く為には双方の協力が必要でした。貫太郎に寄せる信頼が陸軍を動かしたのです。

そして惟幾は8月15日に陸軍官邸で自刃。陸軍の暴動を防ぐには、代表者である自分の死のみだと考えていたようです。貫太郎も「真に国を思ふ誠忠の人でした」と述べており、2人の間には深い信頼があったのです。

鈴木貫太郎の名言

「軍人は政治に関与してはならぬ。軍人は専心国防に任ずべきものである。国防は敵国に対してなされるものである。」

貫太郎は軍人は政治に関与してはいけないと考えていました。この言葉を2.26事件の隊長になる安藤輝三にも伝えています。数年後に輝三は貫太郎を襲撃しますが、深い尊敬を抱いていた為、トドメをささなかったのです。

「日本人として残しておきたい美点と言えば、武士道であると思う。日本が過去において世界に誇ってよかったものは武士道であると思う。武士道は正義を重んずる精神であり、慈悲に尊ぶ精神である。これを失ったままにしておく事は日本民族の精髄を失う事になる」

戦後に貫太郎が語った言葉です。GHQによる統治の中、日本の古き良き伝統は失われていく事になりますが、日本人が昔から持つ武士道だけは忘れてはならないと述べているのです。

「永遠の平和、永遠の平和」

死の直前、貫太郎が最期に遺した言葉です。日本の平和を最期まで案じていた貫太郎の気持ちを象徴するものですね。

鈴木貫太郎の人物相関図

こちら鈴木貫太郎内閣の閣僚と、昭和天皇になります。彼らが主体で和平工作が進められていきます。

鈴木貫太郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「死にそうになりながら何度も助かった」

二・二六事件の様子

貫太郎は幼い頃から何度も死にそうな目に遭っています。3歳の頃には暴走した馬に蹴られ、8歳の頃には川で溺れています。海軍時代も夜の航海中に海に落ちたり、一酸化炭素中毒で仮死状態にもなりました。

また2.26事件では頭と心臓、肩と股に拳銃弾を浴びて出血多量で心臓も停止したのです。傷が癒えた後の貫太郎は79kgあった体重が49kgにまで減っていました。

貫太郎が何度も生還を果たしたのは、太平洋戦争を終戦に導くという使命を果たす為だったのかもしれません。その使命を果たした僅か3年後に貫太郎はこの世を去っています。

都市伝説・武勇伝2「総理大臣就任時は77歳」

昭和天皇

貫太郎は77歳2ヶ月で総理大臣に就任しています。これは日本の内閣総理大臣の就任年齢では最高齢です。貫太郎は高齢である事、軍人は政治に関わるべきではないという信条から要請を断っています。

貫太郎を総理大臣に推したのは昭和天皇です。戦前の総理大臣は天皇に拝命される形で就任する事が慣例でした。貫太郎は「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と昭和天皇からお願いされて就任しています。

その事から貫太郎は「天皇に唯一”お願い”された男」とも呼ばれているのです。

都市伝説・武勇伝3「謎に包まれていた鈴木貫太郎親衛隊」

戦後の四元義隆

貫太郎はポツダム宣言を受諾した為、主戦派から命を狙われていました。そこで貫太郎を守る為「鈴木貫太郎親衛隊」が結成されたそうです。結成したのは後の政界の黒幕とも呼ばれた四元義隆でした。

8月14日には陸軍が蜂起し、貫太郎を襲う情報が入ります。彼らのお陰で貫太郎は間一髪で襲撃から逃れる事が出来ました。貫太郎の私邸は質素であり、襲撃隊は近くの豪邸を貫太郎の私邸と勘違いしていたそうです。

貫太郎が脱出した後で、襲撃隊が到着。彼らは貫太郎の私邸を焼き払いました。彼らの活躍は極秘の為、正史には載せられていません。この事が語られたのは戦後70年が経ってからでした。

鈴木貫太郎の簡単年表

1868年 - 0歳
鈴木貫太郎誕生

1868年1月18日に和泉国久世村にて誕生します。父親の由哲は関宿藩の家老を務めていました。幼少期の貫太郎は体格は大きいものの、泣き虫として育ちます。

1884年 - 16歳
海軍兵学校へ入学

貫太郎は「海外へ行きたい」という強い思いを持っており、海軍軍人になりたいと思います。両親は最初は医師になる事を勧めていましたが、貫太郎の熱意に押されます。

貫太郎は海軍兵学校に入学し、1887年に卒業します。成績が後の出世に影響する中、貫太郎はそこまで優秀ではありませんでした。

1895年 - 27歳
日清戦争に従軍

日清戦争では第三水雷艇隊所属の水雷艇艇長として、威海衛の戦いに参加します。貫太郎は海軍史上初となる夜襲を決行。戦局に大きな影響を与えました。

1905年 - 37歳
日露戦争に従軍

日露戦争では「春日」の副長に任命され、黄海海戦に参加しています。日本海海戦では戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈する活躍を見せ勝利に貢献しました。この活躍の後、貫太郎は大佐に任命され、順調に出世を重ねます。

1924年 - 56歳
連合艦隊司令長官に任命

1914年に海軍の汚職事件であるジーメンス事件の処理の為、海軍次官へ就任します。その後は海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等の様々な要職を歴任。遂に海軍全体の作戦や指揮を執るトップに君臨したのです。

1929年 - 61歳
侍従長に就任

貫太郎は宮内省の侍従長に就任します。侍従長は天皇と客人の間を取り次ぐ役目を担っていた為、謁見を求める人の要請を断る事が出来ます。その采配から若手将校から貫太郎は恨みを買う事になります。

1936年 - 68歳
2.26事件で襲撃される

2.26事件で貫太郎は暗殺対象となりました。安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲撃されるものの、一命を取り留めます。貫太郎と輝三は面識があり、後に輝三が処刑された事を聞くと、その死を惜しみました。

1945年 - 77歳
内閣総理大臣に就任する

侍従長を辞職後は枢密院議長に就任し、戦争には終始反対の立場を貫きます。敗戦濃厚となった1945年4月に内閣総理大臣に就任します。貫太郎は徹底抗戦を唱える陸軍の意見を巧みにかわして、終戦工作を行いました。

1948年 - 80歳
肝臓癌で死去

一切の職務を終えた後は郷里の関宿に戻り、隠居生活に入ります。80歳で肝臓癌て死去。死の間際には「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりと繰り返しました。

鈴木貫太郎の年表

1868年 – 0歳「鈴木貫太郎誕生」

鈴木貫太郎生家跡地

鈴木貫太郎誕生

鈴木貫太郎は1868年1月18日に和泉国久世村(大阪府堺市中区)にて誕生します。鈴木家は関宿藩(現千葉県野田市)で家老を務める一族であり、数年前に代官として泉州に赴任していました。

父由哲は武術に秀でた武士であり、戊辰戦争にも幕府方として参戦しています。母きよは住職の三女であり躾は厳しく、教育熱心な人でした。両親の教育を受けて貫太郎は自分に厳しく、人に親切な少年に育ちます。

1882年 – 14歳「海軍軍人になる事を志す」

関宿藩関宿城

軍人になる事を志す

1871年には関宿に家族で戻りますが、後に由哲の仕事の関係で前橋に移り住みました。群馬中学3年生の頃に「日本の軍艦がオーストラリアで歓迎された」という新聞記事を見て軍人になる事を志します。

貫太郎は「昔から海外へ行きたい」と強い憧れを抱いていたのです。

両親の思い

両親は貫太郎が医者になる事を望んでいました。貫太郎が心優しい少年だった事もありますが、元関宿藩士という立場も関係していました。

関宿藩は戊辰戦争の際に新政府軍と対立しています。明治政府は薩長閥が幅をきかせ、賊軍の子どもの出世は閉ざされていました。しかし貫太郎の強い熱意に押され、子どもが志望する道を歩かせる事を決意します。

1884年 – 16歳「海軍兵学校に入学」

海軍兵学校

海軍兵学校に入学

1884年には海軍兵学校に入学。海軍では卒業時の成績が出世に大きく影響しています。1887年に兵学校を卒業した時、貫太郎の席次は46人中13番。それ程優秀と言う事はありませんでした。

1888年には海軍少尉に任官。最初の上司は軍艦高雄艦長の大佐だった山本権兵衛、副長だった斎藤実です。彼らは貫太郎に大きな影響を与えるだけでなく、海軍を背負う人材となりました。

1895年 – 27歳「日清戦争に従軍する」

若き頃の鈴木貫太郎

日清戦争に従軍する

1894年7月に日清戦争が勃発。当時の貫太郎は大尉でした。当時の海軍は由哲が心配した通り、薩摩出身者が要職を歴任しており、賊軍の貫太郎は肩身の狭い思いをしています。

当時の貫太郎は「賊軍派出身の汚名を晴らす為」と血気盛んでした。そんな貫太郎を元会津藩士の上村彦之丞少佐が「不眠不休な中で眠気に負けて斬り込まない事。犬死をしないよう気をつけろ」と諭しています。

威海衛の戦い

黄海の海戦で清国は敗北。清国の艦隊は山東半島の威海衛の軍港に閉じこもっていました。日本が北京に攻め込む為には、この艦隊を突破する必要がありました。

貫太郎の水雷艇は夜襲を行い、敵艦は大打撃を受けました。戦いを見ていたイギリス人艦長は貫太郎の事を絶賛しています。

1904年 – 36歳「日露戦争勃発」

軍艦 春日

海軍大学校に進学

1897年に貫太郎は会津藩出身のとよと結婚します。日清戦争の活躍後も貫太郎は思うように出世は出来ず、薩摩藩出身者が要職を歴任します。貫太郎はそんな状況を打破する為、海軍大学校に進学しました。

日露戦争勃発

1903年12月の日露戦争開戦直前、日本はロシアとの戦いに備えてイタリアから装甲巡洋艦を購入します。貫太郎はドイツ駐在中であり、巡洋艦を日本まで届ける回航委員長に任命されます。巡洋艦は春日と名付けられました。

1904年2月に春日が日本に到着する頃に日露戦争が勃発。貫太郎はそのまま春日の副長に任命され、黄海海戦にも参加しています。

続く日本海海戦では第四駆逐隊司令官に任命され、艦隊3隻を撃沈させます。連合艦隊参謀だった秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われます。貫太郎は「よろしい」と快諾しました。

1905年 – 37歳「海軍大学校教官となる」

水雷戦術の教官となる

日露戦争直後の11月に貫太郎は海軍大学校の教官となります。この頃の国防方針では海軍はアメリカを後の仮想敵国と定めており、新たな戦略と人材育成が必要となった為です。

貫太郎は水雷戦術、秋山真之は戦術教官として教鞭をとります。真之が戦略と戦術を分けて考える理論派に対し、貫太郎は実践派の教官でした。日本海軍の戦略戦術の基礎は彼らにより体系付けられていくのです。

1910年 – 42歳「海軍水雷学校長となる」

海軍水雷学校

1年半だけの海軍水雷学校校長

1910年に貫太郎は海軍水雷学校校長に就任します。しかし僅か1年半で役職を退き、戦艦敷島の艦長となります。これは一定トン数以上の軍艦の艦長を務めないと将官になれない為でした。

とよの死

1912年海上任務中に妻とよが重体との連絡を受けます。臨終の場に立ち会う事は出来たものの、とよは僅か33歳でこの世を去りました。

2人の間には3人の子どもがいました。子どもに寂しい思いをさせない為でもあったのか、後に貫太郎は足立たかと再婚しています。たかは幼い昭和天皇の養育係を務めており、貫太郎の命の恩人にもなるのです。

1914年 – 46歳「ジーメンス事件により海軍次官となる」

晩年の山本権兵衛

山本権兵衛が総理大臣に就任する

1913年2月山本権兵衛が内閣総理大臣に就任。更に海軍大臣に斎藤実が留任します。権兵衛は軍部が政治に関与しないよう軍部大臣現役武官制を廃止した他、軍艦の再整備を目的とした八八艦隊計画を進めました。

貫太郎は同年12月に海軍省人事局長の辞令を受けます。かつての上司斎藤実が貫太郎の人柄に惹かれての事でした。

ジーメンス事件

1914年に海軍将校達がドイツのジーメンス社から賄賂を受け取ったと疑惑が持たれます。山本内閣は総辞職し、海軍の上層部の人事は一掃され、貫太郎は海軍次官となりました。

なお無実であった山本権兵衛と斎藤実も責任を取る形で現役を引退。貫太郎は次官として後の海軍大臣達をサポートしていきます。

1918年 – 50歳「アメリカへ訪問」

加藤友三郎

第一次世界大戦勃発

1916年に第一次世界大戦が勃発。貫太郎は加藤友三郎海軍大臣と八八艦隊計画の予算成立に奮闘します。予算を大幅に獲得しますが、国家予算の15%を占めるものでした。当時の貫太郎はまだまだ軍事費推進派だったのです。

アメリカへ訪問

第一次世界大戦後、日本は太平洋の島々に影響力を持った事でアメリカとの仲が緊迫します。貫太郎は1918年にサンフランシスコへ招かれて歓迎会を受けており、そこで以下のスピーチを行いました。

近来、不幸にして米国においても、また日本においても日米戦争と言う事をしばしば耳にする。しかし、日本は戦ってはいけない。(中略)太平洋はその名のごとく、太平の海でなければならない。平安の海でなければならない。この海は神が貿易のために置いたもので、もし軍隊輸送の為に使う事があれば、日米共に天罰が下るであろう」

スピーチはアメリカ国民の心を打ち、貫太郎もまた「アメリカ人は他人の推量を受け入れる推量がある」と学びます。このスピーチが、後に終戦内閣を貫太郎に託す理由にもなったのです。

1922年 – 54歳「海軍休日到来」

ワシントン海軍軍縮会議の様子

ワシントン海軍軍縮会議

1920年には戦後恐慌が起き、日本経済は低迷します。八八艦隊計画の予算が財政を圧迫するようになりました。各国は軍事費の拡大に懸念を抱いており、1921年にはアメリカから軍縮会議の打診がありました。

加藤友三郎はワシントン海軍軍縮会議に参加し、八八艦隊計画を白紙に流し条約に同意。軍艦保有比率は米英10割 日本6割と決められた為、軍内では条約に反対する艦隊派と、条約を厳守する条約派に分かれていきます。

海軍軍令部長

この頃の貫太郎は次々と要職を歴任しています。

  • 1923年 海軍大将
  • 1924年 連合艦隊司令官
  • 1925年 海軍軍令部長

軍令部長は海軍全体の作戦・指揮を統括する立場であり、貫太郎はこの時点で海軍の掌握するトップに君臨したのです。あくまで軍部を抑える立場にありました。

貫太郎は3年近く軍令部長の立場にあり、ワシントン体制下のもとで対米戦術樹立の為に作戦を練る事となります。最もこの時期は海軍休日と呼ばれ、目立った戦争はなく海軍内はしっかりと統制がとれていたのです。

1929年 – 61歳「侍従長に就任」

貫太郎を推挙した牧野伸顕

侍従長に就任する

1929年1月に前任の侍従長が死去した際、宮内省の人々は貫太郎を推挙しました。就任の為には軍人を退く事になりますが、貫太郎はあっさりと侍従長になる事に同意します。

貫太郎は当時28歳の昭和天皇に仕えます。昭和天皇が1汁2菜と分かると貫太郎もそれに合わせる等、質素な生活を送りました。なお同じ年に阿南惟幾陸軍中佐が侍従武官として着任しています。

侍従長は天皇と面会者を取り次ぐ役目を担っており、この立場が2つの大きな事件を引き起こします。

1929年 – 61歳「君側の奸と呼ばれる」

加藤寛治

満州某重大事件

1つ目は1929年6月に起きた満州某重大事件です。田中義一総理大臣の奏上に対して昭和天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と詰問。義一は再度昭和天皇に面会を求めますが、貫太郎はそれを断ります。

貫太郎は「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ」という昭和天皇の言葉を義一に報告。田中内閣は総辞職し、間も無く義一は死去します。昭和天皇は発言に責任を感じ、政府の方針に不満があっても口を挟まない事にしたのです。

帷握上奏阻止事件

2つ目は1930年1月にあったロンドン海軍軍縮会議です。海軍の艦隊派は軍艦保有量をアメリカ10割、日本7割を希望していました。全権大使は交渉の末に6.975割まで譲歩させますが、艦隊派はそれに反対しています。

軍令部長加藤寛治は反対意見を昭和天皇に伝える為、貫太郎に取り次ぎを求めますが貫太郎は拒絶しています。条約は締結されたものの、海軍内では不満が燻りました。

2つの事件は昭和天皇が政治に口を挟まなくなり、軍部の暴走を抑えられなくなったと共に、統帥権干犯問題を引き起こすきっかけを作ったとされます。貫太郎は君側の奸として命を狙われる事になるのです。

1931年 – 63歳「日本が世界から孤立していく」

満州事変の発端となった柳条湖の爆発現場

満州事変勃発

1931年9月に満鉄の線路が爆殺されます。関東軍は中国軍によるものと発表(実際には自作事件)し、軍の派遣を要請します。いわゆる満州事変です。陸軍は越境の許可を天皇から受け取る為、貫太郎に仲介を頼みます。

貫太郎は昭和天皇の気持ちを汲み「陛下の都合もあり、本日の拝謁はお許しになりません」と明確に拒否するものの、陸軍は独断で兵を派遣して満州事変を成功させます。陸軍が本格的に暴走を始めたのです。

1932年には五一五事件、1933年には国際連盟を脱退する等、昭和天皇の気持ちとは裏腹に日本は世界から孤立していきます。

1936年 – 68歳「二・二六事件により瀕死の重傷を負う」

安藤輝三大尉

二・二六事件

1936年2月26日に陸軍青年将校達がクーデターを実行。斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎が殺害されます。貫太郎邸には安藤輝三大尉の一隊が襲撃し、貫太郎は左脚付根、左胸、左頭部に銃弾を受けました。

妻のたかが命だけは助けて欲しいと懇願すると、安藤大尉は頷き、一隊に対して貫太郎に敬礼をするように号令をかけます。そしてたかにこう述べて、その場を後にしました。

「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」

瀕死からの復活

数年前に安藤大尉は貫太郎の元を訪れて時局について話を聞いており、貫太郎に深い感銘を受けていました。安藤大尉はずっと決起には反対だったものの、決起せざるを得なくなった時、誰よりも信念を貫いたそうです。

貫太郎は瀕死の重傷を受けたものの、奇跡的に復活しました。後に安藤大尉は二・二六事件の責任を取り処刑されます。貫太郎は安藤大尉に対してこのように述べています。

「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」

1940年 – 72歳「枢密院議長に就任する」

枢密院

侍従長を辞任

貫太郎は二・二六事件後に侍従長を辞任。1940年に貫太郎は枢密院副議長となりました。枢密院は天皇の諮問機関ですが、この頃には軍部独裁の為に殆ど意味をなしていません。1941年には太平洋戦争が勃発しています。

総理大臣に貫太郎の名が挙がる

1944年7月にサイパン島が陥落し東条内閣は総辞職し小磯国昭内閣が組閣します。8月に貫太郎は枢密院議長に任命されているものの、表立った政治的な動きはみさていませんでした。

1945年4月に小磯内閣は戦況悪化の責任を取り総辞職。貫太郎は枢密院議長として後任を決める重臣会議に参加します。その中でとうとう貫太郎が総理大臣に推挙されたのです。

1945年 – 77歳「鈴木貫太郎内閣発足」

内閣総理大臣在任時の貫太郎

鈴木貫太郎内閣発足

貫太郎は最初は断る事を伝えますが、既に昭和天皇に根回しが行われていました。昭和天皇は貫太郎に「頼むから承知して欲しい」とお願いをしたのです。1945年4月7日に鈴木貫太郎内閣が発足しました。

政府上層部と昭和天皇は和平工作を考えていましたが、陸軍は徹底抗戦を考えており、国民の多くは戦況の悪化を知りません。貫太郎は表向きでは戦争を進めるポーズを見せつつ、裏では和平に動く事となります。

ルーズベルトの訃報

総理大臣就任直後、アメリカのルーズベルト大統領が亡くなります。貫太郎はメディアを通してアメリカにこう伝えます。

今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。

同時期に同盟国ドイツのヒトラーはルーズベルトを罵倒しています。敵国でありながら哀悼の意を述べる貫太郎に世界は深い感銘を受けたのです。

1945年 – 77歳「ポツダム宣言の黙殺」

黙殺を報道する新聞

ソ連との和平工作

6月には日本の産業の現状を報告した『国力の現状』が発表されますが、戦争継続はほぼ不可能と判断となります。7月には本土決戦の為の武器として竹槍や弓等が製作される等、日本は追い詰められていきます。

6月22日には海軍大臣米内光政、内大臣木戸幸一の提案で、ソ連との和平工作が決められます。しかしソ連はアメリカと繋がっていました。満州や千島に侵攻する事が決められており、返答は先延ばしにされるだけでした。

ポツダム宣言の黙殺

7月27日に連合国から降伏に応じる為のポツダム宣言が発表されます。内閣はソ連との和平に希望を抱いていた為、公式見解は発表しないと決まります。しかし継戦派が宣言の公式な非難声明を出す事を強く望みます。

貫太郎は圧力に屈して以下のようなコメントを出します。

「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」

黙殺にはノーコメントの意味合いがあったものの、アメリカにはreject(拒否)と判断された為、日本に原子爆弾が落とされるきっかけになったと言う説があります。圧力に屈した事を貫太郎は生涯悔やみました。

1945年 – 77歳「ポツダム宣言受諾」

御前会議の様子

御前会議にて

広島長崎の原爆を受け、8月10日深夜には御前会議が開かれます。ポツダム宣言の全面的受諾、もしくは条件付き受諾をめぐり会議は結論が出ません。午前2時を過ぎた頃、貫太郎が立ち上がり玉座に進んでこう述べます。

「議をつくすこと数時間に及びましたが、事態は一刻の猶予ゆうよもない状況です。このうえは陛下の思おぼし召しをおうかがいし、本会議の決定としたいと思います」

訳すと天皇陛下の考えを、本会議の決定としたいと述べているのですね。

昭和天皇の思い

先程の言葉の真意は、戦争を昭和天皇の手で終わらせるという事でした。貫太郎は会議の中で聖断を仰ぐタイミングを見計らっていたのです。これは強硬派の意見を封じる為の苦渋の選択でもありました。

昭和天皇は即時受諾を選択し、太平洋戦争は和平に向かって進み出します。8月14日には再度御前会議が開かれ、日本の降伏が決まりました。貫太郎は絶妙なバランスの中で内閣を維持して、和平を実現させたのです。

1945年 – 77歳「鈴木内閣総辞職」

晩年の貫太郎

宮城事件

8月14日〜15日にかけて貫太郎は徹底抗戦派の人々から狙われる事となりますが、間一髪で助けられます。そのまま8月15日には玉音放送が流れ、敗戰した事を昭和天皇の口で伝えられました。

鈴木貫太郎内閣は責任の戦争を取り総辞職しています。

枢密院議長に再任される

戦後、戦争に関わった者はA級戦犯として逮捕されています。当時枢密院議長だった平沼騏一郎が逮捕された為、1945年12月には再度議長に就任しています。

翌年の1946年3月には公職追放令が出され、貫太郎は枢密院議長を辞任。一切の業務から解放され、故郷だった関宿に妻と共に戻るのでした。

1948年 – 80歳「肝臓癌で死去」

貫太郎の妻 たか夫人

隠居生活を送る

功績を称えて金銭が贈られると言う話があったものの、貫太郎は断っています。貫太郎は畑仕事をしながら、隠居生活を送りました。この間に吉田茂等、戦後の日本を支える人材が貫太郎の元を訪れています。

1947年には後頭部に腫れ物が出来て入院。これ以降は体力や気力に陰りが見られます。その年の9月に利根川が決壊した際に、付近の罹災者を見舞ったのが公に外出した最後となりました。

肝臓癌にて死去

1948年4月には危篤状態となります。15日には昭和天皇より紅白の葡萄酒が贈られ、起き上がろうとするものの、その体力もありませんでした。

4月17日、貫太郎は「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりと語りかけた後に亡くなりました。死後の火葬した際に二・二六事件の時の弾丸が混ざっていたそうです。

鈴木貫太郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

鈴木貫太郎自伝

貫太郎の自伝です。2.26事件や終戦工作等、当時の状況が緊迫感を持って描かれています。自伝は武勇伝や自己弁護が多くなりがちですが、この本では失敗談等も克明に記録されており、貫太郎の人柄が滲み出ています。

聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎

同じく鈴木貫太郎の生涯を記した書籍です。こちらは昭和天皇との関わりや、内閣総理大臣としての苦悩に重点が置かれています。平和な今だからこそ、読むべき本ではないでしょうか。

昭和天皇の親代わり-鈴木貫太郎とたか夫人

この本は昭和天皇の親代わりとしての貫太郎とたか夫人の功績に焦点を当てています。背景にある札幌農学校の教えにも触れており、近現代史とキリスト教の意外な接点に気づかせてくれます。

おすすめの動画

074 終戦エピソード 昭和天皇 鈴木貫太郎 阿南惟幾 田中静壱 青年将校

貫太郎内閣発足時に日本が抱えていた状況を、 VTRや池上彰の分かりやすい言葉で紹介しています。当時の証言や玉音盤も紹介されており、戦争が本当にあったのだと考えさせられます。

おすすめの映画

日本のいちばん長い日(1967年版)

1967年に制作されました。監督の岡本喜八は事実に基づいた描写を重視したとの事で、当時の緊迫した様子が生々しく描かれています。貫太郎は笠智衆が演じ、好々爺でありながら曲者として描かれています。

日本のいちばん長い日(2015年版)

こちらは2015年版です。監督の原田眞人は貫太郎を父親、阿南惟幾を長男、昭和天皇を次男と捉えており、映画のテーマを家族であると述べています。山崎努が演じる貫太郎は老獪な曲者として描かれています。

1967年版と2015年版はリメイクと言えども主題も異なります。1967年版は8月14日から物語は始まり、2015年は貫太郎内閣発足の4月から物語が始まる等、別の作品と捉えても良いでしょう。

おすすめドラマ

坂の上の雲 第3部 DVD-BOX

司馬遼太郎の名作を一切の妥協なくドラマ化したものです。日露戦争で活躍する秋山真之を主役にした作品ですが、貫太郎の第四駆逐艦隊での様子が描かれています。若き日の貫太郎の映像作品が観たい方におススメです。

関連外部リンク

鈴木貫太郎についてのまとめ

今回は鈴木貫太郎の生涯について紹介しました。貫太郎は持ち前の忍耐強さと人柄で海軍のトップにのし上がり、昭和天皇だけでなく多くの人に慕われました。

貫太郎があの時に総理大臣になっていなければ、日本は徹底抗戦を続けており、更に多くの犠牲者が出た事と思われます。今もなお貫太郎の功績は語り継がれるものなのではないでしょうか。

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