鈴木貫太郎の年表
1868年 – 0歳「鈴木貫太郎誕生」
鈴木貫太郎誕生
鈴木貫太郎は1868年1月18日に和泉国久世村(大阪府堺市中区)にて誕生します。鈴木家は関宿藩(現千葉県野田市)で家老を務める一族であり、数年前に代官として泉州に赴任していました。
父由哲は武術に秀でた武士であり、戊辰戦争にも幕府方として参戦しています。母きよは住職の三女であり躾は厳しく、教育熱心な人でした。両親の教育を受けて貫太郎は自分に厳しく、人に親切な少年に育ちます。
1882年 – 14歳「海軍軍人になる事を志す」
軍人になる事を志す
1871年には関宿に家族で戻りますが、後に由哲の仕事の関係で前橋に移り住みました。群馬中学3年生の頃に「日本の軍艦がオーストラリアで歓迎された」という新聞記事を見て軍人になる事を志します。
貫太郎は「昔から海外へ行きたい」と強い憧れを抱いていたのです。
両親の思い
両親は貫太郎が医者になる事を望んでいました。貫太郎が心優しい少年だった事もありますが、元関宿藩士という立場も関係していました。
関宿藩は戊辰戦争の際に新政府軍と対立しています。明治政府は薩長閥が幅をきかせ、賊軍の子どもの出世は閉ざされていました。しかし貫太郎の強い熱意に押され、子どもが志望する道を歩かせる事を決意します。
1884年 – 16歳「海軍兵学校に入学」
海軍兵学校に入学
1884年には海軍兵学校に入学。海軍では卒業時の成績が出世に大きく影響しています。1887年に兵学校を卒業した時、貫太郎の席次は46人中13番。それ程優秀と言う事はありませんでした。
1888年には海軍少尉に任官。最初の上司は軍艦高雄艦長の大佐だった山本権兵衛、副長だった斎藤実です。彼らは貫太郎に大きな影響を与えるだけでなく、海軍を背負う人材となりました。
1895年 – 27歳「日清戦争に従軍する」
日清戦争に従軍する
1894年7月に日清戦争が勃発。当時の貫太郎は大尉でした。当時の海軍は由哲が心配した通り、薩摩出身者が要職を歴任しており、賊軍の貫太郎は肩身の狭い思いをしています。
当時の貫太郎は「賊軍派出身の汚名を晴らす為」と血気盛んでした。そんな貫太郎を元会津藩士の上村彦之丞少佐が「不眠不休な中で眠気に負けて斬り込まない事。犬死をしないよう気をつけろ」と諭しています。
威海衛の戦い
黄海の海戦で清国は敗北。清国の艦隊は山東半島の威海衛の軍港に閉じこもっていました。日本が北京に攻め込む為には、この艦隊を突破する必要がありました。
貫太郎の水雷艇は夜襲を行い、敵艦は大打撃を受けました。戦いを見ていたイギリス人艦長は貫太郎の事を絶賛しています。
1904年 – 36歳「日露戦争勃発」
海軍大学校に進学
1897年に貫太郎は会津藩出身のとよと結婚します。日清戦争の活躍後も貫太郎は思うように出世は出来ず、薩摩藩出身者が要職を歴任します。貫太郎はそんな状況を打破する為、海軍大学校に進学しました。
日露戦争勃発
1903年12月の日露戦争開戦直前、日本はロシアとの戦いに備えてイタリアから装甲巡洋艦を購入します。貫太郎はドイツ駐在中であり、巡洋艦を日本まで届ける回航委員長に任命されます。巡洋艦は春日と名付けられました。
1904年2月に春日が日本に到着する頃に日露戦争が勃発。貫太郎はそのまま春日の副長に任命され、黄海海戦にも参加しています。
続く日本海海戦では第四駆逐隊司令官に任命され、艦隊3隻を撃沈させます。連合艦隊参謀だった秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われます。貫太郎は「よろしい」と快諾しました。
1905年 – 37歳「海軍大学校教官となる」
水雷戦術の教官となる
日露戦争直後の11月に貫太郎は海軍大学校の教官となります。この頃の国防方針では海軍はアメリカを後の仮想敵国と定めており、新たな戦略と人材育成が必要となった為です。
貫太郎は水雷戦術、秋山真之は戦術教官として教鞭をとります。真之が戦略と戦術を分けて考える理論派に対し、貫太郎は実践派の教官でした。日本海軍の戦略戦術の基礎は彼らにより体系付けられていくのです。
1910年 – 42歳「海軍水雷学校長となる」
1年半だけの海軍水雷学校校長
1910年に貫太郎は海軍水雷学校校長に就任します。しかし僅か1年半で役職を退き、戦艦敷島の艦長となります。これは一定トン数以上の軍艦の艦長を務めないと将官になれない為でした。
とよの死
1912年海上任務中に妻とよが重体との連絡を受けます。臨終の場に立ち会う事は出来たものの、とよは僅か33歳でこの世を去りました。
2人の間には3人の子どもがいました。子どもに寂しい思いをさせない為でもあったのか、後に貫太郎は足立たかと再婚しています。たかは幼い昭和天皇の養育係を務めており、貫太郎の命の恩人にもなるのです。
1914年 – 46歳「ジーメンス事件により海軍次官となる」
山本権兵衛が総理大臣に就任する
1913年2月山本権兵衛が内閣総理大臣に就任。更に海軍大臣に斎藤実が留任します。権兵衛は軍部が政治に関与しないよう軍部大臣現役武官制を廃止した他、軍艦の再整備を目的とした八八艦隊計画を進めました。
貫太郎は同年12月に海軍省人事局長の辞令を受けます。かつての上司斎藤実が貫太郎の人柄に惹かれての事でした。
ジーメンス事件
1914年に海軍将校達がドイツのジーメンス社から賄賂を受け取ったと疑惑が持たれます。山本内閣は総辞職し、海軍の上層部の人事は一掃され、貫太郎は海軍次官となりました。
なお無実であった山本権兵衛と斎藤実も責任を取る形で現役を引退。貫太郎は次官として後の海軍大臣達をサポートしていきます。
1918年 – 50歳「アメリカへ訪問」
第一次世界大戦勃発
1916年に第一次世界大戦が勃発。貫太郎は加藤友三郎海軍大臣と八八艦隊計画の予算成立に奮闘します。予算を大幅に獲得しますが、国家予算の15%を占めるものでした。当時の貫太郎はまだまだ軍事費推進派だったのです。
アメリカへ訪問
第一次世界大戦後、日本は太平洋の島々に影響力を持った事でアメリカとの仲が緊迫します。貫太郎は1918年にサンフランシスコへ招かれて歓迎会を受けており、そこで以下のスピーチを行いました。
近来、不幸にして米国においても、また日本においても日米戦争と言う事をしばしば耳にする。しかし、日本は戦ってはいけない。(中略)太平洋はその名のごとく、太平の海でなければならない。平安の海でなければならない。この海は神が貿易のために置いたもので、もし軍隊輸送の為に使う事があれば、日米共に天罰が下るであろう」
スピーチはアメリカ国民の心を打ち、貫太郎もまた「アメリカ人は他人の推量を受け入れる推量がある」と学びます。このスピーチが、後に終戦内閣を貫太郎に託す理由にもなったのです。
1922年 – 54歳「海軍休日到来」
ワシントン海軍軍縮会議
1920年には戦後恐慌が起き、日本経済は低迷します。八八艦隊計画の予算が財政を圧迫するようになりました。各国は軍事費の拡大に懸念を抱いており、1921年にはアメリカから軍縮会議の打診がありました。
加藤友三郎はワシントン海軍軍縮会議に参加し、八八艦隊計画を白紙に流し条約に同意。軍艦保有比率は米英10割 日本6割と決められた為、軍内では条約に反対する艦隊派と、条約を厳守する条約派に分かれていきます。
海軍軍令部長
この頃の貫太郎は次々と要職を歴任しています。
- 1923年 海軍大将
- 1924年 連合艦隊司令官
- 1925年 海軍軍令部長
軍令部長は海軍全体の作戦・指揮を統括する立場であり、貫太郎はこの時点で海軍の掌握するトップに君臨したのです。あくまで軍部を抑える立場にありました。
貫太郎は3年近く軍令部長の立場にあり、ワシントン体制下のもとで対米戦術樹立の為に作戦を練る事となります。最もこの時期は海軍休日と呼ばれ、目立った戦争はなく海軍内はしっかりと統制がとれていたのです。
1929年 – 61歳「侍従長に就任」
侍従長に就任する
1929年1月に前任の侍従長が死去した際、宮内省の人々は貫太郎を推挙しました。就任の為には軍人を退く事になりますが、貫太郎はあっさりと侍従長になる事に同意します。
貫太郎は当時28歳の昭和天皇に仕えます。昭和天皇が1汁2菜と分かると貫太郎もそれに合わせる等、質素な生活を送りました。なお同じ年に阿南惟幾陸軍中佐が侍従武官として着任しています。
侍従長は天皇と面会者を取り次ぐ役目を担っており、この立場が2つの大きな事件を引き起こします。
1929年 – 61歳「君側の奸と呼ばれる」
満州某重大事件
1つ目は1929年6月に起きた満州某重大事件です。田中義一総理大臣の奏上に対して昭和天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と詰問。義一は再度昭和天皇に面会を求めますが、貫太郎はそれを断ります。
貫太郎は「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ」という昭和天皇の言葉を義一に報告。田中内閣は総辞職し、間も無く義一は死去します。昭和天皇は発言に責任を感じ、政府の方針に不満があっても口を挟まない事にしたのです。
帷握上奏阻止事件
2つ目は1930年1月にあったロンドン海軍軍縮会議です。海軍の艦隊派は軍艦保有量をアメリカ10割、日本7割を希望していました。全権大使は交渉の末に6.975割まで譲歩させますが、艦隊派はそれに反対しています。
軍令部長加藤寛治は反対意見を昭和天皇に伝える為、貫太郎に取り次ぎを求めますが貫太郎は拒絶しています。条約は締結されたものの、海軍内では不満が燻りました。
2つの事件は昭和天皇が政治に口を挟まなくなり、軍部の暴走を抑えられなくなったと共に、統帥権干犯問題を引き起こすきっかけを作ったとされます。貫太郎は君側の奸として命を狙われる事になるのです。