鈴木貫太郎の功績
功績1「ポツダム宣言を受諾し終戦を実現する」
鈴木貫太郎の最大の功績は、太平洋戦争を終わらせたことです。徹底抗戦を唱える一部の軍人たちをうまく扱いながら、和平への道筋をつけるために尽力し、最後は天皇の「聖断」に委ねるという形で終戦に持ち込みました。
首相に任命された時、鈴木はすでに77歳です。軍人が政治に関わるべきではないという信念を持っていた鈴木は、首班指名の際に何度も辞退しています。しかし昭和天皇から「頼む」と言われ、引き受けるに至りました。
江戸時代生まれの軍人に、終戦工作という重たい仕事を任せるのは、昭和天皇としても辛い判断だったのかもしれません。しかし侍従長も務め、昭和天皇から絶大な信頼を置かれていた鈴木以外、戦争を終わらせるという大役を担える人は他にいなかったのでしょう。
功績2「日露戦争で鬼の貫太郎と呼ばれる程の軍功を挙げる」
貫太郎の戦法は高速近距離射法と呼ばれ、敵艦に極力近づき魚雷発射を行うものです。魚雷は本来遠距離から発射するもので、それまでの常識を覆します。この戦法は画期的なものの、敵艦に見つかるリスクもありました。
貫太郎は猛訓練の末に高速近距離射法を会得し、鬼の貫太郎と呼ばれたのです。日露戦争では敵艦隊スワロフに魚雷を撃ち込む事に成功し、大きな成果をあげました。
これは後の命を犠牲にした人間魚雷とは全く異なり、貫太郎の確かな経験と指揮系統による戦術でした。貫太郎は日清戦争の際に部下に「お前たちを殺すような下手な戦さはしない」と述べています。
貫太郎は海軍大学校教官時代に水雷艇射法について教鞭をとり、海軍水雷術の発展にも貢献しています。
功績3「侍従長として昭和天皇をサポートした」
日露戦争後、貫太郎は出世を重ね、海軍軍令部長等の要職を歴任。海軍のトップに君臨しました。1929年には貫太郎は宮内省からの要請を受けて、軍のポストを捨てて侍従長に就任します。
侍従長は天皇の側近として身の回りのお世話をする仕事です。大役ですが軍令部長よりも格は大分落ちます。貫太郎か役を引き受けたのは、「格下になるのが嫌で名誉ある職を断った」と思われたくなかったからでした。
貫太郎は昭和天皇の話し相手として、献身的に支えていく事となります。当時の昭和天皇はまだ30代と若く、貫太郎は親代わりでもありました。
後に貫太郎が総理大臣に就任したのも、侍従長としての信頼があったからです。
功績4「人間性が終戦工作に大きな影響を与えた 」
貫太郎が総理大臣に就任した時点で、和平推進派は沢山いました。それでも貫太郎が選ばれたのは、その人間性にあるでしょう。陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか)はこのように述べています。
「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」
当時の内閣は陸軍海軍の大臣が辞任すると内閣は総辞職する事になっており、終戦へと導く為には双方の協力が必要でした。貫太郎に寄せる信頼が陸軍を動かしたのです。
そして惟幾は8月15日に陸軍官邸で自刃。陸軍の暴動を防ぐには、代表者である自分の死のみだと考えていたようです。貫太郎も「真に国を思ふ誠忠の人でした」と述べており、2人の間には深い信頼があったのです。
鈴木貫太郎の名言
「軍人は政治に関与してはならぬ。軍人は専心国防に任ずべきものである。国防は敵国に対してなされるものである。」
貫太郎は軍人は政治に関与してはいけないと考えていました。この言葉を2.26事件の隊長になる安藤輝三にも伝えています。数年後に輝三は貫太郎を襲撃しますが、深い尊敬を抱いていた為、トドメをささなかったのです。
「日本人として残しておきたい美点と言えば、武士道であると思う。日本が過去において世界に誇ってよかったものは武士道であると思う。武士道は正義を重んずる精神であり、慈悲に尊ぶ精神である。これを失ったままにしておく事は日本民族の精髄を失う事になる」
戦後に貫太郎が語った言葉です。GHQによる統治の中、日本の古き良き伝統は失われていく事になりますが、日本人が昔から持つ武士道だけは忘れてはならないと述べているのです。
「永遠の平和、永遠の平和」
死の直前、貫太郎が最期に遺した言葉です。日本の平和を最期まで案じていた貫太郎の気持ちを象徴するものですね。
鈴木貫太郎の人物相関図
こちらが鈴木貫太郎内閣の閣僚と、昭和天皇になります。彼らが主体で和平工作が進められていきます。
鈴木貫太郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「死にそうになりながら何度も助かった」
貫太郎は幼い頃から何度も死にそうな目に遭っています。3歳の頃には暴走した馬に蹴られ、8歳の頃には川で溺れています。海軍時代も夜の航海中に海に落ちたり、一酸化炭素中毒で仮死状態にもなりました。
また2.26事件では頭と心臓、肩と股に拳銃弾を浴びて出血多量で心臓も停止したのです。傷が癒えた後の貫太郎は79kgあった体重が49kgにまで減っていました。
貫太郎が何度も生還を果たしたのは、太平洋戦争を終戦に導くという使命を果たす為だったのかもしれません。その使命を果たした僅か3年後に貫太郎はこの世を去っています。
都市伝説・武勇伝2「総理大臣就任時は77歳」
貫太郎は77歳2ヶ月で総理大臣に就任しています。これは日本の内閣総理大臣の就任年齢では最高齢です。貫太郎は高齢である事、軍人は政治に関わるべきではないという信条から要請を断っています。
貫太郎を総理大臣に推したのは昭和天皇です。戦前の総理大臣は天皇に拝命される形で就任する事が慣例でした。貫太郎は「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と昭和天皇からお願いされて就任しています。
その事から貫太郎は「天皇に唯一”お願い”された男」とも呼ばれているのです。
都市伝説・武勇伝3「謎に包まれていた鈴木貫太郎親衛隊」
貫太郎はポツダム宣言を受諾した為、主戦派から命を狙われていました。そこで貫太郎を守る為「鈴木貫太郎親衛隊」が結成されたそうです。結成したのは後の政界の黒幕とも呼ばれた四元義隆でした。
8月14日には陸軍が蜂起し、貫太郎を襲う情報が入ります。彼らのお陰で貫太郎は間一髪で襲撃から逃れる事が出来ました。貫太郎の私邸は質素であり、襲撃隊は近くの豪邸を貫太郎の私邸と勘違いしていたそうです。
貫太郎が脱出した後で、襲撃隊が到着。彼らは貫太郎の私邸を焼き払いました。彼らの活躍は極秘の為、正史には載せられていません。この事が語られたのは戦後70年が経ってからでした。
鈴木貫太郎の簡単年表
1868年1月18日に和泉国久世村にて誕生します。父親の由哲は関宿藩の家老を務めていました。幼少期の貫太郎は体格は大きいものの、泣き虫として育ちます。
貫太郎は「海外へ行きたい」という強い思いを持っており、海軍軍人になりたいと思います。両親は最初は医師になる事を勧めていましたが、貫太郎の熱意に押されます。
貫太郎は海軍兵学校に入学し、1887年に卒業します。成績が後の出世に影響する中、貫太郎はそこまで優秀ではありませんでした。
日清戦争では第三水雷艇隊所属の水雷艇艇長として、威海衛の戦いに参加します。貫太郎は海軍史上初となる夜襲を決行。戦局に大きな影響を与えました。
日露戦争では「春日」の副長に任命され、黄海海戦に参加しています。日本海海戦では戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈する活躍を見せ勝利に貢献しました。この活躍の後、貫太郎は大佐に任命され、順調に出世を重ねます。
1914年に海軍の汚職事件であるジーメンス事件の処理の為、海軍次官へ就任します。その後は海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等の様々な要職を歴任。遂に海軍全体の作戦や指揮を執るトップに君臨したのです。
貫太郎は宮内省の侍従長に就任します。侍従長は天皇と客人の間を取り次ぐ役目を担っていた為、謁見を求める人の要請を断る事が出来ます。その采配から若手将校から貫太郎は恨みを買う事になります。
2.26事件で貫太郎は暗殺対象となりました。安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲撃されるものの、一命を取り留めます。貫太郎と輝三は面識があり、後に輝三が処刑された事を聞くと、その死を惜しみました。
侍従長を辞職後は枢密院議長に就任し、戦争には終始反対の立場を貫きます。敗戦濃厚となった1945年4月に内閣総理大臣に就任します。貫太郎は徹底抗戦を唱える陸軍の意見を巧みにかわして、終戦工作を行いました。
一切の職務を終えた後は郷里の関宿に戻り、隠居生活に入ります。80歳で肝臓癌て死去。死の間際には「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりと繰り返しました。