1931年 – 63歳「日本が世界から孤立していく」
満州事変勃発
1931年9月に満鉄の線路が爆殺されます。関東軍は中国軍によるものと発表(実際には自作事件)し、軍の派遣を要請します。いわゆる満州事変です。陸軍は越境の許可を天皇から受け取る為、貫太郎に仲介を頼みます。
貫太郎は昭和天皇の気持ちを汲み「陛下の都合もあり、本日の拝謁はお許しになりません」と明確に拒否するものの、陸軍は独断で兵を派遣して満州事変を成功させます。陸軍が本格的に暴走を始めたのです。
1932年には五一五事件、1933年には国際連盟を脱退する等、昭和天皇の気持ちとは裏腹に日本は世界から孤立していきます。
1936年 – 68歳「二・二六事件により瀕死の重傷を負う」
二・二六事件
1936年2月26日に陸軍青年将校達がクーデターを実行。斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎が殺害されます。貫太郎邸には安藤輝三大尉の一隊が襲撃し、貫太郎は左脚付根、左胸、左頭部に銃弾を受けました。
妻のたかが命だけは助けて欲しいと懇願すると、安藤大尉は頷き、一隊に対して貫太郎に敬礼をするように号令をかけます。そしてたかにこう述べて、その場を後にしました。
「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」
瀕死からの復活
数年前に安藤大尉は貫太郎の元を訪れて時局について話を聞いており、貫太郎に深い感銘を受けていました。安藤大尉はずっと決起には反対だったものの、決起せざるを得なくなった時、誰よりも信念を貫いたそうです。
貫太郎は瀕死の重傷を受けたものの、奇跡的に復活しました。後に安藤大尉は二・二六事件の責任を取り処刑されます。貫太郎は安藤大尉に対してこのように述べています。
「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」
1940年 – 72歳「枢密院議長に就任する」
侍従長を辞任
貫太郎は二・二六事件後に侍従長を辞任。1940年に貫太郎は枢密院副議長となりました。枢密院は天皇の諮問機関ですが、この頃には軍部独裁の為に殆ど意味をなしていません。1941年には太平洋戦争が勃発しています。
総理大臣に貫太郎の名が挙がる
1944年7月にサイパン島が陥落し東条内閣は総辞職し小磯国昭内閣が組閣します。8月に貫太郎は枢密院議長に任命されているものの、表立った政治的な動きはみさていませんでした。
1945年4月に小磯内閣は戦況悪化の責任を取り総辞職。貫太郎は枢密院議長として後任を決める重臣会議に参加します。その中でとうとう貫太郎が総理大臣に推挙されたのです。
1945年 – 77歳「鈴木貫太郎内閣発足」
鈴木貫太郎内閣発足
貫太郎は最初は断る事を伝えますが、既に昭和天皇に根回しが行われていました。昭和天皇は貫太郎に「頼むから承知して欲しい」とお願いをしたのです。1945年4月7日に鈴木貫太郎内閣が発足しました。
政府上層部と昭和天皇は和平工作を考えていましたが、陸軍は徹底抗戦を考えており、国民の多くは戦況の悪化を知りません。貫太郎は表向きでは戦争を進めるポーズを見せつつ、裏では和平に動く事となります。
ルーズベルトの訃報
総理大臣就任直後、アメリカのルーズベルト大統領が亡くなります。貫太郎はメディアを通してアメリカにこう伝えます。
今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。
同時期に同盟国ドイツのヒトラーはルーズベルトを罵倒しています。敵国でありながら哀悼の意を述べる貫太郎に世界は深い感銘を受けたのです。
1945年 – 77歳「ポツダム宣言の黙殺」
ソ連との和平工作
6月には日本の産業の現状を報告した『国力の現状』が発表されますが、戦争継続はほぼ不可能と判断となります。7月には本土決戦の為の武器として竹槍や弓等が製作される等、日本は追い詰められていきます。
6月22日には海軍大臣米内光政、内大臣木戸幸一の提案で、ソ連との和平工作が決められます。しかしソ連はアメリカと繋がっていました。満州や千島に侵攻する事が決められており、返答は先延ばしにされるだけでした。
ポツダム宣言の黙殺
7月27日に連合国から降伏に応じる為のポツダム宣言が発表されます。内閣はソ連との和平に希望を抱いていた為、公式見解は発表しないと決まります。しかし継戦派が宣言の公式な非難声明を出す事を強く望みます。
貫太郎は圧力に屈して以下のようなコメントを出します。
「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」
黙殺にはノーコメントの意味合いがあったものの、アメリカにはreject(拒否)と判断された為、日本に原子爆弾が落とされるきっかけになったと言う説があります。圧力に屈した事を貫太郎は生涯悔やみました。
1945年 – 77歳「ポツダム宣言受諾」
御前会議にて
広島長崎の原爆を受け、8月10日深夜には御前会議が開かれます。ポツダム宣言の全面的受諾、もしくは条件付き受諾をめぐり会議は結論が出ません。午前2時を過ぎた頃、貫太郎が立ち上がり玉座に進んでこう述べます。
「議をつくすこと数時間に及びましたが、事態は一刻の猶予ゆうよもない状況です。このうえは陛下の思おぼし召しをおうかがいし、本会議の決定としたいと思います」
訳すと天皇陛下の考えを、本会議の決定としたいと述べているのですね。
昭和天皇の思い
先程の言葉の真意は、戦争を昭和天皇の手で終わらせるという事でした。貫太郎は会議の中で聖断を仰ぐタイミングを見計らっていたのです。これは強硬派の意見を封じる為の苦渋の選択でもありました。
昭和天皇は即時受諾を選択し、太平洋戦争は和平に向かって進み出します。8月14日には再度御前会議が開かれ、日本の降伏が決まりました。貫太郎は絶妙なバランスの中で内閣を維持して、和平を実現させたのです。
1945年 – 77歳「鈴木内閣総辞職」
宮城事件
8月14日〜15日にかけて貫太郎は徹底抗戦派の人々から狙われる事となりますが、間一髪で助けられます。そのまま8月15日には玉音放送が流れ、敗戰した事を昭和天皇の口で伝えられました。
鈴木貫太郎内閣は責任の戦争を取り総辞職しています。
枢密院議長に再任される
戦後、戦争に関わった者はA級戦犯として逮捕されています。当時枢密院議長だった平沼騏一郎が逮捕された為、1945年12月には再度議長に就任しています。
翌年の1946年3月には公職追放令が出され、貫太郎は枢密院議長を辞任。一切の業務から解放され、故郷だった関宿に妻と共に戻るのでした。
1948年 – 80歳「肝臓癌で死去」
隠居生活を送る
功績を称えて金銭が贈られると言う話があったものの、貫太郎は断っています。貫太郎は畑仕事をしながら、隠居生活を送りました。この間に吉田茂等、戦後の日本を支える人材が貫太郎の元を訪れています。
1947年には後頭部に腫れ物が出来て入院。これ以降は体力や気力に陰りが見られます。その年の9月に利根川が決壊した際に、付近の罹災者を見舞ったのが公に外出した最後となりました。
肝臓癌にて死去
1948年4月には危篤状態となります。15日には昭和天皇より紅白の葡萄酒が贈られ、起き上がろうとするものの、その体力もありませんでした。
4月17日、貫太郎は「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりと語りかけた後に亡くなりました。死後の火葬した際に二・二六事件の時の弾丸が混ざっていたそうです。
鈴木貫太郎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
鈴木貫太郎自伝
貫太郎の自伝です。2.26事件や終戦工作等、当時の状況が緊迫感を持って描かれています。自伝は武勇伝や自己弁護が多くなりがちですが、この本では失敗談等も克明に記録されており、貫太郎の人柄が滲み出ています。
聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎
同じく鈴木貫太郎の生涯を記した書籍です。こちらは昭和天皇との関わりや、内閣総理大臣としての苦悩に重点が置かれています。平和な今だからこそ、読むべき本ではないでしょうか。
昭和天皇の親代わり-鈴木貫太郎とたか夫人
この本は昭和天皇の親代わりとしての貫太郎とたか夫人の功績に焦点を当てています。背景にある札幌農学校の教えにも触れており、近現代史とキリスト教の意外な接点に気づかせてくれます。
おすすめの映画
日本のいちばん長い日(1967年版)
1967年に制作されました。監督の岡本喜八は事実に基づいた描写を重視したとの事で、当時の緊迫した様子が生々しく描かれています。貫太郎は笠智衆が演じ、好々爺でありながら曲者として描かれています。
日本のいちばん長い日(2015年版)
こちらは2015年版です。監督の原田眞人は貫太郎を父親、阿南惟幾を長男、昭和天皇を次男と捉えており、映画のテーマを家族であると述べています。山崎努が演じる貫太郎は老獪な曲者として描かれています。
1967年版と2015年版はリメイクと言えども主題も異なります。1967年版は8月14日から物語は始まり、2015年は貫太郎内閣発足の4月から物語が始まる等、別の作品と捉えても良いでしょう。
おすすめドラマ
坂の上の雲 第3部 DVD-BOX
司馬遼太郎の名作を一切の妥協なくドラマ化したものです。日露戦争で活躍する秋山真之を主役にした作品ですが、貫太郎の第四駆逐艦隊での様子が描かれています。若き日の貫太郎の映像作品が観たい方におススメです。
関連外部リンク
鈴木貫太郎についてのまとめ
今回は鈴木貫太郎の生涯について紹介しました。貫太郎は持ち前の忍耐強さと人柄で海軍のトップにのし上がり、昭和天皇だけでなく多くの人に慕われました。
貫太郎があの時に総理大臣になっていなければ、日本は徹底抗戦を続けており、更に多くの犠牲者が出た事と思われます。今もなお貫太郎の功績は語り継がれるものなのではないでしょうか。