マクシミリアン・ロベスピエールとはどんな人?名言や恐怖政治、最後の様子も紹介

マクシミリアン・ロベスピエールとは、革命期にあたる18世紀後半のフランスで活動した政治家であり、革命の中心人物の一人です。

王家による支配ではなく民衆による国家運営を理想とし、そのために尽力しながらも、結果としては恐怖による独裁政治を行い、その末にギロチンに消えた人物として知られています。

ロベスピエールを描いたとされる肖像画

そのような独裁者として知られ、マリー・アントワネットの名誉回復と共に、より悪人としての側面がクローズアップされていきがちなロベスピエール。しかしその一方で、彼自身の人物像は「公正無私」「公明正大」で、多くの民衆から慕われていたという記録も残っています。

このように「語られる悪名」と「記録された人物像」の隔たりが、様々な歴史の中で見ても非常に大きいのが、ロベスピエールという人物。

この記事では、そんなロベスピエールの様々な側面を紹介していき、その悪名のみならず、評価すべきポイントにも迫りたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

マクシミリアン・ロベスピエールとはどんな人物か

名前マクシミリアン・フランソワ・マリー・
イジドール・ド・ロベスピエール
誕生日1758年5月6日
没日1794年7月28日
生地フランス王国、アルトワ州、アラス
没地フランス共和国、パリ
コンコルド広場(享年36)
配偶者なし
埋葬場所不明
政治思想ジャコバン派
山岳派(モンテーニュ派)

マクシミリアン・ロベスピエールの生涯をハイライト

ロベスピエールの出生地であるアラスは
現在では壮麗なタウンホールがある名所として知られる

マクシミリアン・ロベスピエールは、1758年5月に、フランス王国のアラスに生を受けました。弁護士の家系に生まれたロベスピエールですが、母の死去と父の失踪によって生活が一気に困窮するなど、その生活は順風満帆とはいかなかったようです。

そのような中でも、ロベスピエールは秀才ぶりを発揮。1755年にルイ16世が法学校を訪問した際には、学生代表としてラテン語の祝辞を捧げたという記録が残っています。その後も奨学金を得て、パリのリセ・ルイ=ル=グラン学園に進学。そこでも頭角を現したロベスピエールは、卒業の翌年に地元で弁護士となりました。

ロベスピエールの権勢が強まるきっかけとなった、ヴァレンヌ事件

そして彼の転機となるのが1789年。選挙に出馬して勝利したロベスピエールは、ルソーの思想に影響を受けて『ジャコバン派』に所属。その後一時はジャーナリストとして下野するも、その際に発行した新聞でも国民からの支持を高め、権勢を強めていくことになります。

そうして再び政治の世界に舞い戻り、ルイ16世ら王族の処刑や、政敵であるジロンド派などの粛清を展開。同時期に公安委員会に選出され、国民からの指示は盤石になったように思われました。

多くの人物をギロチンに送り、そして最期は自らも…

国家のほぼ全権を掌握したロベスピエールは、「全人民が権利と富を持てる国を作る」という理想に進み始めますが、ここで彼に待ったをかけたのが「反革命派」。ロベスピエールは彼らを抑え込むために恐怖政治を導入し、反抗勢力に対しての粛清を断行。彼の理想とする「平等な権利と富の国」を、彼自身が台無しにしてしまうことになりました。

そして1794年。テルミドール反動と呼ばれるクーデターが勃発。ロベスピエールら、ジャコバン派の中心人物のほとんどが逮捕され、その多くが逮捕の翌日、コンコルド広場に送られて、ギロチンによってこの世を去りました。享年は36歳でした。

あまり恵まれない幼少期を過ごした

ロベスピエールの出生証明書
出典:Wikipedia

ロベスピエールの性格は「清廉潔白な完璧主義で冷酷」と評されますが、それは幼少期の複雑な家庭環境が少なからず影響したのだろうと考えられています。

弁護士だった父フランソワ・ド・ロベスピエールは当時不名誉といわれていた「授かり婚」をしており、生まれたのがマクシミリアンでした。マクシミリアンは生涯、出生に対するコンプレックスを持っていたといいます。

マクシミリオンの弟・オーギュスタン、後に兄と一緒にコンコルド広場で処刑された
出典:Wikipedia

そしてマクシミリアンの誕生後、弟1人・妹2人が産まれますが、マクシミリアンが6歳の時に母が死去。父親は家庭を捨てて、故郷を離れてしまいました。そのためマクシミリアンは祖父母の元で育ちますが、幼少期に両親がいない生活は、「生真面目で思慮分別のある勤勉な性格」を形成することになりました。

敬虐なカトリック信者だった叔母たちの影響で、活発な子供というよりは物静かな読書好きな子供時代を過ごしていたといいます。こういった幼少期の環境は、清廉潔白な一面と同時に後述しますが女性に対する態度にも影響したと考えられています。

マクシミリアン・ロベスピエールの政治思想

ジャコバン派に属することを示すマーク

ロベスピエールの政治思想は、一般的に「ジャコバン派」という名称で知られています。

正式には「憲法友の会」「ジャコバン協会、自由と平等の友」と呼ばれるそれらの政治的結社は、現在の一般通念的には極左に属する政治思想団体であり、「王統政治の廃止」を訴える、当時のフランス革命における中心的な勢力でした。

ロベスピエールはその中でも「山岳派(モンターニュ派)」と呼ばれる急進的な勢力に所属しており、実は一口に「ジャコバン派」と言っても、内部には穏健派のジロンド派、中立派のフイヤン派も存在し、正確に「ロベスピエールの政治思想」を答えるなら、「ジャコバン派内の急進勢力である”山岳派(モンターニュ派)”」と答えるのが正答となります。

そして、ロベスピエールが信奉した山岳派、ひいてはジャコバン派による政治がどうなったのかは、歴史がそのまま語る通り。国民からの支持を得つつ、次第に理念と実情の隔たりが大きくなっていったジャコバン派は、国民から見放される形で急速に衰退していくこととなりました。

この「ジャコバン派」は、恐怖政治の代名詞として「テロリズム」という言葉の語源とされたり、「左翼」「左派」などの政治思想の語源となったりと、良かれ悪しかれ現代にも影響を残しています。

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