マクシミリアン・ロベスピエールが影響を受けた / 与えた人物
ロベスピエールが強い影響を受けた人物としては、ジャン=ジャック・ルソーがとくに有名です。
ロベスピエールはルソーの説いた「社会契約説」に強い影響を受けており、その中で説かれていた民主政治や公共の福祉などを国家の理想形として考えていたようです。事実として、公安委員会に選出されて以降のロベスピエールは、そのような国家体系を実現するために様々な尽力を行っていたという記録が残っています。
また、フランス皇帝として知られるナポレオン・ボナパルトは、元を正せばロベスピエールが布いた政治体制の中で見出された人物であり、ロベスピエールに対して「処刑されていなければ、誰より優れた人物になった」と評するほどに、強い尊敬の念を持っていたと言われています。
「革命の英雄」であるナポレオン・ボナパルトが、実は「恐怖政治の独裁者」であるロベスピエールによって頭角を現していたという事実。そのような部分にも、なんとなく歴史の面白みが感じられるようです。
マクシミリアン・ロベスピエールの最期
「誰もが平等に権利と富を持てる国」を目指しながら、その理想を自分自身の手で壊し、指示を失ってしまったロベスピエール。そんな彼の最期は、あまりにも皮肉なことに「民衆からのクーデター」によって訪れました。
容赦ない弾圧や、強権的な政治体制に不信を抱いた民衆によって「暴君」のレッテルを張られたロベスピエールは、1794年7月27日の『テルミドール反動』によって逮捕。逮捕の直前、パリ市庁舎に立てこもって自殺を図るも死にきれず、重症を負っての逮捕だったと言います。
そしてその翌日である7月28日。マクシミリアン・ロベスピエールは、弟のオーぎゅすタン・ロベスピエールや、右腕であるルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストと共に、ギロチンにかけられて36年の生涯に幕を下ろしました。
この時ロベスピエールの処刑を執行したのは、執行人の家系であるシャルル=アンリ・サンソンでした。彼はロベスピエールからすると皮肉なことに、王党派でありながらルイ16世やマリー・アントワネットの処刑を、ロベスピエールに命じられた人物だったとも伝わっています。
マクシミリアン・ロベスピエールの”恐怖政治”とは?
ロベスピエールの布いた政治体制は、現在では一般に「恐怖政治(terreur)」と呼ばれ、「テロリズム」という言葉の語源として、現代にまで影響を残しています。
では、ロベスピエールの布いた「恐怖政治」とは、一体どのようなものだったのか。
ここでは、後年「ロベスピエールの政治」を語る際によく言われる「三本の柱」と共に、簡単に紹介していきたいと思います。
勝利(ヴィクトワール)
ロベスピエールは、対外的な戦争に臨むにあたって「アマルガム法」と呼ばれる法律を施行して「徴兵制」を採用。これまで一般的だった「貴族階級の指揮官と、平民階級の兵士」という制度を撤廃し、完全実力主義の「愛国的革命軍」を発足しました。
この愛国的革命軍の発足は、当時かなり弱体化していたフランスの国境回復や戦勝に大きく貢献。ナポレオン・ボナパルトが頭角を現したのも、この「愛国的革命軍」の影響が大きく、ともすればロベスピエールが後の世に与えた、最も大きな影響だと言えるかもしれません。
恐怖(テルール)
反対勢力の処刑や、政敵への粛清など、おそらくロベスピエールという人物の政治体制を最も象徴するのはこの言葉でしょう。
ルイ16世やマリー・アントワネットなどの王家の人間を処刑したことはもとより、元は同じジャコバン派でしたが、山岳派の急進政策についていけずに脱退した、フイヤン派やジロンド派の粛清を行ったことは、フランス革命を少しでも知っていれば耳にしたことがあるかと思います。
さらに公安委員会による独裁に疑問を投げかけた、ジロンド派内部の者も粛清するなど、「独裁」と呼ぶのも生温いような「恐怖による統治」を行ったのも、晩年のロベスピエールの大きな特徴です。
美徳(ヴェルチュ)
革命を終え、独裁体制を敷いたロベスピエールは、フランスの非キリスト教化を主導。「革命によって成立した自由と共和制」を神として国民に崇めさせるため、「最高存在の祭典」を計画、断行しました。「祖国愛」を訴え、国民の一致団結を求めるこの祭典は、音楽や演劇、マスゲームが行われる非常に華やかなものだったと記録されています。
しかし、この祭典を断行してしまったことで「ロベスピエール=独裁者」という認識が更に広まってしまうことになってしまいました。
そして祭典から約2か月後。皮肉にもロベスピエールは、自身の理想とした「祖国愛」を訴えた民衆の手で逮捕され、そのままギロチンに送られることになるのです。
ロベスピエールに粛正された革命派の人物
ロベスピエールが行った「恐怖政治」の大きな特徴の一つに、同じ「山岳派」の対立人物も苛烈に粛正したことが挙げられます。10か月という期間の恐怖政治で、処刑された人物を紹介します。
ジャック・ルネ・エベール
ロベスピエールと同じ山岳派に属していた人物です。ただし、ブルジョワジーとの関りが深かったために、1793年以降にダントン派(穏健派)を結成し、恐怖政治の廃止と反革命容疑者の釈放を求めていました。
そして1794年に東インド会社事件(汚職事件)にダントン派の議員が関与していたために、ロベスピエールが激怒。内容は貧民の味方として富者を攻撃していたエベールが、実はパリ在住の外国人銀行家と親密な関係にあったり、軍と癒着して巨額の利益を得ていたことというものでした。
窮地に立たされたエベールは、ロベスピエールを打倒すべくコンドリエ・クラブの同士に蜂起を呼びかけるものの失敗。逮捕されて革命裁判にかけられ、ギロチンにより処刑されました。
ジョルジュ・ダントン
ジャック・ルネ・エベールと共にジロンド派に所属し、革命裁判所や公安委員会の設立に貢献し、モンターニュ派の指導者となりました。しかしダントン自身の汚職事件と、友人がルイ・フィリップと共にオーストリアに寝返ったために窮地に立たされます。
ダントンは雄弁をふるい判事も無罪に傾きかけますが、弁論を妨害などされ最終的に死刑判決が下りました。ギロチンへの道すがら、ダルトンはロベスピエールの家の前で、
「次はお前の番だ」
と叫んび堂々とした態度で処刑台に望んだといいます。最後の言葉は、
「俺の頭を民衆によく見せてやれ、これだけの頭は滅多にないぞ」
だったといいます。死刑執行人は執行後、言われたとおりに高く首を上げ群衆に示しました。