恐怖政治の終焉~ロベスピエールの死~
こうして多くの政敵や一般人をギロチンに送ってきたロベスピエールら山岳派でしたが、1794年に入ったころには、その内部で分派闘争が勃発する事態に。
これによってロベスピエールは、盟友でありダントン派の首魁でもあるジョルジュ・ダントンの排除を決定。「ダントンがいかに腐敗した政治家か」を国民公会の審議の場で暴露し、これによってダントンは逮捕。4月5日に処刑されてしまいました。
ダントンの処刑から約2か月後、ロベスピエールはフランスの反キリスト教化を推し進めるべく、「最高存在の式典」を断行しました。これはロベスピエールの意図の上では「革命で得た共和制の国」を国民に賛美させるための式典でしたが、これを断行したことが彼の命取りに。
派手な式典は「ロベスピエールが権力を誇示するための式典」として国民の目に映り、かねてからの恐怖政治も相まって、ロベスピエールへの信頼はここで没落していくことになったのです。
そしてその没落を示すように、式典から1か月後の7月27日、「テルミドール9日のクーデター」が勃発。
これによってロベスピエールら山岳派の主要メンバーはほぼ全員が逮捕。自らが政敵に行ってきたのと同様、彼らは裁判とも呼べない裁判にかけられた後、政敵たちと同様にギロチンにかけられてこの世を去ることになったのでした。
その後の恐怖政治
こうしてロベスピエールが処刑され、フランス革命期の恐怖政治は終了しましたが、ここで生まれた「恐怖による統治体制」は、後に生まれる国家運営の中にも暗雲を生む事態となりました。
フランス革命後の恐怖政治は「秘密警察」「公安警察」などを執行者として行われ、フランス革命期のものよりも秘密裏に行われるようになった分、より悪質さが増したとも言えるでしょう。
このような、フランス革命期以後の恐怖政治家としては、ソビエト連邦を指揮したヨシフ・スターリンなどが代表格として挙げられます。
また、日本においては東条英機が、憲兵を用いた恐怖政治体制を敷いたと指摘されることがあります。好意的な評価がありつつ、批判的な評価も根強い人物ですが、その批判の理由には、このような「恐怖政治家」の一面があることはほぼ確実でしょう。
また、アドルフ・ヒトラーなんかは「独裁者」としては有名であり、確かに彼の政治体制は恐怖政治に似た部分が散見されています。しかしヒトラーの政治体制は、当時のドイツ国民の期待に応えている部分も多く、厳密には「恐怖政治」とは言えないとされているのが現状です。
言葉のイメージからか混同されやすい「独裁」と「恐怖政治」ですが、この辺りはキチンと分けて考える必要があるでしょう。
恐怖政治に関わった者達
フランス革命後の約1年程度の期間だけで、約4万人の命を奪った「恐怖政治」という政治体制。では、そんな革命期のフランスを指揮してきたのは、どのような人物たちだったのでしょうか。このトピックでは、それらの人物について簡単に紹介させていただきます。
マクシミリアン・ロベスピエール
「恐怖政治」の元祖とも言うべき独裁者であり、フランス革命の中心人物として活躍した政治家です。ルソーに影響を受けた「民主主義」を唱え、無産労働者層を中心にカリスマ的な人気を誇った政治家でしたが、その急進的な政策や理想に邁進しすぎる姿勢から徐々に立場を悪くしていき、最終的には自らもギロチンにかけられてこの世を去ることになりました。
また、独裁者でありながら高潔な人物であったことも伝わり、フランス革命の是非も相まって、現在も評価が分かれる人物となっています。