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恐怖政治とは?特徴や歴史、関わった人物をわかりやすく解説

「恐怖政治って、世界史では聞いたことがあるけど結局何なの?」
「恐怖政治と独裁って何が違うの?」

恐怖政治とは、読んで字のごとく「恐怖を用いた政治体制」と説明できる、フランス革命期から現在まで散発的に起こり続ける政治体制の一つです。革命期のフランスに端を発するこの政治体制は、現在で言う「テロリズム」の語源としても知られ、政治的な腐敗や停滞とはまた違った政治問題として、現在を生きる私たちも考えなくてはいけない事柄だと言えます。

しかしその一方で、「恐怖政治」って名前だけは聞いたことがあるけど…」「結局どういう政治だったわけ?」という認識の方も、実は少なくないところでしょう。ということでこの記事では、実は意外と知られていない「恐怖政治」について、ザックリとではありますが解説していきたいと思います。

恐怖政治とは?

フランス革命期の恐怖政治を主導することになった「公安委員会」を描いた絵画

序文でも示した通り、「恐怖政治」とはそのまま読んで字のごとく「恐怖によって民衆を支配する政治体制」のことです。その手段としての”恐怖”には投獄や処刑などの(一応は)司法的な手段が一般的に用いられ、独裁体制などと結びつけられて語られることが多い政治体制だと言えるでしょう。

一般的にはフランス革命期にロベスピエールが中心となって行ったものが語られますが、実はこの恐怖政治は、フランス革命期以降も歴史上に度々出現する、人類の悪習となりつつある事件でもあるのです。

ということで、まずはフランス革命期の恐怖政治を振り返りつつ、その後に行われた恐怖政治についてもザックリではありますが解説していきましょう。

恐怖政治の歴史

フランスにて~恐怖政治の始まり~

フランス革命の中心人物であり、恐怖政治を行ったマクシミリアン・ロベスピエール

恐怖政治の始まりは、フランス革命が成立し、革命政府の中心にマクシミリアン・ロベスピエールらジャコバン派が立ったことから始まります。

王を廃する民主的な政治体制を掲げて、フランス王であるルイ16世を処刑したロベスピエールたち革命政府は、ルイ16世の処刑から約2か月後に革命裁判所を設置。これによって「上訴審のない、簡便かつ決定権の強い司法機関」が出来上がることになりました。

そしてそれと同時にロベスピエールは、公安委員会という革命政府の重要機関を発足。自身もその委員のイスに座ると、政府内部で自身に反発する”ジロンド派”の追い落としを開始するのです。

ジロンド派の黒幕と目された、マノン・ロラン夫人

巧みな演説や工作で人民を先導したロベスピエールら”山岳派”は、「ジロンド派の女王」と呼ばれたマノン・ロラン夫人を始めとするジロンド派議員の逮捕と処刑を敢行。これによってロベスピエールら”山岳派”は名実ともに革命政府の中心となり、いっそう独裁体制を強めていくことになりました。

マクシミリアン・ロベスピエールとはどんな人?生涯・年表まとめ

唸りをあげるギロチン~相次ぐ処刑~

シャルロット・コルデーらによるジロンド派の抵抗は続いたが、独裁の前に抵抗が意味をなすことはなかった

独裁が開始した後も、シャルロット・コルデーによる”山岳派の重鎮”ジャン=ポール・マラー暗殺など、ジロンド派による抵抗は続きました。しかし山岳派は、これらに対して大規模な粛清と弾圧を展開。結果として多くの人々がギロチンに消え、あるいは獄中で無念の死を遂げることとなりました。

その後もロベスピエールらは、公安委員会の権力を強めつつ、無産労働者層の支持を基盤として勢力を拡大。苛烈な恐怖政治を行いながらも、その独裁体制はあくまで一定の支持を受けて続けられていきました。

ルイ16世の妃、マリー・アントワネットの処刑は、フランス革命や恐怖政治の象徴として語られる大事件

そして恐怖政治による弾圧と統制が強まる中、1793年10月16日には、フランス王妃であったマリー・アントワネットの処刑が敢行。それに次いで捕らえられたジロンド派議員たちの処刑も執行され、多くの人間がギロチンによって機械的に首を落とされ、コンコルド広場で非業の死を遂げました。

その後、革命政府はタガが外れたように多くの人物を処刑。処刑の理由についても徐々に錯綜していき、「金持ちだったから」「役に立たない研究をしている学者だったから」などというとんでもない理由での処刑もあったのだと言います。それに合わせて革命裁判所の裁判手続きも簡略化されていき、処刑された人々の数は右肩上がりに上昇していくこととなりました。

恐怖政治の終焉~ロベスピエールの死~

ロベスピエールの専横に影をもたらしたのは、盟友であったジョルジュ・ダントンの処刑だった

こうして多くの政敵や一般人をギロチンに送ってきたロベスピエールら山岳派でしたが、1794年に入ったころには、その内部で分派闘争が勃発する事態に。

これによってロベスピエールは、盟友でありダントン派の首魁でもあるジョルジュ・ダントンの排除を決定。「ダントンがいかに腐敗した政治家か」を国民公会の審議の場で暴露し、これによってダントンは逮捕。4月5日に処刑されてしまいました。

反対の根強かった「最高存在の式典」を断行してしまったことで、ロベスピエールの没落は決定的なものとなった

ダントンの処刑から約2か月後、ロベスピエールはフランスの反キリスト教化を推し進めるべく、「最高存在の式典」を断行しました。これはロベスピエールの意図の上では「革命で得た共和制の国」を国民に賛美させるための式典でしたが、これを断行したことが彼の命取りに。

派手な式典は「ロベスピエールが権力を誇示するための式典」として国民の目に映り、かねてからの恐怖政治も相まって、ロベスピエールへの信頼はここで没落していくことになったのです。

革命期の恐怖政治を終わらせた「テルミドール9日のクーデター」

そしてその没落を示すように、式典から1か月後の7月27日、「テルミドール9日のクーデター」が勃発。

これによってロベスピエールら山岳派の主要メンバーはほぼ全員が逮捕。自らが政敵に行ってきたのと同様、彼らは裁判とも呼べない裁判にかけられた後、政敵たちと同様にギロチンにかけられてこの世を去ることになったのでした。

その後の恐怖政治

フランス革命後に恐怖政治を行った人物の代表格、ヨシフ・スターリン

こうしてロベスピエールが処刑され、フランス革命期の恐怖政治は終了しましたが、ここで生まれた「恐怖による統治体制」は、後に生まれる国家運営の中にも暗雲を生む事態となりました。

フランス革命後の恐怖政治は「秘密警察」「公安警察」などを執行者として行われ、フランス革命期のものよりも秘密裏に行われるようになった分、より悪質さが増したとも言えるでしょう。

このような、フランス革命期以後の恐怖政治家としては、ソビエト連邦を指揮したヨシフ・スターリンなどが代表格として挙げられます。

日本において恐怖政治を行ったとされる東条英機

また、日本においては東条英機が、憲兵を用いた恐怖政治体制を敷いたと指摘されることがあります。好意的な評価がありつつ、批判的な評価も根強い人物ですが、その批判の理由には、このような「恐怖政治家」の一面があることはほぼ確実でしょう。

「独裁者」として有名なアドルフ・ヒトラーだが、彼は「恐怖政治」を行ったかと言えば…?

また、アドルフ・ヒトラーなんかは「独裁者」としては有名であり、確かに彼の政治体制は恐怖政治に似た部分が散見されています。しかしヒトラーの政治体制は、当時のドイツ国民の期待に応えている部分も多く、厳密には「恐怖政治」とは言えないとされているのが現状です。

言葉のイメージからか混同されやすい「独裁」と「恐怖政治」ですが、この辺りはキチンと分けて考える必要があるでしょう。

恐怖政治に関わった者達

恐怖政治の象徴のように語られる処刑器具・ギロチンは、フランス革命期の多くの人物の血を吸った

フランス革命後の約1年程度の期間だけで、約4万人の命を奪った「恐怖政治」という政治体制。では、そんな革命期のフランスを指揮してきたのは、どのような人物たちだったのでしょうか。このトピックでは、それらの人物について簡単に紹介させていただきます。

マクシミリアン・ロベスピエール

フランス革命の中心人物であり、恐怖政治の元凶となった人物であるマクシミリアン・ロベスピエール

「恐怖政治」の元祖とも言うべき独裁者であり、フランス革命の中心人物として活躍した政治家です。ルソーに影響を受けた「民主主義」を唱え、無産労働者層を中心にカリスマ的な人気を誇った政治家でしたが、その急進的な政策や理想に邁進しすぎる姿勢から徐々に立場を悪くしていき、最終的には自らもギロチンにかけられてこの世を去ることになりました。

また、独裁者でありながら高潔な人物であったことも伝わり、フランス革命の是非も相まって、現在も評価が分かれる人物となっています。

ジャン=ポール・マラー

山岳派の中核だったマラーの死によって、ロベスピエールは更に権力を強めていった

ロベスピエールの盟友であり、山岳派の中核の一人だった人物です。革命初期には、過激な革命論を展開して民衆の支持を集め、革命後はロベスピエールと共に革命政府の中核となりましたが、患っていた皮膚病の療養中に、ジロンド派のシャルロット・コルデーによって暗殺され、この世を去ることになりました。

彼の死はロベスピエールによって神格化され、コルデーにとっては皮肉なことに、山岳派の勢力拡大に利用されることとなりました。

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト

ロベスピエールの右腕でもあったサン=ジュストは、「死の天使長」との異名も持つ

ロベスピエールの右腕と言われ、彼の政策の多くを手助けした人物です。頭が良く冷徹な人物であり、その美貌も相まって「革命の大天使」「死の天使長」というあだ名も残っています。

しかし彼もまた、ロベスピエールの没落と共に勢力を失っていき、最後はテルミドール9日のクーデターで捕らえられ、ロベスピエールと運命を共にすることになりました。

オーギュスタン・ロベスピエール

マクシミリアン・ロベスピエールの弟であり、政治家として兄を支え続けた人物です。兄に対しての敬意が強く、兄であるマクシミリアンが望む民主的な国づくりに向けて、彼と共に邁進しました。また、後のフランス皇帝であるナポレオン・ボナパルトを見出し、取り立てたことでも知られています。

テルミドール9日のクーデターにおいて、彼の逮捕状は上がっていなかったものの、彼は「兄が有罪ならば私も同罪だ」と叫んで自身の逮捕を要求。要求通りに逮捕された彼は、逮捕の翌日に兄とともにギロチンにかけられ、この世を去ることになりました。

フランス革命期の恐怖政治における主な犠牲者

フランス革命期を描いた絵画には、やはりギロチンによる処刑を描いたものが多い

それでは続いて、フランス革命期の恐怖政治の犠牲となった人物を、簡単に紹介していきましょう。

ルイ16世

フランス王家最後の王であるルイ16世の処刑によって、ジャコバン派の専横が始まってしまった

王国の最後の王であり、マリー・アントワネットの夫として知られる人物です。彼の処刑によってフランス王家は事実上崩壊し、これによってロベスピエールによる恐怖政治の幕が上がることとなります。

彼は国民の境遇や、先王の放漫財政による財政難に頭を悩ませる良き王だったようですが、革命への対応に失敗して捕らえられ、ロベスピエールらジャコバン派によって処刑されてこの世を去りました。

「マリー・アントワネットに支配される暗君」のイメージが強い彼ですが、現在では様々な観点から再評価が行われている人物でもあります。

マリー・アントワネット

フランス革命の象徴としても扱われる、マリー・アントワネット

おそらくフランス革命期において、最も有名な人物の一人でしょう。ルイ16世の王妃である美貌の人物であり、フランス国民が革命へと進む直接的な原因となった人物と言われています。

しかし現在では研究が進み、「良き母であり良き王妃だった」と評価されることも多く、その評価はあまり定まっていないのが現状です。

とはいえ、彼女の処刑によってフランス国民が沸き立ち、ロベスピエールの専横にますます拍車がかかったのは確実だと言え、そういった意味でも評価の難しい人物となっています。

ルイ17世

ルイ16世とマリー・アントワネットの子であるルイ17世は、おそらくフランス革命における最大の被害者である

16世とマリー・アントワネットの子であり、おそらくはフランス革命における最大の被害者とされる少年です。

彼は父母と共にタンプル塔に軟禁され、父の処刑後は、看守たちからの肉体的精神的を問わない暴力や、性的虐待を受けながら監禁生活を送り、最期には病によって衰弱死しました。生前に母の死を知ることはなく、彼の枕元には母へのメッセージが残されていたと言います。

彼に対して与えられた虐待は非常に惨たらしく、フランス革命の負の側面の象徴として、現在も語り継がれているようです。

シャルロット・コルデー

山岳派の中核であるジャン=ポール・マラーを暗殺したシャルロット・コルデーは、後に「暗殺の天使」という異名を得た

ロベスピエールらと敵対する、ジロンド派を支持する女性であり、良くも悪くもロベスピエールら山岳派に一撃を与えた女性として知られる人物です。最近では、ゲーム『Fate/Grand Order』でキャラクター化され、日本での知名度を高めました。

修道院に入っていた彼女は、あるとき突然パリに赴き、そこで皮膚病の療養中だったジャン=ポール・マラーを包丁で刺殺。そのままマラーの支持者に取り押さえられ、逮捕され尋問を受けた末にギロチンで処刑されました。

彼女の処刑時の、凛とした美しい姿は多くのファンを生んだらしく、一説では「彼女と同じギロチンで処刑されたい!」と願った刑死者もいたと記録されています。

マノン・ロラン夫人

平民出身でありながら、ジロンド派の中核だったとされるマノン・ロラン夫人

平民の出身でありながら、並外れた知性と教養によって「ジロンド派の中核」と謳われた女性です。夫であったジャン=マリー・ロランを半ば言いなりにしてジロンド派の実権を握り、フランス革命に尽力しますが、革命後にはロベスピエールらと決別。最終的にはとらえられ、失意の中で処刑されることとなりました。

彼女の遺したメモは時代を物語る資料としての価値が高く、現在も革命期のフランスを知る資料として重宝されています。

デュ・バリー夫人

恐怖政治の只中にあって、最も人間的な反応で処刑に臨んだのがデュ・バリー夫人だと言われる

恐怖政治の最中に革命派に囚われ、処刑された貴族の女性です。彼女が処刑された理由は、一説では「裕福な貴族だったから」だとされており、恐怖政治の闇の部分を象徴する事件となっています。

処刑に当たって、彼女は泣き叫んで民衆に慈悲を乞うたと記録されています。執行人だったシャルル=アンリ・サンソンとは、若いころに恋人関係にあったとも言われ、サンソンは彼女の処刑だけは手ずから執行できず、息子に断頭を任せたと言われています。

また、後にサンソンは彼女について「みんな彼女のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのに」と書き残しています。

アントワーヌ・ラヴォアジエ

デュ・バリー夫人と並び、恐怖政治の闇を象徴するのがラヴォアジエの処刑

科学者であり徴税官だった彼も、恐怖政治の最中にギロチンに消えた人物の一人です。彼の処刑は「共和国に科学者は不要である」という理由とも呼べない理由から行なわれ、彼の死もまた恐怖政治下の闇を象徴する出来事となっています。

また異説としては「ジャン=ポール・マラーからの逆恨み」によって処刑されたという説も存在しています。

ジョルジュ・ダントン

ジョルジュ・ダントンは「人情ある革命家」として、ロベスピエールと人気を二分したが…

ロベスピエール同様のジャコバン派に属する政治家であり、「ダントン派」と呼ばれる派閥を起こして恐怖政治の廃止を訴えた人物です。ロベスピエールとは、ルイ16世の処刑などを経て盟友関係にありましたが、恐怖政治家となった彼によって政権から排除され、最終的には逮捕、処刑されることとなりました。

処刑の直前に「俺の頭を後で民衆によく見せてやれ。これだけの頭は滅多にないぞ!」と叫ぶなど、豪胆な人物として知られ、彼の処刑はロベスピエールの没落の契機となったとも言われています。

番外人物:シャルル=アンリ・サンソン

処刑人として多くの人々を断頭したシャルル=アンリ・サンソンだが、実は革命としてはかなり複雑な立場にあり…

これまでに挙げた人物のほぼすべてを処刑したのが、このシャルル=アンリ・サンソンです。

そう書くと、「被害者ではなく加害者では?」と思われがちですが、彼は革命期において、非常に難しい立場に置かれていました。処刑人の家系だった彼は、思想としては王党派でしたが、業務としてフランス革命に巻き込まれ、最終的には忠誠を誓った王や無実の民などを処刑させられることになってしまっています。

一概に「被害者」とも「加害者」とも言い難い人物ですが、革命期のフランスの中でも、かなり難しい立場にあった人物なのは間違いありません。

フランス革命の後、恐怖政治を行った者たち

ヨシフ・スターリン

ソビエト連邦の指導者だったスターリンは、フランス革命以後の代表的な恐怖政治家として知られる

連邦の指導者として知られるスターリンは、フランス革命以降の代表的な恐怖政治家として知られています。少しでも意に沿わない言動をすれば、反革命とみなして粛清を行う苛烈な体制は「スターリニズム」「スターリン主義」と呼ばれ、現在も歴史の負の側面として語り継がれているようです。

朴正煕(パク・チョンヒ)

朴正煕は、韓国を貧困から救った人物ではあるが、その一方で恐怖政治を行なったとも言われ…

朴正煕は、韓国の高度経済成長である「漢江の奇跡」の立役者である政治家であり、多くの人々から今なお尊敬を集めている人物です。

しかしその一方で、自身の大統領任期を長期化させるために改憲を行ったり、民主主義者を弾圧したりという黒い噂も多く、批判的な意見として「恐怖政治を行った独裁者」と囁かれることもあります。

東条英機

軍人であり政治家として知られる東条英機もまた、「恐怖政治を行った」とされることがある

太平洋戦争期の軍指揮官として知られ、現在でも評価が二分されている東条英機もまた、「恐怖政治を行った」と言われる人物の一人です。彼は憲兵を用いて国民を監視し、反戦論者を投獄していたと語られることがあります。

東条による指揮があったかはともかく、反戦論者への弾圧があったことは事実であるため、この辺りは歴史研究が進まなければ評価を定められない部分でしょう。

恐怖政治に関するまとめ

歴史上における大事件の一つである「フランス革命」と、それに付随する形で起こった「恐怖政治」という忌むべき政治体制。多くの人々がギロチンによって命を落としたこの政治体制は、「明らかな悲劇」ではありますが、それだけで終わらせてはいけない事件でもあります。

研究が進み、様々な事柄が科学的に解明されてきている現代社会。それらの技術を使って「恐怖政治はなぜ起こってしまったのか」を考え、二度とこのような悲劇を生みださないように学ぶことこそが、現代に生きる我々が真に「歴史を学ぶ」ということなのではないでしょうか?

それでは、この記事におつきあいいただき誠にありがとうございました。筆者と同様、読んでくださった皆様も「恐怖政治」について今一度お考えいただければ幸いです。

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