恐怖政治とは?特徴や歴史、関わった人物をわかりやすく解説

「恐怖政治って、世界史では聞いたことがあるけど結局何なの?」
「恐怖政治と独裁って何が違うの?」

恐怖政治とは、読んで字のごとく「恐怖を用いた政治体制」と説明できる、フランス革命期から現在まで散発的に起こり続ける政治体制の一つです。革命期のフランスに端を発するこの政治体制は、現在で言う「テロリズム」の語源としても知られ、政治的な腐敗や停滞とはまた違った政治問題として、現在を生きる私たちも考えなくてはいけない事柄だと言えます。

しかしその一方で、「恐怖政治」って名前だけは聞いたことがあるけど…」「結局どういう政治だったわけ?」という認識の方も、実は少なくないところでしょう。ということでこの記事では、実は意外と知られていない「恐怖政治」について、ザックリとではありますが解説していきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

恐怖政治とは?

フランス革命期の恐怖政治を主導することになった「公安委員会」を描いた絵画

序文でも示した通り、「恐怖政治」とはそのまま読んで字のごとく「恐怖によって民衆を支配する政治体制」のことです。その手段としての”恐怖”には投獄や処刑などの(一応は)司法的な手段が一般的に用いられ、独裁体制などと結びつけられて語られることが多い政治体制だと言えるでしょう。

一般的にはフランス革命期にロベスピエールが中心となって行ったものが語られますが、実はこの恐怖政治は、フランス革命期以降も歴史上に度々出現する、人類の悪習となりつつある事件でもあるのです。

ということで、まずはフランス革命期の恐怖政治を振り返りつつ、その後に行われた恐怖政治についてもザックリではありますが解説していきましょう。

恐怖政治の歴史

フランスにて~恐怖政治の始まり~

フランス革命の中心人物であり、恐怖政治を行ったマクシミリアン・ロベスピエール

恐怖政治の始まりは、フランス革命が成立し、革命政府の中心にマクシミリアン・ロベスピエールらジャコバン派が立ったことから始まります。

王を廃する民主的な政治体制を掲げて、フランス王であるルイ16世を処刑したロベスピエールたち革命政府は、ルイ16世の処刑から約2か月後に革命裁判所を設置。これによって「上訴審のない、簡便かつ決定権の強い司法機関」が出来上がることになりました。

そしてそれと同時にロベスピエールは、公安委員会という革命政府の重要機関を発足。自身もその委員のイスに座ると、政府内部で自身に反発する”ジロンド派”の追い落としを開始するのです。

ジロンド派の黒幕と目された、マノン・ロラン夫人

巧みな演説や工作で人民を先導したロベスピエールら”山岳派”は、「ジロンド派の女王」と呼ばれたマノン・ロラン夫人を始めとするジロンド派議員の逮捕と処刑を敢行。これによってロベスピエールら”山岳派”は名実ともに革命政府の中心となり、いっそう独裁体制を強めていくことになりました。

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唸りをあげるギロチン~相次ぐ処刑~

シャルロット・コルデーらによるジロンド派の抵抗は続いたが、独裁の前に抵抗が意味をなすことはなかった

独裁が開始した後も、シャルロット・コルデーによる”山岳派の重鎮”ジャン=ポール・マラー暗殺など、ジロンド派による抵抗は続きました。しかし山岳派は、これらに対して大規模な粛清と弾圧を展開。結果として多くの人々がギロチンに消え、あるいは獄中で無念の死を遂げることとなりました。

その後もロベスピエールらは、公安委員会の権力を強めつつ、無産労働者層の支持を基盤として勢力を拡大。苛烈な恐怖政治を行いながらも、その独裁体制はあくまで一定の支持を受けて続けられていきました。

ルイ16世の妃、マリー・アントワネットの処刑は、フランス革命や恐怖政治の象徴として語られる大事件

そして恐怖政治による弾圧と統制が強まる中、1793年10月16日には、フランス王妃であったマリー・アントワネットの処刑が敢行。それに次いで捕らえられたジロンド派議員たちの処刑も執行され、多くの人間がギロチンによって機械的に首を落とされ、コンコルド広場で非業の死を遂げました。

その後、革命政府はタガが外れたように多くの人物を処刑。処刑の理由についても徐々に錯綜していき、「金持ちだったから」「役に立たない研究をしている学者だったから」などというとんでもない理由での処刑もあったのだと言います。それに合わせて革命裁判所の裁判手続きも簡略化されていき、処刑された人々の数は右肩上がりに上昇していくこととなりました。

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