森鴎外の功績
功績1「翻訳作品を通し、日本人に海外を紹介した鴎外」
鴎外はドイツへの留学経験で培った語学力を生かして、数多くの外国文学の作品を翻訳しました。「ファウスト」などのゲーテの作品、日本では童話作家として有名なアンデルセンの長編小説「即興詩人」を翻訳したのは鴎外です。また文学作品だけでなく、オペラの翻訳まで行いました。
鴎外の生きた時代、外国からの情報は今とは比べ物にならないほど少なかったため、鴎外の作品によって外国の文化に触れた人も多かったことでしょう。
功績2「鴎外の確かな目!才能ある女性作家をいち早く見出した」
鴎外は閉鎖的な人間関係を好みませんでした。その証拠に弟子を取ることはせず、文壇で党派も作らなかったといいます。
このような人間性から、明治の男性としては女性に対する偏見はなく、かなり早い時期から才能ある女性作家を見出しました。
樋口一葉や与謝野晶子、平塚らいてうなどは鴎外が早くから評価をしていただけではなく、交際もしていたそうです。与謝野晶子が出産したときには、子どもたちの名付け親にもなっています。
功績3「医学者としての鴎外!蔓延していた脚気に対抗 」
軍医として鴎外が取り組んだのは脚気対策です。脚気はビタミンの欠乏によって起こり、軽度なら脚がしびれる程度ですが、重度になると心臓の機能が低下して死に結びつきます。
当時、脚気は伝染病と考える人もいたため、鴎外は真実を明らかにするために臨時脚気病調査会を創設しました。鴎外はあくまでも軍医であり、脚気研究のスペシャリストではなかったため、専門家の意見を取り入れようとしたのでしょう。
しかしこの調査会が脚気とビタミン研究の基礎を作ったとも考えられます。
森鴎外の名言
鴎外が残した下記の遺言は現代では名言としても語り継がれています。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス。(中略)宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ。」
(私は石見に生まれた森林太郎として死にたい。宮内庁や陸軍に縁を持つが、死に際しては公に関わる者としての取り扱いを辞退したい。墓は森林太郎と掘るだけにして欲しい。勲章や位階などの授与は絶対やめて欲しい。)
つまり鴎外は死に際して、自分は陸軍や宮内庁に関わる公人ではなく、石見国に生まれた森林太郎という一個人でありたいという願望を率直に述べたのでした。
国家の中枢に近い公人でありながら作家として生きることの分裂や矛盾に苦しんだ人生を振り返り、1人の人間としての森林太郎に立ち戻ることを選んだのです。
森鴎外にまつわる逸話
逸話1「潔癖症の先駆け?独特の衛生観念を持っていた鴎外」
森鴎外にはかなり徹底した衛生観念があったようです。
いっさい生のものを食べなかったのは、後年鴎外の長女で小説家の森茉莉が何度もエッセイの中で書いていたほどです。また、トイレの扉も紙で拭いてからでないと触ってはいけないという徹底ぶりでした(拭いた紙は焼却処分でした)。
鴎外はドイツでの留学中、コッホの研究所でコレラ菌、チフス菌などを実際に見たことで、潔癖症と言われるほど除菌を徹底するようになったそうです。それだけではなく、自分の病気(肺結核)を子どもたちに感染させない配慮があったともいわれています。
逸話2「先を見据え子供に名を授けた鴎外」
森鴎外は父・静泰と母・峰子の間に生まれた長男です。3人兄弟で、下に弟と妹がいます。弟の篤次郎は劇評家で医者の三木竹二、妹は翻訳家で小説家の小金井喜美子です。
小金井喜美子の孫の1人はSF作家の星新一です。小学生のころ、星新一のショートショートに衝撃を受けたという人も多いのではないでしょうか。
そして鴎外は2度の結婚で5人の子どもたちに恵まれました。この子どもたちは当時としてはかなり変わった名前を付けられます。
長男は於菟(おと)、長女は茉莉(まり)、そして不律(ふりつ)、杏奴(あんぬ)、類(るい)と続きました。これは今で言うキラキラネームではなく、外国でもきちんと発音してもらえるようにと考えられた名前です。
鴎外は自分が留学したとき、本名の林太郎をきちんと発音してもらえなかったため、このような名前を考えたと思われます。すべて外国に存在する名前に漢字を当ててあるため、いかにも世界で活躍できそうな雰囲気がありますね。
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逸話3「大正には反対だった?元号の研究を始めた鴎外」
明治の次の元号・大正に鴎外が反対したという話が残っています。1912年7月28日に明治天皇は危篤状態に陥りますが、30日には皇太子が新天皇となり、元号が大正に決まります。
ときの首相がこの2日間に2度も元号をボツにしたうえで決まったのが「大正」でした。しかし鴎外によれば、大正はベトナムの元号として使われていました。鴎外はもっとよく調べてから決めるべきだと言いたかったのでしょう。
このことをきっかけに鴎外は漢学者の吉田増蔵を招き、元号の研究を行うようになりました。この吉田増蔵が後にもっとも長く続く元号・昭和を提案することになります。
森鴎外の簡単年表
森鴎外は文久2年(1862年)、石見国津和野に生まれました。時は幕末。この年は坂下門外の変が起きた動乱期です。鴎外は6歳で明治維新を迎え、明治5年(1872年)10歳で上京し、その後の人生を東京で送ることになります。
上京した鴎外は、まだ12歳だったため、年齢を2歳偽って東京医学校予科に入学します。誕生を1860年と偽り、これ以降公には1860年生まれで通すことになりました。
15歳で東京大学医学部に入学します。東京開成学校と東京医学校が合併したこの年「東京大学」が設立されました。鴎外はその第一期生になりました。
東京大学医学部を卒業し、のちに医学博士だけでなく文学博士も取得します。大学卒業後は陸軍軍医副として東京陸軍病院課僚を命ぜられます。
ドイツ留学の命を受け、衛生学の研究と陸軍医事の調査を目的に官費留学します。ドイツでは専門分野の研究だけでなく広く西洋の文物に触れ多くを吸収しました。
「舞姫」で小説家デビューを果たします。ドイツ3部作と呼ばれる「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」は西洋的なエキゾティズムを日本の伝統的な雅文体で表現したロマン主義の香り高い作品です。
またこの頃、西洋の詩を翻訳した訳詩集「於母影」を発表し、その後の日本の新体詩に大きな影響を与えます。その一方で、「戦闘的啓蒙」と評される旺盛な文学評論・批評活動も展開しました。
8月日清戦争が勃発し、鴎外は、中路兵站(物資供給などの後方支援)医部長として韓国へ、10月には第2軍兵站軍医部長として中国に転戦しています。
日清戦争から凱旋した鴎外は、33歳で陸軍軍医学校長と陸軍大学教官を兼任します。その後、陸軍一等軍医正となり37歳で陸軍軍医監督に任ぜられますが、小倉第 12師団軍医部長を命じられ、小倉での左遷生活が始まります。
鴎外は27歳の時に結婚し、長男於菟(おと)をもうけていますが、結婚生活は長く続きませんでした。40歳のこの年、鴎外は18歳年下の荒木志げと再婚しました。
この年の2月、日露戦争が始まりました。鴎外は第2軍軍医部長となり、満州を転戦し、度々激戦に遭遇しています。陣中にあっても鴎外は、詩や短歌・俳句などの形で、日本兵の壮烈な戦いへの感動を表現し続けていました。これは後に「うた日記」として上梓されました。
前年の3月、日本軍が奉天戦で勝利し、鴎外は残留のロシア赤十字社員を戦場から後送することに尽力しました。5月にはポーツマス条約が結ばれ、日露戦争は終結します。東京に凱旋した鴎外は、第1師団軍医部長として東京に戻ります。
鴎外が再び旺盛な小説執筆を再開したのは、明治42年47歳の時でした。前期の雅文体を駆使したロマンチシズム的作風とは異なり、言文一致の文体を駆使した写実的な作品を多く手がけます。
45歳のとき軍医としてのキャリアの頂点「陸軍軍医総監」になります。また医事に関しては当時大問題になっていた脚気の改善策に積極的に取り組みました。
明治45年明治天皇が崩御し、時代は大正になりました。明治天皇の崩御とその後を追った乃木希典の殉死をきっかけに、鴎外の作風は再び大きく転換します。「興津弥五右衛門の遺書」(明治45年/大正元年)を皮切りに「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」など、多くの歴史小説を執筆します。
鴎外は54歳で陸軍を退官し、予備役に編入されます。また、この頃から鴎外の作風は再び変化します。歴史をどのように描くべきか追求した結果たどり着いた境地、「史伝」と呼ばれる独自のスタイルを作り上げました。
この年、帝室博物館(現在の東京国立博物館の前身)総長に任ぜられます。また### 宮内省の一部局として置かれた図書寮の長である図書頭(ずしょのかみ)を兼務しました。
日本芸術院の前身である帝国美術院の初代院長に就任しました。帝国芸術院は、文部大臣の管理下にあり美術に関する諮問や建議を行う機関で、帝展(今の日展)を主催しました。
国語調査会は、国語に関する事柄を調査するために設置された機関で、現在の国語審議会の前身です。鴎外は常用漢字や仮名遣い改定案、自体整理案などを発表しました。
萎縮腎・肺結核の進行により7月9日午前7時死去。60歳でした。死の直前の7日には天皇皇后より葡萄酒を下賜、8日摂政官より見舞品を下賜、従二位に叙せられました。法号は「貞献院殿文穆思斉大居士」、墓標には鴎外の遺志で「森林太郎墓」とだけ彫られました。
[…] レキシル[Rekisiru]森鴎外とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、名言、本名も紹介】https://rekisiru.com/780森鴎外(もり おうがい)は明治時代に活躍した小説家です。夏目漱石と […]
ヰタ・セクスアリスって有名だと思ってたんですけど、どうなんですかね?
感動しましたありがとうございました
鷗外の創作については、
『歴史其儘と歴史離れ』といった随筆や小論など
個々の作品と関連付けることで、単なる文学の枠を超えた読み方がある。
『妄想』などで言及された、ある意味での文明論や、
知識人としての提起は、今の日本においても課題であり続けている。
また、とかくナウマン論争が「語学堪能な」鷗外の武勇伝として
紹介されることは多い。だが、当時のドイツ新聞紙上における論争、
つまり議論としての実体において、
列強国からの、黄色人種へのいくらかの蔑視は鼻持ちならないとしても、
しかし、現代日本人にとって、当時の新興国であった日本の空回りを指摘する
ナウマンの批評自体は、むしろ、当を得たものと映るのではないか。
個人的には、ナウマンが本旨とした論点への
”鷗外の批判は的を外している”との指摘はもっともだろう。
明治の文豪や思想小説については、文学史だけでなく
時代背景や、当時の思想史的潮流なども参考にした記述への目配りが欠かせない。
ご存じでなければ、
『日本文学史序説』加藤周一(ちくま学芸文庫)なども参考にしてほしい。