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森鴎外とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作風、名言について紹介】

森鴎外(もり おうがい)は明治時代に活躍した小説家です。日本近代文学の出発を告げた作品の1つといわれる『舞姫』、現実を冷静な目で見つめる『青年』『雁』、そして歴史小説の『山椒大夫』など、名作を挙げればきりがありません。夏目漱石と並んで「日本近代文学の巨塔」といわれています。

また、鴎外は陸軍に軍医として勤務する官僚でもありました。軍医として日清戦争に従軍し、40代で陸軍軍医総監となっています。小説家としても精力的に執筆しながら、官僚としても高い地位に上り詰めたエリートでした。

森鴎外

森鴎外の弟・木下杢太郎は、鴎外を「百門の大都」にたとえました。つまり100の門をもつ都市のように幅広く、どの門から入ってもそれぞれが奥深い「知の巨人」であるというのです。そうした文豪・森鴎外を知ることは、文学という枠を超え、近代日本という国家や文化を考えることにもつながります。

この記事では、そんな鴎外の魅力に撃たれて全集を買い、隅から隅まで読み尽くした私が鴎外の生涯や作品をご紹介します。

森鴎外とはどんな人物か

名前森鴎外(本名:森 林太郎)
誕生日1862年2月17日
没日1922年7月9日(60歳)
生地石見国津和野町田村
(現・島根県津和野町町田)
職業小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚
配偶者登志子(1889年 - 1890年)
志げ(1902年 - 1922年)
子供於菟(長男)
茉莉(長女)
杏奴(次女)
不律(二男)
類(三男)

「知の巨人」森鴎外の生涯をハイライト

1916年・54歳ごろの森鴎外

森鴎外は1862年、現在の島根県津和野町で漢方医の父のもとに長男として生まれました。優秀だった鴎外は15歳で現在の東京大学医学部に入学、19歳で卒業し、陸軍の軍医となります。

そして、22歳で国から留学を命じられ、ドイツで当時最先端だった医学を学びます。ドイツでは医学を学ぶだけではなく、華やかな社交界やヨーロッパの芸術に触れました。このドイツでの経験が「舞姫」という名作を生み出し、鴎外は小説家として活動を始めます。

ドイツから帰国後は日清・日露戦争に軍医として同行しました。この間2度の結婚を経験、私生活は落ち着き、戦争により中断していた小説家としての生活が再び始まります。

森鴎外

45歳のときには、軍医としての最高の地位「陸軍軍医総監」に就任して、当時の陸軍を悩ませていた脚気(かっけ)問題にも取り組みます。小説も日本の伝統的な文体を使ったロマン主義的な作品よりも、言文一致体の写実的な作品が増えていきます。これが後に歴史小説へと発展しました。

54歳で陸軍を退官した後は、帝室博物館総長、帝国美術院初代院長、臨時国語調査会会長などを務めましたが、1922年に腎萎縮、肺結核のために惜しまれつつ亡くなりました。

スーパーエリートな森鴎外

現在の東京大学医学部

森鴎外は5歳で論語、6歳で孟子を読み、10歳からはドイツ語の学習も始めました。14歳で漢学者として有名な依田学海(よだ がっかい)から漢文の添削を受けるなど、学究心旺盛な秀才でした。

1871年の廃藩置県後、鴎外は父とともに津和野から上京します。東京医学校予科に入学したかったのですが、年齢不足で受験できないと知ると、年齢を2歳偽って受験、実年齢12歳で合格しました。その後も公的には実年齢よりも2つ上で通しています。

東京医学校は、のちの東京大学医学部です。予科に12歳で合格した鴎外は15歳で東京大学医学部の本科生になり、19歳で卒業します。

22歳でドイツ留学へ

鴎外が留学したドイツ

東京大学卒業後、鴎外は陸軍の軍医になりますが、明治17年22歳のときにドイツ留学を命じられます。ドイツの衛生学の研究と陸軍医事の調査が目的でした。

近代国家として産声をあげて間もない当時の日本は、国家を担う人材を先進諸国に留学させていました。国家から国の将来を託されての留学だったため、出発前に明治天皇に拝謁するという輝かしい船出でした。ドイツに向かう道中記「航西日記」には、前途洋々とした若き鴎外の気持ちがにじみ出ています。

ドイツではコッホやぺッテンコーファーなど名だたる学者から医学を学ぶとともに、社交界での華やかな生活を経験したり、ヨーロッパの芸術に直接触れたりして多くのことを吸収しました。これが後の文学活動に大きな影響を与えます。

決して考えは曲げない!坪内逍遥ともとことん論争

1891年、「小説神髄」で有名な坪内逍遥と鴎外の意見が対立し「没理想論争」へと発展しました。2人は小説を書くときに、もっとも大切にするべきことについて意見を戦わせたのです。

坪内逍遥はものごとや現象を客観的に書くことこそ小説に必要だと主張しました。だから小説に勧善懲悪などの理念を取り入れると、せっかく客観的に描いたものごとの邪魔をすると考えたようです。

これに対して鴎外は、小説には心の内にある理想や理念を描くべきだと主張しました。しかし、小説の中に人間が登場する以上、人間の心の中とその周りで起こる物事のどちらも描くことが必要になります。つまりどちらが間違いなのかを決めるのはとても難しいことなのだ、と主張しました。

論争は長引き、鴎外のしつこさに坪内逍遥が嫌になったのか、1892年に鴎外に反論することなく論争を打ち切りました。どんなことでもとことんやるのが鴎外の神髄だったのです。

エリートだった鴎外が味わった2度の挫折

2度の大きな挫折を味わった

陸軍軍医のトップである軍医総監まで上り詰め、従二位・勲一等・功三級の位階と勲章を受勲し、晩年は帝室博物館総長、帝国美術院(今の日本芸術院)初代院長なども歴任という、誰が見てもエリートの道を歩んだ鴎外ですが、2度の大きな挫折をしています。

1度目は大学卒業直後です。鴎外は希望の進路に進むことができませんでした。それを悲しみ、漢方医の父親が経営する病院を手伝いながら、鬱屈とした日々を送っていました。その後陸軍に入りますが、決して第1志望の就職先ではなかったのです。

また陸軍では、37歳の時に東京から小倉第12師団に左遷されてしまいます。この頃にはすでに「舞姫」をはじめ初期3部作を発表し、文壇では「戦闘的」と評されるほど盛んな評論活動を行っていました。慶應義塾大学の審美学講師や東京美術学校の講師も務め、官僚としても文学者としても鴎外は上り調子でした。

そのタイミングの左遷による挫折感は、鴎外の文筆活動や思想に大きな影響を与えることになりました。

官僚であり小説家!森鴎外の葛藤・矛盾

官僚でありながら小説家でもあった鴎外

森鴎外は明治国家に使える高級官僚でありながら、小説家としての人生を歩みました。そのため国家と個人・体制と反体制の狭間で、その矛盾に苦悩します。

体制を安定させようとしていた明治国家は、反国家思想につながることを危惧して、社会主義者への弾圧を強めました。文学者や思想家の自由な発言に制限がかけられてしまったのです。

鴎外を「体制イデオローグ」と呼んで非難した批評家もいますが、明治43年の鴎外は、体制側の重要ポストにありながら、国家の言論弾圧に対するアンチテーゼをテーマにした創作を数多く行っています。

個人主義・社会主義と無政府主義を同じものとする体制の見方を正し、過度の弾圧に警告を発しました。鴎外は国家体制を担う官僚でありながら、国家権力を客観的に見る視点を持ち続けたのです。

積極的に子育てをした鴎外!子どもたちが伝えた父の姿

父と子の絆

1908年、鴎外と2度目の妻・志げとの間の子ども、茉莉(まり)と不律(ふりつ)が百日咳に感染します。不律は亡くなり、茉莉の命も時間の問題と言われ、鴎外と志げは安楽死をさせようかと迷うほど追い詰められました。

この経験から、明治という時代には珍しいほど、鴎外は子どもたちの個性を大切にして、スキンシップも欠かしませんでした。後に小説家として活躍する長女の茉莉だけでなく、妹の杏奴(あんぬ)も子どもたちへの愛情あふれる鴎外についてのエッセイを書き残しています。

鴎外は日本を代表する作家であるとともに、偉大な父親としても名前を残すことになりました。

死因は「肺結核」

60歳のときに亡くなる

1922年7月9日の午前7時を過ぎたころ、森鴎外は60歳で亡くなりました。60歳というと今でこそ「まだ若くで亡くなったんだな」と思いますが、明治・大正期の男性の平均寿命は43歳なので、鴎外はだいぶ長生きです同じ時代を生きていた文豪・夏目漱石が49歳で亡くなっていることからもうかがえます。

鴎外の死因は肺結核だったといわれています。核菌という細菌が肺で増殖することから起こる病気です。現在では薬で治すことができる病気ですが、大正時代には不治の病とされていました。

森鴎外の死因は?実は「公的な死因」がある?遺言やお墓についても解説
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1 COMMENT

アバター 注文の多い鷗外ファン

鷗外の創作については、
『歴史其儘と歴史離れ』といった随筆や小論など
個々の作品と関連付けることで、単なる文学の枠を超えた読み方がある。
『妄想』などで言及された、ある意味での文明論や、
知識人としての提起は、今の日本においても課題であり続けている。

また、とかくナウマン論争が「語学堪能な」鷗外の武勇伝として
紹介されることは多い。だが、当時のドイツ新聞紙上における論争、
つまり議論としての実体において、
列強国からの、黄色人種へのいくらかの蔑視は鼻持ちならないとしても、
しかし、現代日本人にとって、当時の新興国であった日本の空回りを指摘する
ナウマンの批評自体は、むしろ、当を得たものと映るのではないか。

個人的には、ナウマンが本旨とした論点への
”鷗外の批判は的を外している”との指摘はもっともだろう。

明治の文豪や思想小説については、文学史だけでなく
時代背景や、当時の思想史的潮流なども参考にした記述への目配りが欠かせない。
ご存じでなければ、
『日本文学史序説』加藤周一(ちくま学芸文庫)なども参考にしてほしい。

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