森鴎外とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、名言、本名も紹介】

森鴎外の生涯年表

1862年 – 0歳「誕生」

津和野の街並み

石見国に生まれる

森鴎外は1862年(文久2年)に石見国(元・島根県)津和野町に生まれます。明治維新の6年前のことです。本名は林太郎、姓は源(みなもと)、諱(いみな:親や主君から呼ばれる名前)は高湛(たかやす)。

父は津和野藩の典医でした。典医は藩主と身近に接する立場であり、医師でありながら武士に準ずる身分でした。そのため幼少期の鴎外は、武士としての精神を養われています。

鴎外の自伝小説「妄想」には「小さい時ふた親が、侍の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭したことを思ひ出す。」という記述もあります。武家の精神風土の中で育ったことをよく表すエピソードです。

森家は代々典医を務めていましたが、鴎外の祖父と父は婿養子だったので、林太郎は待望の継嗣でした。

林太郎には、篤次郎、喜美子、順三郎という弟と妹がいます。篤次郎は、劇評家(ペンネーム:三木竹二)として活躍。喜美子は、歌人・翻訳家・随筆家(ペンネーム:小金井喜美子)として活躍し、順三郎は書誌学者となりました。研究者や文学関係者が多い血筋です。

1872年 – 10歳「立身出世の道」

鴎外の父・静雄

故郷を捨てて東京へ

明治5(1872)年、鴎外が10歳のとき、父・静雄とともに上京します。明治維新によって起こる国家システムの変化にいち早く対応し、日本の中枢で出世の道を切り開くための上京でした。

そのため鴎外は、まず神田にある西周(にし あまね:同郷の先輩。啓蒙思想家・官僚として有名)の元に寄宿して、現在の予備校のような教育機関であった進文学社でドイツ語を学びました。そして12歳で年齢を2つ偽って東京医学校予科に入学、明治10年には15歳で東京大学医学部本科1回生として入学し、19歳で卒業します。

鴎外が東京大学医学部に入学し、近代の新システムの中で立身出世の道を歩み始めた明治10年は、西南戦争が起きた年です。西南戦争は西郷隆盛を中心にした士族による反乱でした。中央政府による新国家体制への移行に不満を持つ士族の反乱が続くなか、鴎外は新しい時代に順応すべく歩み始めた若者の1人だったのです。

立身出世というキーワードのもと、西洋列強と並ぶ近代的国家にふさわしい人材を育成することが急務だった時代に、鴎外も近代医学を武器に立身出世の道を歩み始めるのでした。

卒業・就職浪人

大学本科卒業時の成績はトップ10入りを果たしました。年齢が周囲より低いことや、卒業試験前に下宿先が火事にあい、テキストや大切なノートを焼失するという不運の中でのトップ10入りです。大変素晴らしい成績なのですが、鴎外自身は研究室でのポジションを得るための順位に達することができず、研究職に就けなかったことに挫折感を覚えました。

しばらくの間、父・静雄が経営する漢方医院を手伝いながら鬱屈した日々を送ることになりました。

就職

同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)の推薦や親友の賀古鶴所(かこ つるんど)の勧めがあり、鴎外は陸軍省に入り陸軍軍医副(中尉に相当)として、東京陸軍病院に勤務を始めました。

1882年には陸軍軍医本部課僚となり、プロシア陸軍衛生制度の調査に従事し、翌年「医政全書稿本」(全12巻)を編集しています。

1884年 – 22歳「国家の将来を背負ってドイツに留学」

ドイツ留学のころの森鴎外
(提供:日本近代文学館)

意気揚々とドイツ留学

1884年(明治17年)、鴎外は陸軍からドイツ留学の命を受け7月横浜を出航、10月ベルリンに到着します。

国家の近代化を推し進めるために、欧米諸国に優秀な人材を派遣していた時代でした。鴎外も近代国家としてスタートしたばかりの日本の将来を担う人材として、ドイツに派遣されたのです。先進国ドイツに、国家に期待の人材として向かう意気揚々とした思いを鴎外は「航西日記」(明治22年発表)に記しています。

ドイツでの活躍

ドイツではまずライプチッヒ大学のホフマン教授に師事します。翌年一等軍医に昇進し、ドイツ軍の秋季演習に参加したり、ドレスデンで軍医学講習会に参加するかたわら、「日本兵食論」などの論文執筆にも取り掛かっています。1887年にはベルリン大学のコッホ教授の衛生試験所に入り研究を行いました。

また、明治政府に招かれて東京帝国大学・地質学教室の初代教授に就任した地質学者のナウマンと日本について対等に論争できるほど、堪能なドイツ語と博学ぶりも覗かせたというエピソードもありました。

一方、鴎外がドイツ時代を題材にして書いた短編小説「大発見」にはこんな場面があります。主人公が研究室での実験中、液体の中に落としたものを取り出すために、2本のガラス棒で箸のようにつまんで取り出したら、ドイツ人研究者から「野蛮人というのは妙なものだと」面白がられ、見世物になったと憤慨します。

今のように情報が迅速ではない時代、西洋人にとっても東洋人にとっても互いの文化に対するカルチャーショックは大きかったはずです。島国の中で育ってきた青年が、いきなり西洋の生活・文化に放り込まれたのですから、驚きや戸惑いは多かったはずです。また差別的な眼差しで見られることもあったでしょう。

ドイツで小説のエッセンスや素材を手に入れる

1886年、ドイツ滞在も3年目になると、ドレスデン王宮の舞踏会に招かれたり、華やかな場にもたびたび出席しています。オペラ劇場にも通い、特にワーグナーの作品を好みました。「再び劇を論じて世の評家に答ふ」の中で鴎外は「余の西欧にあるや、楽劇の場に入ること数十回」と述べています。

ちなみにシンフォニーを交響體(ジムフォニイ)と訳したのは鴎外です。この時代の日本人で、オペラを生で観ることができた人は、そうそういません。こういった経験は、後年の鴎外の創作活動に多大な影響を与えたことでしょう。

「舞姫」のヒロインにもなったドイツ人女性とのスキャンダル

留学中にドイツ人女性と恋愛していた

ドイツ留学から帰国した直後の明治21年9月12日、鴎外の後を追ってドイツ人女性が来日します。ドイツ3部作のひとつ「舞姫」のヒロイン「エリス」のモデルとなった女性だと考えられています。

「舞姫」は日本人の官費留学生・太田豊太郎と踊り子エリスの悲恋を描く小説です。主人公豊太郎は、外国の自由な雰囲気の中でエリスと出会い、愛し合うようになります。

しかし豊太郎の身を案ずる親友の策略により、豊太郎とエリスの関係は裂かれ、妊娠中だったエリスは豊太郎との別れの悲しみで発狂します。そのエリスをドイツに残し豊太郎は日本に帰国するというストーリーです。

もちろん全て事実に基づくわけではありません。現実のドイツ人女性はお金目当ての来日だったという説もあります。

しかし、陸軍における公人としての立場がある鴎外です。森家や陸軍にとってこの女性の来日は、見逃すことができないスキャンダラスな事件でした。鴎外を追ってきたドイツ人女性は、鴎外の妹婿・小金井良精を森家代表の交渉人に立て、良精の説得で10月17日に帰国しました。

1890年 – 28歳「小説家としてデビューする」

文豪「森鴎外」の誕生

文学活動・戦闘的な評論活動の開始

ドイツから帰国した鴎外は「小説論(1889年)」という評論で文学活動の第1声をあげると、活発な論争を繰り広げます。また、「東京医事新誌」の主筆として医事においても旺盛な批評活動を行います。そのためこの時期は鴎外は「戦闘的啓蒙」の時代と呼ばれています。

文壇でのポジションを作る

1889年には、翻訳詩集『於母影(おもかげ)』を発表しました。その後、弟の三木竹二らとともに評論中心の雑誌『しがらみ草紙』を創刊しました。

自分の発表媒体をもった鴎外は、「しがらみ草紙の本領を論ず」「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」「早稲田文学の没理想」など、文学に関わる論評活動を旺盛に行い、文壇でのポジションを固めていったのでした。

結婚

文壇に躍り出たこの年、鴎外は海軍中将の男爵赤松則良の長女・登志子と結婚し、赤松家の持ち家に移り住みました。翌年9月には長男於菟(おと)が生まれますが、10月に鴎外は赤松家を出て、登志子と離婚しました。

ドイツ3部作の執筆

1890年、雑誌「国民之友」に鴎外初の小説「舞姫」を発表します。「舞姫」は鴎外のドイツ留学に題材を得た小説です。同じくドイツを舞台にした「うたかたの記」「文づかひ」とともに、ドイツ3部作と呼ばれています。

「舞姫」は、恋人と生きる個人の幸せより、国家に有用な人間として生きることを選択する主人公の苦悩をテーマに、主人公自身がが帰国の船中において回想形式で語るという、当時では極めて新鮮なスタイルの小説でした。ロマンチシズム小説として、近代文学史の上でも重要な位置を占めています。

鴎外のドイツ3部作の魅力を高めているのは、鴎外が操る美しい雅文体(伝統的な和文脈)でした。鴎外のドイツ3部作は、日本の伝統に連なる高雅な文体で、ロマンあふれるヨーロッパ的世界観を表現したのでした。

1894年 – 32歳「日清戦争勃発」

日清戦争

従軍

1894年8月、日清戦争が勃発します。鴎外も軍医部長として従軍し韓国・中国を転戦しました。翌年4月には陸軍軍医監に昇進、5月に台湾総督府陸軍医局軍医部長として台湾に行き、10月に凱旋します。

凱旋後の公人としての活躍

日清戦争凱旋後、33歳の鴎外は陸軍軍医学校長となり、翌年には陸軍大学教官もかねます。35歳で陸軍一等軍医正となり、36歳で近衛師団軍医部長と軍医学校長を兼職するようになります。

凱旋後の文学活動

公人として脂が乗ってきた鴎外ですが、1892年30歳のときに慶應大学の審美学講師を行い、文学者・芸術家としての活躍も目立ちます。1892年11月からアンデルセンの「即興詩人」の翻訳の連載を開始、1896年に雑誌「めさまし草」を創刊、ここでは盛んな批評活動を展開します。

1899年 – 37歳「左遷」

小倉赴任時の鴎外

小倉左遷

この年6月、鴎外は陸軍軍医監を任じられて、小倉第12師団軍医部長を命じられ、東京美術学校、慶應大学での講師を辞めて小倉に赴任します。第1師団(東京)から第12師団(北部九州)への配置換えでした。鴎外は母への手紙に「左遷なり」と記しています。

小倉での人間関係・活動

小倉赴任中、鴎外は40歳で2番めの妻として大審院判事荒木博臣の長女・志げを迎えます。志げは鴎外より18歳年下の23歳で、美人の評判が高い女性でした。鴎外も友人に「少々美術品らしき」美しい妻を娶ったと報告しています。

また小倉では、鴎外にとって大切な親友となる安国寺の玉水俊虠(たまみず しゅんこ)との交際が始まります。鴎外は俊虠から禅宗の唯識論を学び、代わりにドイツ語を教えました。

「小倉日記」によれば、鴎外は軍医としての任務のかたわら新しい赴任地の歴史や文化に興味を持ち、豊前地方の伝説や人物に関して探究した内容をしばしば地元新聞に寄稿しています。

また小倉では、師団の将校のために講じた軍事戦略に関するクラウゼヴィッツの著書「戦論」の翻訳を刊行しました。文学者としては、上田敏らと雑誌「万年艸(まんねんぐさ)」を創刊しています。

1904年 – 42歳「日露戦争従軍」

日露戦争

従軍

1904年鴎外42歳の時、日露戦争が始まります。4月、鴎外も第2軍軍医部長として従軍しました。

日露戦争開戦に対する世論と鴎外の反応

日露戦争の開戦にあたっては、政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が繰り広げられ、世論も開戦か回避かを巡って意見が分かれました。

鴎外の著書に「人種哲学梗槩」(1893年)「黄禍論梗概」(1894年)があります。この中で鴎外は、白人の黄色人種に対する軽蔑を批判し、ロシアの旅大(大連)の租借を侵略として「人道に逆らい、国際法を破ること、ほとんど人の意料の外に出る」と批判しています。日露開戦の是非について明言はありませんが、反・ロシアの立場にあったことはこれらの著書から読み取ることができます。

脚気問題

鴎外が属する陸軍は日露戦争で多くの死者を出しましたが、脚気による病死者も多く含まれていました。脚気はビタミンB1の不足で生じます。ビタミンの存在が解明されていなかった当時、軍人の脚気は大きな問題でした。

衛生学の専門家として、鴎外は兵食に白米を推進の立場をとっていました。けれども実は、ビタミンB1を含む麦飯推進派の考えの方が正しかったことが後年の研究で明らかになります。鴎外にとって日露戦争は、兵士の脚気を防ぐことができなかったという、衛生学者としての大きなテーマを残す戦いとなりました。

鴎外は凱旋後の1908年に専門学者を集めて臨時脚気病調査会を設置し、陸軍大臣の監督する国家機関として、多額の陸軍費がつぎ込まれたました。しかし脚気の原因が解明されたのは鴎外の死後のことです。

ロシアの赤十字社員の後送に尽力

鴎外は、奉天戦で日本が勝利した後、残留していたロシア赤十字社員の後送(前線から後方に送ること)に尽力しました。鴎外が全権を執ってこの後送にあたりました。この残留ロシア人の後送は山田弘倫の「軍医森鴎外」(昭和18)によれば、軍の意向に反するものでしたが、鴎外は条約通りに医師や看護師を後方に帰しました。

1907年 – 45歳「日露戦争後の文学者としての活躍」

『青年』初版本

軍医としての最高のポストに就任

日露戦争から凱旋した鴎外は、軍医官の最高位である軍医総監(中将相当)になり、陸軍省医務局長に補せられました。45歳の鴎外は、軍医としての頂点に登りつめたのです。

現代の言葉の基盤を作る仕事を行う

軍医としての頂点にあった鴎外ですが、仮名遣いの改良問題にも深く関わっていました。当時、日本語の近代化を進めるために、仮名遣い改良議論がさまざまに展開されていました。

1908年、臨時仮名遣調査委員会で鴎外は「仮名遣に関する意見」を述べて、文部省の案に反対します。鴎外は旧仮名遣いを守るべきという立場に立っていました。進歩的学問を先進国で学んだ鴎外ですが、旧来のものを守るという保守的な意見を論じたのでした。

鴎外はそのような自分のスタンスを小説「妄想」(明治44年発表)の中で、「洋行帰りの保守主義者」が「失望を以って故郷の人に迎えられた」と揶揄しています。

久しぶりの小説発表

日露戦争への従軍や小倉への左遷などの期間、小説執筆活動は止まっていました。

この期間は、プライベートでも弟・三木竹二の死や、長男をもうけながら28歳の時に離婚した最初の妻が死去、その後荒木志げと再婚し長女が誕生、次男をもうけながらも翌年死去するなど、心穏やかではない出来事も多くありました。そんな日々が過ぎた1909年、47歳の鴎外は再び旺盛な小説執筆に取り掛かります。

性欲の告白と発売禁止事件

『ヰタ・セクスアリス』

鴎外は『ヰタ・セクスアリス』(直訳すれば「私の性欲史」)という小説を1909年(明治42年)に発表しました。

この作品は鴎外の自伝的要素が強く、主人公と鴎外の経歴は多くの点が符合します。幕末から近代に移りゆく時代の中で成長する1人の少年の「性」への目ざめと、恋愛を離れた性欲に対する、分析的な眼差しが印象的な作品です。

当時、露骨に性を描くことで文壇を席巻した自然主義文学とは一線を画し、清冽な文体、科学者的な客観的視点で「性」というテーマに迫った「ヰタ・セクスアリス」ですが、すでに陸軍軍医総監・陸軍省医務局長という要職に就いていた鴎外が書いた性欲史ということで、良くも悪くも注目されました。

国家による言論抑圧が盛んになった時代背景のもと、「ヰタ・セクスアリス」が発表された雑誌「スバル」は発売禁止の処分を受けることになりました。

豊熟の時代

これ以降、鴎外は数多くの作品を手がけます。弟子の木下杢太郎はこの時期を鴎外の「豊熟の時代」と呼びました。1909年から1911年の間に手がけた作品には以下のようなものがあります。

【1909年(明治42年)に発表した小説】

  • 「半日」(3月)
  • 「仮面」(4月)
  • 「懇親会」(5月)
  • 「追儺」(5月)
  • 「魔睡」(6月)
  • 「大発見」(6月)
  • 「ヰタ・セクスアリス」(7月)
  • 「金貨」(8月)
  • 「金比羅」(10月)

【1910年(明治43年)に発表した小説】

  • 「電車の窓」(1月)
  • 「牛鍋」(1月)
  • 「杯」(1月)
  • 「木精」(1月)
  • 「独身」(1月)
  • 「里芋の目と不動の目」(2月)
  • 「青年」(3~8月)
  • 「桟橋」(5月)
  • 「普請中」(6月)
  • 「ル・パルナス・アンビュラン」(6月)
  • 「花子」(7月)
  • 「あそび」(8月)
  • 「ファスチェス」(9月)
  • 「身上話」(11月)
  • 「沈黙の塔」(11月)
  • 「食堂」(12月)

【1910年(明治44年)に発表した小説】

  • 「蛇」(1月)
  • 「カズイスチカ」(2月)
  • 「妄想」(3~4月)
  • 「藤鞆絵」(5~6月)
  • 「流行」(7月)
  • 「心中」(8月)
  • 「雁」(9月~1913年5月)
  • 「百物語」(10月)
  • 「灰燼」(10月)

【1911年(明治45年)9月までに発表した小説】

  • 「かのやうに」(1月)
  • 「不思議な鏡」(1月)
  • 「鼠坂」(4月)
  • 「吃逆」(5月)
  • 「藤棚」(6月)
  • 「羽鳥千尋」(8月)
  • 「田楽豆腐」(9月)

流行の写実小説に対抗する

『半日』の自筆原稿

当時の文壇は、島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」など、己の性や内面の葛藤などを赤裸々に告白する「自然主義」が席巻していました。

鴎外もその自然主義の向こうを張るかのように、前期のロマン主義的作風とは全く異なる「半日」や「ヰタ・セクスアリス」を雑誌「スバル」に発表しました。「半日」は嫁姑の葛藤の間で苦悩する鴎外自身とおぼしき主人公を描き、「ヰタ・セクスアリス」では自己の性欲の歴史をテーマにしました。

表面上は自然主義に似たものでしたが、科学者の客観的な視点や自然主義を相対化する批評性、完成度が極めて高い言文一致の文体は、自然主義とは一線を画す作品といえます。

言論が抑圧される時代に対する鴎外の反応

1909年5月「新聞紙法」が制定されました。これは、新聞と定期刊行雑誌に対して内務大臣が発売禁止権を持つというものです。つまり言論の自由を抑圧する法でした。これは、国家体制が危険思想と考えた「社会主義」や「自然主義」を取り締まることを目的にしたものでした。

この年の鴎外の地位は陸軍軍医総監・陸軍省医務局長という要職にあり、文学では博士の学位を受け、栄誉の絶頂にありました。にも関わらず「ヰタ・セクスアリス」により発売禁止処分を受けました。内務省警保局長が陸軍省に来て鴎外の著作への苦情を述べたため、鴎外は次官から戒告を受けています。

言論を弾圧する体制側に近いポジションにいながら、弾圧される側に片足をかけている、鴎外はそんな二律背反を生きていたのでした。

大逆事件と鴎外

大逆事件で処刑された幸徳秋水

1910年5月天皇暗殺を計画したとして、多くの社会主義者や無政府主義者を起訴、死刑や懲役刑になった大逆事件(幸徳事件)が起こりました。これにより新思想に対する抑圧は強まり、石川啄木が「時代閉塞の現状」と呼ぶ言論の冬の時代を迎えます。

こうした時代の空気の中、鴎外は「フアスチエス」(1910年9月)「沈黙の塔」(同11月)「食堂」(同12月)などの小説において、自由な言論を抑圧することへの批判や新思想に対する批評を描きました。

1912年 – 50歳「明治の終焉」

明治天皇

明治の終焉

1912年7月明治天皇が崩御し、明治という時代が終わります。明治天皇の大喪の礼が行われた9月13日、日露戦争における活躍で世界的評価も高く軍神として崇められていた乃木希典が自刃しました。明治天皇を追った殉死でした。この殉死事件を巡って、新世代の作家たちは冷ややかな目で見ていた向きもあります。

しかし幕末に生を受け、明治という時代とともに生きて来た鴎外は、乃木の殉死に受けた大きな衝撃と感動を創作に昇華しました。この事件は夏目漱石の小説にも「明治という時代の終焉」としては大きな影響を及ぼしています。

歴史小説の執筆を始める

鴎外は乃木殉死から5日後に「興津弥五右衛門の遺書」を脱稿しました。この歴史小説の主人公弥五右衛門は、君主への忠義心のために誤って罪を犯します。その罪を許した君主の恩義に報いるため、君主の十三回忌に弥五右衛門は切腹します。

乃木殉死に対する陸軍上層部や世論の冷ややかな反応に対する鴎外の反感とともに、鴎外が乃木殉死受けた感動を読み取ることができる作品です。この作品以降、鴎外は歴史を舞台にした小説を手がけていきます。

歴史小説を続々と発表

『高瀬舟』の初版本

乃木殉死を契機に書いた「興津弥五右衛門の遺書」に続き続々と歴史小説を手がけます。発表年月日順に並べてみます。

【1913年】

  • 「阿部一族」(1月)
  • 「佐橋甚五郎」(4月)
  • 「護持院原の敵討」(10月)

【1914年】

  • 「大塩平八郎」(1月)
  • 「堺事件」(2月)
  • 「安井夫人」(4月)
  • 「栗山大膳」(9月)

【1915年】

  • 「山椒大夫」(1月)
  • 「津下四郎左衛門)(4月)
  • 「魚玄機」(7月)
  • 「ぢいさんばあさん」(9月)
  • 「最後の一句」(10月)

【1916年】

  • 「高瀬舟」(1月)
  • 「寒山拾得」(1月)
  • 「椙原品」(1月)

1916年 – 54歳「退官」

自宅での森鴎外

陸軍退官

1915年2月、陸軍の大嶋次官に退官の意思を伝えていた鴎外は、1916年4月13日退官し、予備役となりました。54歳でした。退官したこの年から、鴎外は日本文学の中で類をみない「史伝小説」というスタイルを作り上げていきます。

歴史そのままから史伝小説へ

鴎外の歴史小説には歴史に題材を得ながら文学的な肉付けの多い作品と、史料に忠実に客観的な態度で歴史を描く作品があります。鴎外はそれについて「歴史其儘と歴史離れ」(1915年1月)という随筆で語っています。

歴史史料が見せるものをできるだけ歪曲せずに、史料そのままに表現すべきだという「歴史そのまま」の立場が極まったとき、「史伝」というスタイルが出来上がりました。

鴎外の史伝小説を次に掲げます。

  • 「澀江抽斎」(しぶえ ちゅうさい)
  • 「伊沢蘭軒」(いざわ らんけん)
  • 「小嶋宝素」(こじま ほうそ)
  • 「細木香以」(さいき こうい)
  • 「北条霞亭」(ほうじょう かてい)

これらは全て近世に実在した無名の医師・考証学者が主人公です(細木香以だけは学者ではなく、富豪で文人らの保護者)。

例えば「澀江抽斎」は、鴎外自身が「武鑑」(江戸時代の書物)を収集するなかで、「弘前医官澀江氏蔵書記」という蔵書印が押されたものに何度も遭遇し、趣味が同じ澀江という人物に強い関心を抱きます。その関心を起点に英雄でも著名人でもない学者の人生・学問の系譜を描き出していくというものでした。

鴎外が史料を探索する過程、そして得た史料から論理的推理によって歴史の真実に迫っていく創作の過程、つまり執筆の舞台裏も作品中に盛り込まれており、従来の歴史小説とは一線を画すスタイルを確立しました。

鴎外自身「わたしの書くものは、いかに小説の概念を押し広めても、小説だとは云われまい」と述べているのですが、歴史記述とは何か?小説とは何か?という問題を突きつけてくる作品群です。

陸軍退官後も公人として生きる

1916年陸軍を退官した鴎外ですが、翌年12月には帝室博物館総長と図書頭に任命させます。また1918年には、帝室制度審議会御用掛、美術審査委員会第3部主任、1919年には六国史校訂準備委員長、帝国美術院初代院長、1921年には臨時国語調査会会長として、責任ある立場で文化事業に多く関わりました。

1913年 – 60歳「鴎外の死」

鴎外の墓がある禅林寺

病気の発覚

この年鴎外は、英国皇太子の正倉院御物参観のため奈良に出張していましたが、病臥することが多かったそうです。6月から欠勤し、同月29日初めて医師の診断を受け、萎縮腎、肺結核の進行が認められました。

遺言

7月6日には友人・賀古鶴所に遺書を口述しました。遺書には「死は一切を打ち切る重大な事件なり(中略)官憲威力といえどもこれに反抗することを得ずと信ず 余は石見人森林太郎として死せんと欲す」などと書かれています。

臨終

7月7日に天皇皇后から葡萄酒が、8日には摂政官から見舞い品が贈られ、従二位に叙せられました。そして、鴎外は9日の午前7時に死去しました。

12日谷中斎場で葬儀、13日遺骨が向島弘福寺に埋葬され、のち昭和2年に三鷹禅林寺に移されました。法号は中国文学者の桂湖村(かつら こそん)によって「貞献院殿文穆思斉大居士」とつけられました。

墓標は中村不折の書で、鴎外の遺言にしたがって「森林太郎」とのみ彫られました。

森鴎外の関連作品

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森鴎外についてのまとめ

現代国語の教科書で「舞姫」に触れたのが最初の鴎外体験だという方も多いかと思います。はっきり言って「読みにくい」「何を言ってるかわからない」「古典文学…?」など、楽しめなかったという人もいるかもしれませんね。

そういう方は「舞姫」を音読してみてください。意味がわからなくても雅文体の美しい言葉の響きに心を動かされると思います。雅文体を用いた古来の日本の物語は、一人で黙読するものではなく、音読して聞かせるのが前提の文章でした。

鴎外はそうした日本古来の文章を用いて、西洋を舞台に個人の自我の目覚め、国家と個の矛盾の中で苦しむ青年の葛藤を描き出しました。これは当時では極めて新鮮で近代的なモチーフでした。いわば前近代的なものと近代的なものの美しい融合が「舞姫」でした。

前近代と近代、東洋と西洋、保守と革新、国家と個人。こうした二律背反を抱え込んで生きていた鴎外に、私は本物の知性を感じます。

近代化を推し進めようと時代がイケイケになっているなか、近代化推進派や、逆に近代化反対派であることは簡単でしょう。しかし、近代化のメリットを誰よりも知りながら、近代化によって失ってはいけないものを見極め、舵をとっていこうとする姿勢は、本物の知性がなければできないと思うのです。

自分が生きている時代の流れを俯瞰し、必要なところでは前に前にと船を進め、激流に出くわした時には流れに竿を挿して船の進行を冷静にコントロールする、そんな鴎外の知性の在り方に惹かれます。

鴎外が生きたのは、近代のはじまりから国家体制が確立していく激動の時代でした。鴎外の一生と作品をインデックスに、日本の近代とは何だったのか、今一度見つめ直してみてはいかがでしょう。

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4 COMMENTS

アニオタ

ヰタ・セクスアリスって有名だと思ってたんですけど、どうなんですかね?

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注文の多い鷗外ファン

鷗外の創作については、
『歴史其儘と歴史離れ』といった随筆や小論など
個々の作品と関連付けることで、単なる文学の枠を超えた読み方がある。
『妄想』などで言及された、ある意味での文明論や、
知識人としての提起は、今の日本においても課題であり続けている。

また、とかくナウマン論争が「語学堪能な」鷗外の武勇伝として
紹介されることは多い。だが、当時のドイツ新聞紙上における論争、
つまり議論としての実体において、
列強国からの、黄色人種へのいくらかの蔑視は鼻持ちならないとしても、
しかし、現代日本人にとって、当時の新興国であった日本の空回りを指摘する
ナウマンの批評自体は、むしろ、当を得たものと映るのではないか。

個人的には、ナウマンが本旨とした論点への
”鷗外の批判は的を外している”との指摘はもっともだろう。

明治の文豪や思想小説については、文学史だけでなく
時代背景や、当時の思想史的潮流なども参考にした記述への目配りが欠かせない。
ご存じでなければ、
『日本文学史序説』加藤周一(ちくま学芸文庫)なども参考にしてほしい。

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