アンデス文明の歴史や特徴を解説!遺跡やミイラ、地上絵の謎も紹介

アンデス文明のミイラとは?

布に包まれたミイラ

ミイラ作りにおいて、古代エジプトと双璧をなすと言われている、アンデス文明のミイラたち。古代エジプトでミイラになるのは、基本的に王族たちでした。

しかし古代アンデス文明においては、王族に限られることなく作られていたようです。さらには作り方も大きく異なっています。

そんな中で、1999年ビッグニュースが世界中を駆け巡りました。アルゼンチンのジュジャイジャコ火山の山頂でインカ帝国時代の子どものミイラが見つかったのです。

ジュジャイジャコ火山

彼らはインカ帝国の生贄の儀式で生き埋めにされたと考えられており、保存状態が極めて良く、安らかな表情を読み取ることもできます。ミイラたちの毛髪からDNA検査を行ったところ、彼らは生贄として捧げられる1年以上前から、向精神作用のある飲食物を摂取していたことがわかっています。

3人の少女たちは意識が朦朧とする中、生贄として生き埋めにされました。しかし皆穴の中で苦しむことなく死へ向かっていったと考えられています。

アンデス文明に神話はあるの?

アンデス文明の神話とは

アンデス文明にも神話はあります。「インカ神話」とも称されることがあり、インカ民族の伝承や神話が入り混じったことで、多くの神々を生み出しました。

インティ(太陽神)やパチャカマック(創造神)、スーパイ(死の神)に代表される神々に加え、穀物の神や家庭の神など多様性に富んでいます。神話は創世神話、太陽神話とありますが、文字を持たなかったアンデス文明では、これらの神話は口づてに伝えられたとされています。

インカ帝国が崩壊した今でも、アンデス各地に根強く残っていた神話は伝わっており、信仰され続けています。

アンデス文明の都市遺跡

マチュピチュ

インカ帝国

インカ帝国はアンデス文明における最後の先住民国家です。南アメリカのペルーから、ボリビア、エクアドルにかけて広範囲に国家が築かれました。

インカ帝国では巨大な石を使った建築物や石の加工技術が非常に優れており、その技術はインカ帝国の都市マチュ・ピチュにも使用されています。他にも土器や織物、インカ道路網などの高度な文明を讃えて「インカ文明」という別名で呼ばれることもあります。

インカ帝国の道路網

インカ文明を築いたのはケチュア族という先住民族です。西暦1200年ごろに、ケチュア族はアンデス高原にあるクスコに小国家を作りました。

初代王であるマンコ=カパックから、200年ほどの歴史の中で初代王を除く、12人の王が即位しインカ帝国を発展させていきました。しかし繁栄とともに、滅亡の影も近づきつつありました。

西暦1532年、スペイン人の征服者フランシスコ=ピサロが南アメリカのエクアドルに上陸します。そこから南下し、インカ帝国領土内に侵入しました。

フランシスコ=ピサロ

インカ帝国の整備された道路網によってピサロ率いるスペイン軍は進軍し、インカ帝国国王の元までたどり着きました。司祭は国王にキリスト教を受け入れるかと問いかけ、聖書を渡しましたが、国王はそれを投げ捨てました。

これを「キリスト教の冒涜」と捉えたスペイン軍は一斉に攻撃し、高度な銃火器の前にインカ帝国は為す術もありませんでした。たった3分ほどで2000人以上もの人たちが殺害され、王は処刑されました。

インカ帝国は滅亡し、あっという間に首都クスコも制圧されてしまいます。ピサロはクスコにある大量の金銀財宝を奪い取るだけでなく、クスコ以外の都市にも進出し略奪を行いました。

インカ帝国とはどんな国?成立から滅亡理由、皇帝、ミイラとの関係も紹介

ナスカの地上絵

ナスカの地上絵

ナスカの地上絵は紀元前200年ごろから西暦800年ごろにかけて、ペルーのナスカ川からインヘニオ川に囲まれた土地に描かれました。主に動植物の絵が描かれましたが、中には幾何学模様の地上絵もあり、多様性を見せています。

西暦1939年に初めて発見されて以降、今でも新たな地上絵が次々と発見されています。2019年には143点もの地上絵が発見されたとナスカ研究所によって公表されました。

そもそもナスカの地上絵はなんのために描かれたのでしょうか。現時点では理由ははっきりしていません。

社会事業とする説や雨乞いの儀式に使われた説、成人と認められるための試験とする説などが提唱されています。地上絵の研究は続けられていますので、明らかになる日は近いかもしれませんね。

ナスカの地上絵とは何かを分かりやすく紹介【作られた意味や歴史的背景、絵の種類、場所や謎まで】

アンデス文明と同じ南アメリカの文明は?

マヤ文明

マヤ文明

いけにえの泉

マヤ文明は中米のメキシコからグアテマラなどを中心に栄えた文明です。4世紀ごろから9世紀にかけて高度な都市文明を築きました。

マヤ文明は神殿やピラミッドなどの建築技術に加え、天体観測や正確な暦法などを行っていました。またマヤ文明の特徴として、生贄の儀式が盛んに行われていたことが挙げられます。

この儀式には干ばつなどが起きると、人身供物として神々に捧げていました。チチェン・イッツァにある「いけにえの泉」に生きたままの人間を投げ入れていました。

10世紀トルテカ文明の台頭によりマヤ文明は廃れ始めます。そして14世紀に入ったころ、チチメカ人の民族移動によって、マヤ文明の独自性は失われました。

アステカ文明

アステカ文明
出典:Wikipedia

アステカ文明はメキシコ高原を中心に栄えた文明です。アステカ文明が作られたのは他の文明に比べ、最も遅く15世紀でした。

この文明はピラミッド型の神殿作りや絵文字を特徴とした独自の進化を遂げていました。15世紀中ごろに最盛期を迎えましたが、西暦1521年にスペインの征服者コルテスによって征服、滅亡しました。

同じ中米に栄えたマヤ文明と混同されやすいのですが、マヤ文明は密林の中に多くの都市国家を作っていたのに対し、アステカ文明は平地に一つの国家を作っていました。

アンデス文明に関するまとめ

アンデス文明について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

アンデス文明は非常に高度な文明を持ちながらも、旧大陸にある他の文明とは違う発展を遂げた興味深い文明です。空中都市マチュ・ピチュやナスカの地上絵に代表される世界遺産は、現代の人々の多くの感動を与えてくれます。

研究によってアンデス文明に関する新しい情報も明らかになっています。今後も注目度の高い文明の一つと言えるでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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