力道山の名言
人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければかみついても試合はできる。
「窮鼠猫を噛む」というように、危機的状況であっても何らかの力を発揮することが出来るという事を表した言葉。プロレスラーである以上、どんな状況であっても試合を成立させねばならない、という強いプロ意識を感じます。
男が人の上に立って成功するには、方法はたった一つしかない。それは過去に誰もやったことのないことを、一生懸命やることだ。
日本ではそれまで流行していなかったプロレスというジャンルにおいて、大成功を収めた力道山。その道のりは前例のないとても険しい、道のりだったのかもしれません。
3年間、私に預けなさい。きっと立派なレスラーにしてみせる。そしてブラジルに、日本のプロレスの花を咲かせるのだ。
ブラジルの市場で働いていた青年・猪木寛治(後のアントニオ猪木)をスカウトした時の言葉。実際に、猪木は日本のみならず世界に名を轟かせるレスラーとして大出世しました。
力道山にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「世紀の一戦!木村政彦戦のブック破り」
全日本選手権13度制覇し、15年間不敗伝説を持つ柔道家・木村政彦。柔道家として引退後、プロレスラーとなり、力道山とタッグを組み、シャープ兄弟と対決しました。しかし、プロレスに対応できず、力道山の引き立て役であったことへ不満を持ち、「真剣勝負なら負けない」と発言し、力道山との直接対決を申し込みました。
「昭和の巌流島」と評されたこの戦いは、15分49秒、力道山のKO勝ちで幕を閉じました。しかし、後年、この試合について木村政彦側の念書が見つかり、本来は勝ち負けが決まっていた戦いであったことが暴露され、後にノンフィクション評伝「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」など後世にまで伝わる謎の多い一戦となりました。
都市伝説・武勇伝2「ジャイアント馬場・アントニオ猪木を見出した人物」
1960年4月、元プロ野球選手からプロレスラーへと転身を遂げた選手がいました。それが、「東洋の大巨人」ことジャイアント馬場です。馬場は力道山にその素質を見込まれ、特別待遇として入門しましたが、実際は横暴な教育をしており、力道山について「人間として何一つ良いところの無い人でした」と後に発言しております。
また、同時期にデビューした一人の青年がいます。それが、「燃える闘魂」ことアントニオ猪木です。猪木はサンパウロで、力道山からスカウトされ、付き人になりました。付き人時代は、靴ベラで殴られるなど壮絶な体罰を受け、「俺は力道山先生みたいに弱い者イジメだけはすまい」と心に誓ったそうです。
都市伝説・武勇伝3「経営者として様々な事業を立ち上げ」
プロレスラーとして活躍する一方で、実業家としても活躍していた力道山。赤坂などに高級住宅として「リキ・アパート」、「リキマンション」などを建設しておりました。リキマンションは現在も赤坂に現存し、賃貸マンションとして住むことも可能になっております。
また、日本プロレスの常設試合会場として地上9階建ての常設会場「リキ・スポーツパレス」を開設し、中にはボクシングジムやレストランなど一大複合ビルとして誕生しました。この他にも神奈川県の油壷や相模湖畔などにリゾート施設などを建設する計画もあったそうです。
力道山の簡単年表
朝鮮国咸鏡南道洪原郡新豊里(現・北朝鮮)の精米所の息子として出生しました。
15歳のころ、朝鮮相撲の大会に出場し、その大会を観戦していた興行師の百田巳之吉にスカウトされ、日本へ渡り、二所ノ関部屋の力士として初土俵を踏みました。
1946年から入幕を果たし、2場所目となる1947年6月場所で大関、横綱から金星を挙げ、この場所から導入された優勝決定戦に駒を進めました。結果は、羽黒山の優勝でしたが、その強さを発揮する結果となりました。
その後、関脇へ昇進するも、1950年9月場所を前に自らの髷を切り落とし、突如廃業してしまいました。一説として、民族間の問題で大関へ昇進できないことに悩み髷を切り落とした、という説などが存在します。
廃業後、現場監督として働いている時に、当時連合国軍の慰問などを兼ねたチャリティープロレスに出場していた日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い、プロレスれーになることを決意します。
本格的にプロレスラーになるため、ハワイのホノルルにて日系人レスラーの沖識名の下で修業を積み、アメリカ本土へ渡り300戦にも渡るサーキット武者修行を経験し、日本へ帰国しました。
帰国後、二所ノ関部屋時代からの後援者であった新田新作と興行界のドンこと永田貞雄の尽力により、興行団体「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。
当時、世界タッグ王座を保持していたシャープ兄弟を招致し、2月19日の蔵前国技館選を皮切りに14連戦にもわたる興行を行い、これが大成功を収めました。
先ほどの、シャープ兄弟とのタッグにおいて引き立て役として使われていたことに不満を持った木村政彦が、「真剣勝負なら負けない」と宣言し、力道山との直接対決を蔵前国技館で行いました。これが、後世に語り継がれる「昭和の巌流島」と呼ばれる一戦です。
1955年11月22日に日本プロレスが開催した「アジア選手権大会」にて、キングコングを破り力道山が優勝し、初代王者としてアジアヘビー級王座を戴冠しました。
1958年にNWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)が定めたインターナショナルヘビー級王座を巡り、力道山がルー・テーズからこれを奪取し、それまで下火になっていたプロレスブームを再び巻き起こしました。
新たな目玉カードとして日本プロレスは世界中にいるレスラーの中の頂点を決める大会として、「ワールド大リーグ戦」を開催しました。力道山は第1回から出場し、1963年まで5連覇を成し遂げています。
韓国側の招待に応じ、力道山は20年ぶりに祖国である朝鮮半島へと帰国しました。しかし、このことが東京中日新聞に報じられると、激怒したそうです。
1963年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権試合にて、白覆面ことザ・デストロイヤーを相手にした試合が、平均視聴率64%を記録しました。
赤坂のニューラテンクォーターにて、反社会的勢力傘下の構成員であった村田勝志と口論の末、喧嘩となり、その際、腹部を刺され、このケガが元で力道山は39歳という若さでこの世を去りました。