力道山の年表
1923年 – 0歳「朝鮮にて生まれる」
謎多き幼少期
力道山は自伝内にて、長崎県大村市の出身で百田家の長男として幼少期を過ごし、大村第二小学校ではいじめっ子から弱いものを守るために奮闘した、という記述が残っておりますが、これらのエピソードは全くの虚実であり、実際は日本統治下の朝鮮の出身の人物だったのです。
朝鮮国咸鏡南道洪原郡という片田舎の精米所の息子として出生した力道山は、本名を金信洛といい、兄である金恒洛は朝鮮相撲の横綱格まで登った人物と言われております。これらの出生に関して、本人から語られること自体少なく、在日朝鮮人であったことを機密事項にしておりました。
日本へ渡る
15歳の時、朝鮮相撲の大会に出場し、この時に貴賓席から見ていた百田巳之吉にスカウトされ、日本で力士になることを進められました。しかし、母親はこれに反対しておりました。植民地の人間が日本で虐待されるなどのイメージがあったために反対していたそうです。
その後、日本への渡航を頑なに拒否し続けた母親は、なんとしてでも信洛に残って貰うべく、花嫁を探し出し、幼馴染の女性と信洛を結婚させることにしました。しかし、信洛は日本へ渡り相撲を取ることを決め、家族と結婚相手を残し、日本へと渡航したのでした。
1940年 – 17歳「二所ノ関部屋から初土俵入り」
二所ノ関部屋から力士になる
日本に渡った信洛は、百田巳之吉が後援幹事を務めていた二所ノ関部屋へと入門しました。入門後、「力道山 信洛」という四股名をもらい、1940年5月場所から序の口として初土俵入りし、1946年から11月から幕内力士として入幕しました。
その後、1947年6月場所では前頭8枚目ながら大関前田山、東富士、横綱羽黒山から星を上げ、9勝1敗の好成績を残し、優勝決定戦へと進出しました。また、1948年5月場所では大関東富士、横綱照国から星を上げ、優勝決定戦で不戦勝し、殊勲賞を受賞しました。
9月場所を前に突如廃業
その後、関脇へと昇進するも、1950年9月場所を前に、自ら髷を切り落とし、そのまま力士として廃業してしまいました。この廃業理由には様々な理由があり、その酒癖などの素行の悪さや金銭問題が積み重なり、それがきっかけとなり引退したという説などがあります。
また、当時相撲自体が資金難に見舞われており、この先の未来に不安を感じ、見切りをつけるべく廃業したという説。民族の壁に阻まれ、大関以上に昇進できないことを悩み、廃業を決意した、と諸説存在しております。
1952年 – 28歳「日本プロレスを旗揚げ」
ハロルド坂田と知り合い、プロレス修行のためホノルルへ
廃業後、百田家の養子に迎え入れられ、二所ノ関部屋の後援者であった新田新作が営んでいた建設業の会社で現場監督として働いておりました。ある時、ナイトクラブでの喧嘩をきっかけに日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い、プロレスラーへの転向を勧められました。
その後、ハワイのホノルルにて、日系人レスラーの沖識名の下で修行を積み、アメリカへ渡り300戦のサーキットを経験し日本へと帰国しました。しかし、これらの話も作り話であった可能性が高く、同僚であった遠藤幸吉も300戦については疑問を呈しております。
プロレス団体「日本プロレス」を旗揚げ
帰国後、力道山は新田新作と興行界のドンと呼ばれた大物興行師の永田貞雄と共に、プロレス団体「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。この団体のスポンサーとして北海道汽船炭鉱の常務であった萩原吉太郎など実業家たちが名を連ね、この背景には「フィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が背後についていたという噂があります。
また、団体発足に伴い「日本プロレスリングコミッショナー」が設立され、そこには自民党の副総裁であった大野伴睦や自治庁長官などを歴任した川島正次郎といった大物政治家たちが名を連ね、その中には後に総理となる中曽根康弘もおり、蜜月の関係性だったのが伺えます。
1954年 – 30歳「「昭和の巌流島」こと木村政彦と一戦を交える」
シャープ兄弟を招致し初興行を開催
興行の目玉カードとして、世界タッグ王座を保持していたシャープ兄弟を招致し、柔道王・木村政彦とタッグを組み、2月19日の蔵前国技館を皮切りに14連戦にもわたる興行を開催。この試合は日本発の国際試合として認定されております。
この試合はテレビ中継も行われ、結果として、大成功を収め、全国にプロレスブームを巻き起こしました。但し、このシャープ兄弟が保持していた世界タッグ王座というのは、あくまでも「世界で一番の」というものではなく、「カナダローカルの世界タッグ王座」であり、誇大広告であった可能性があります。
「昭和の巌流島」木村政彦との一戦
この興行の際、引き立て役扱いであったことに不満を持った木村政彦は、自ら「国際プロレス団」という団体を立ち上げ、朝日新聞記者に対し「真剣勝負なら負けない」という旨を発言し、12月22日に昭和の巌流島と呼ばれる一戦を繰り広げ、結果、力道山のKO勝ちという結果を収めました。
ですが、この試合については未だに謎が多く、力道山側の一方的なブック破りなど、不可解な点の多い試合として語り継がれております。また、力道山は試合の翌日に木村政彦側から送られた念書を大々的に公開するなど、木村側の報復を恐れていたそうです。
1958年 – 34歳「ルー・テーズを破りインターナショナルヘビー級王座を獲得」
プロレス人気が下火に
第一次プロレスブームが去り、1957年ごろからプロレスブームは徐々に下火へとなっていきました。力道山は、この状態を打破すべく、様々な外国人レスラーを招致するといった、プロモーターとしての活動も行っていきます。
また、選手をプロデュースする能力にも長けており、こうしたプロデュースにより、外国人レスラーを強く見せるといった手法をとっておりました。例を挙げると、グレート・アントニオというレスラーにはバスを4台引っ張るというパフォーマンスを提案し、怪力レスラーとして記者に紹介しておりました。
ルー・テーズとの熱戦
1958年にロサンゼルスにてルー・テーズが保持するインターナショナルヘビー級王座に力道山は挑戦し、ベルトを奪取することに成功。これにより、再びプロレス人気に火が付き、日本プロレスの至宝として様々な外国人レスラーと戦う目玉カードとして、力道山は19度防衛しました。
しかし、このインターナショナルヘビー級王座というのも力道山の創作した話であったという説など諸説あります。このベルトは力道山の逝去後に封印され、後にジャイアント馬場が立ち上げた全日本プロレスで復活し、現在は全日本の至宝である「三冠ヘビー級王座」の1本に包含されております。
1962年 – 38歳「WWA世界ヘビー級王座に追認」
ジャイアント馬場、アントニオ猪木をスカウト
1960年、同時期に2人の青年をプロレスラーとしてスカウトしました。1人が、元ジャイアンツの投手であった馬場正平。もう1人は、ブラジルのサンパウロの市場で働いていた猪木寛治。この二人を新たなスターにすべく日本プロレスへと入門させました。
練習生時代は特に厳しく、猪木は靴ベラで殴られる、ゴルフクラブで殴打する、といった壮絶な体罰を受けておりました。また、馬場にも我慢を強要させるといった横暴な一面がありました。しかし、力道山が一番かわいがっていたのは、同じく韓国から帰化した2人の1年先輩である大木金太郎だったそうです。
フレッド・ブラッシーとNAWA世界王座を争う
1962年、力道山は「銀髪鬼」として恐れられたフレッド・ブラッシーが保持するNAWA王座へと挑戦しました。フレッド・ブラッシーは噛みつき攻撃を得意とするレスラーで、歯をやすりで削るパフォーマンスを得意としてました。ちなみに、このパフォーマンスを提案したのも力道山です。
試合に勝利し奪取するも、ブラッシー側からクレームがつき、その結果、新たな王座として「WWAヘビー級王座」が誕生し、その初代王者という事で追認されました。この、WWA王座は、NWA世界ヘビー級王座から分裂したものであり、後に統一されることになります。