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力道山とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家族構成、戦績や死因についても紹介】

2020年1月4日、5日と2日間にわたって東京ドームで興行を行ったプロレス団体「新日本プロレス」。総動員数は7万人を超え、その一大ブームは動画配信サービス「新日本プロレスワールド」などを通じて全世界中へと広まっております。

かつて、新日本プロレスは金曜8時のゴールデンタイムで放映され、視聴率も20%越えを度々連発しておりました。この、新日本プロレスを立ち上げたアントニオ猪木の師匠にあたる人物が、日本プロレス界の父と呼ばれるプロレスラー・力道山です。

力道山

力道山は元々、大相撲の力士としてデビューした人物でした。しかし、関脇に昇進した翌年に突如廃業し、建築現場の監督を経て、プロレスラーとしてデビューします。その後、様々な外国人レスラーと戦いながら、日本中にプロレスブームを呼び起こします。

昭和30年代を舞台にした映画「ALWAYS 3丁目の夕日」では、力道山の試合を見るために、テレビの置いてある家庭へ町内の人々が集合する、というシーンがあります。それだけ、当時の人たちは、力道山の試合に熱狂しておりました。

ですが、実際に力道山という人物がどんな人物だったのかというのを知っている人は少ないかもしれません。ということで、今回は「プロレススーパースター列伝」で力道山を知った筆者が、力道山についてご紹介いたします。

力道山とはどんな人物か

名前力道山(本名:百田光雄、出生名:金信洛)
誕生日1924年11月14日
没日1963年12月15日
生地日本統治下朝鮮 咸鏡南道洪原郡新豊里
没地東京都港区青山 山王病院
配偶者田中敬子
埋葬場所東京都大田区 池上本門寺
長崎県大村市 長安寺

力道山の生涯をハイライト

力道山

力道山の生涯について簡単にご紹介いたします。

  • 1924年11月14日、日本統治下にあった朝鮮にて生まれる
  • 15歳の時、朝鮮相撲の大会で優勝し、後の養父・百田己之助にスカウトされる
  • 1940年に二所ノ関部屋から力士として土俵入り
  • 1950年に力士を廃業し、2年後プロレスラーとしてアメリカで修行する
  • 1954年に「日本プロレス」を旗揚げ、看板レスラーとして活躍
  • 1954年12月、「昭和の巌流島」こと木村政彦との一戦を行う
  • 1960年、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を日本プロレスにスカウトする
  • 1963年5月、ザ・デストロイヤーとの戦いで平均視聴率64%を記録
  • 1963年12月、赤坂のニューラテンクォーターにて刺傷事件が起こり、その傷が元で逝去

力道山の家族構成は?息子や子孫は何をしているの?

百田光雄

力道山は朝鮮の片田舎で精米所を営んでおりました。その後、力道山は数人の女性と関係を持っておりました。そのうちの1人、芸者であった綾の息子である百田義浩と百田光雄さんはプロレスラーとしてデビューし、力道山2世として期待されました。2020年現在、百田光雄さんは現役レスラーの中で最長キャリアを誇るレスラーとして活躍中です。

また、力道山は日本に来る前にすでに結婚していたという報道が1984年の雑誌「週刊プレイボーイ」で報じられました。その後、2002年の釜山アジア競技会にて北朝鮮の重量挙げの監督に、力道山の孫娘がエントリーされたとニュースになりました。

力道山はどんなプロレスラーだった?生涯の戦績は?

試合中の力道山

力道山の代表的な必殺技として挙げられるのが「空手チョップ」です。この空手チョップの威力を上げるために、手の甲や指を木製ハンマーで叩き、硬くしている特訓模様が東スポなどで報じられていました。弟子であった猪木も、「あのチョップには様々な怨念が込められていた」と証言しております。

シャープ兄弟

力道山は空手チョップを武器に、大柄の外国人レスラーをなぎ倒す姿が当時の敗戦直後の日本人に勇気を与え、日本中に勇気を与えました。詳しい戦績は不明ですが、中でも、シャープ兄弟やルー・テーズ、フレッド・ブラッシーといった外国人レスラーとの戦いは名勝負であったと語り草になっております。

力道山の死因「力道山刺傷事件」とは?

赤坂のニューラテンクォーター

1963年12月8日、赤坂のニューラテンクォーターで飲んでいた力道山。その途中、反社会的勢力の住吉一家傘下の大日本興業の構成員であった村田勝志という男に対し、力道山が「足を踏まれた」と口論になり、取っ組み合いの喧嘩になってしまったそうです。

その後、一方的に殴打された村田が命の危険を感じ、懐の中にあったナイフを抜き、下腹部を刺しました。そして、このケガが原因で力道山は亡くなってしまいました。実際、力道山の酒癖は悪いことで有名で、度々このようなトラブルを引き起こしていた模様です。

力道山の功績

功績1「力士からプロレスラーへ転向」

力士時代の力道山

1940年に二所ノ関部屋へ入門し、「力道山 信洛」という四股名で初土俵を踏みました。その後、日本で敗戦を経験し、1947年6月場所にて大関の前田山、東富士、そして横綱であった羽黒山から金星を取り、初の優勝決定戦へと進みました。

その後、1948年5月場所では大関東富士、横綱照国、を破り殊勲賞を受賞しております。そして関脇に昇進するも、自ら髷を切り落とし、力士を廃業してしました。そして、その体格を生かした仕事としてプロレスラーへと転身します。

功績2「日本プロレスを旗揚げ」

街頭テレビに集う人々

プロレスラーへと転身した力道山は興行会社として、興行界のドンとして知られた興行師・永田貞雄と二所ノ関部屋の後援者であった新田新作の助力の元、「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。この団体は、日本で最初に成功したプロレス団体として有名です。

力道山をエースに、シャープ兄弟との戦いをきっかけに日本中にプロレスブームを巻き起こしました。また、他団体である「国際プロレス団」の木村政彦、「全日本プロレス協会」の山口利夫を直接対決で下したことにより、相次いで競合団体は消滅し、日本で唯一のプロレス団体として君臨しました。

功績3「プロレスを国民的スポーツへ発展させる」

力道山対ルー・テーズ

昭和30年代は、敗戦直後という事もあり多くの日本人の中に反米感情というものがあったそうです。その時に、力道山が空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒す姿は痛快に映り、街頭テレビなどに集まるほどのプロレスブームを巻き起こしました。

また、力道山のライバルともいえる人物が「鉄人」の異名を持つルー・テーズです。1958年にルー・テーズの持つインターナショナルヘビー級王座を奪取したことにより、第二次プロレスブームを迎えました。それまで知名度のなかったプロレスというスポーツを国民的スポーツにまで人気を高めたのは力道山の功績かもしれません。

力道山の名言

人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければかみついても試合はできる。

「窮鼠猫を噛む」というように、危機的状況であっても何らかの力を発揮することが出来るという事を表した言葉。プロレスラーである以上、どんな状況であっても試合を成立させねばならない、という強いプロ意識を感じます。

男が人の上に立って成功するには、方法はたった一つしかない。それは過去に誰もやったことのないことを、一生懸命やることだ。

日本ではそれまで流行していなかったプロレスというジャンルにおいて、大成功を収めた力道山。その道のりは前例のないとても険しい、道のりだったのかもしれません。

3年間、私に預けなさい。きっと立派なレスラーにしてみせる。そしてブラジルに、日本のプロレスの花を咲かせるのだ。

ブラジルの市場で働いていた青年・猪木寛治(後のアントニオ猪木)をスカウトした時の言葉。実際に、猪木は日本のみならず世界に名を轟かせるレスラーとして大出世しました。

力道山にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「世紀の一戦!木村政彦戦のブック破り」

木村政彦

全日本選手権13度制覇し、15年間不敗伝説を持つ柔道家・木村政彦。柔道家として引退後、プロレスラーとなり、力道山とタッグを組み、シャープ兄弟と対決しました。しかし、プロレスに対応できず、力道山の引き立て役であったことへ不満を持ち、「真剣勝負なら負けない」と発言し、力道山との直接対決を申し込みました。

昭和の巌流島

「昭和の巌流島」と評されたこの戦いは、15分49秒、力道山のKO勝ちで幕を閉じました。しかし、後年、この試合について木村政彦側の念書が見つかり、本来は勝ち負けが決まっていた戦いであったことが暴露され、後にノンフィクション評伝「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」など後世にまで伝わる謎の多い一戦となりました。

都市伝説・武勇伝2「ジャイアント馬場・アントニオ猪木を見出した人物」

ジャイアンツ時代の馬場正平

1960年4月、元プロ野球選手からプロレスラーへと転身を遂げた選手がいました。それが、「東洋の大巨人」ことジャイアント馬場です。馬場は力道山にその素質を見込まれ、特別待遇として入門しましたが、実際は横暴な教育をしており、力道山について「人間として何一つ良いところの無い人でした」と後に発言しております。

力道山の付き人時代の猪木寛治

また、同時期にデビューした一人の青年がいます。それが、「燃える闘魂」ことアントニオ猪木です。猪木はサンパウロで、力道山からスカウトされ、付き人になりました。付き人時代は、靴ベラで殴られるなど壮絶な体罰を受け、「俺は力道山先生みたいに弱い者イジメだけはすまい」と心に誓ったそうです。

都市伝説・武勇伝3「経営者として様々な事業を立ち上げ」

リキマンション

プロレスラーとして活躍する一方で、実業家としても活躍していた力道山。赤坂などに高級住宅として「リキ・アパート」、「リキマンション」などを建設しておりました。リキマンションは現在も赤坂に現存し、賃貸マンションとして住むことも可能になっております。

リキスポーツパレス

また、日本プロレスの常設試合会場として地上9階建ての常設会場「リキ・スポーツパレス」を開設し、中にはボクシングジムやレストランなど一大複合ビルとして誕生しました。この他にも神奈川県の油壷や相模湖畔などにリゾート施設などを建設する計画もあったそうです。

力道山の簡単年表

1924年 - 0歳

朝鮮国咸鏡南道洪原郡新豊里(現・北朝鮮)の精米所の息子として出生しました。

1940年 - 16歳
二所ノ関部屋から初土俵入り

15歳のころ、朝鮮相撲の大会に出場し、その大会を観戦していた興行師の百田巳之吉にスカウトされ、日本へ渡り、二所ノ関部屋の力士として初土俵を踏みました。

1947年 - 23歳
入幕から2場所目で優勝決定戦へ進出

1946年から入幕を果たし、2場所目となる1947年6月場所で大関、横綱から金星を挙げ、この場所から導入された優勝決定戦に駒を進めました。結果は、羽黒山の優勝でしたが、その強さを発揮する結果となりました。

1950年 - 26歳
9月場所を前に突如廃業

その後、関脇へ昇進するも、1950年9月場所を前に自らの髷を切り落とし、突如廃業してしまいました。一説として、民族間の問題で大関へ昇進できないことに悩み髷を切り落とした、という説などが存在します。

1951年 - 27歳
ハロルド坂田と知り合い、プロレス転向

廃業後、現場監督として働いている時に、当時連合国軍の慰問などを兼ねたチャリティープロレスに出場していた日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い、プロレスれーになることを決意します。

1952年 - 28歳
ハワイにて沖識名の下で修行する

本格的にプロレスラーになるため、ハワイのホノルルにて日系人レスラーの沖識名の下で修業を積み、アメリカ本土へ渡り300戦にも渡るサーキット武者修行を経験し、日本へ帰国しました。

1953年 - 29歳
永田貞雄と共に「日本プロレス」を旗揚げ

帰国後、二所ノ関部屋時代からの後援者であった新田新作と興行界のドンこと永田貞雄の尽力により、興行団体「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。

1954年 - 30歳
シャープ兄弟と14連戦を繰り広げる

当時、世界タッグ王座を保持していたシャープ兄弟を招致し、2月19日の蔵前国技館選を皮切りに14連戦にもわたる興行を行い、これが大成功を収めました。

1954年 - 30歳
「昭和の巌流島」こと木村正彦戦を行う

先ほどの、シャープ兄弟とのタッグにおいて引き立て役として使われていたことに不満を持った木村政彦が、「真剣勝負なら負けない」と宣言し、力道山との直接対決を蔵前国技館で行いました。これが、後世に語り継がれる「昭和の巌流島」と呼ばれる一戦です。

1955年 - 31歳
アジアヘビー級王座を戴冠

1955年11月22日に日本プロレスが開催した「アジア選手権大会」にて、キングコングを破り力道山が優勝し、初代王者としてアジアヘビー級王座を戴冠しました。

1958年 - 34歳
ルー・テーズを破りインターナショナルヘビー級王座を獲得

1958年にNWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)が定めたインターナショナルヘビー級王座を巡り、力道山がルー・テーズからこれを奪取し、それまで下火になっていたプロレスブームを再び巻き起こしました。

1959年 - 35歳
第1回ワールド大リーグ戦を開催

新たな目玉カードとして日本プロレスは世界中にいるレスラーの中の頂点を決める大会として、「ワールド大リーグ戦」を開催しました。力道山は第1回から出場し、1963年まで5連覇を成し遂げています。

1963年 - 39歳
20年ぶりに、韓国を訪問

韓国側の招待に応じ、力道山は20年ぶりに祖国である朝鮮半島へと帰国しました。しかし、このことが東京中日新聞に報じられると、激怒したそうです。

1963年 - 39歳
ザ・デストロイヤー戦が平均視聴率64%を記録

1963年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権試合にて、白覆面ことザ・デストロイヤーを相手にした試合が、平均視聴率64%を記録しました。

1963年 - 39歳
ニューラテンクォーターにて刺傷事件が発生し、その傷により逝去

赤坂のニューラテンクォーターにて、反社会的勢力傘下の構成員であった村田勝志と口論の末、喧嘩となり、その際、腹部を刺され、このケガが元で力道山は39歳という若さでこの世を去りました。

力道山の年表

1923年 – 0歳「朝鮮にて生まれる」

日本統治時代の朝鮮

謎多き幼少期

力道山は自伝内にて、長崎県大村市の出身で百田家の長男として幼少期を過ごし、大村第二小学校ではいじめっ子から弱いものを守るために奮闘した、という記述が残っておりますが、これらのエピソードは全くの虚実であり、実際は日本統治下の朝鮮の出身の人物だったのです。

朝鮮国咸鏡南道洪原郡という片田舎の精米所の息子として出生した力道山は、本名を金信洛といい、兄である金恒洛は朝鮮相撲の横綱格まで登った人物と言われております。これらの出生に関して、本人から語られること自体少なく、在日朝鮮人であったことを機密事項にしておりました。

日本へ渡る

関釜連絡船

15歳の時、朝鮮相撲の大会に出場し、この時に貴賓席から見ていた百田巳之吉にスカウトされ、日本で力士になることを進められました。しかし、母親はこれに反対しておりました。植民地の人間が日本で虐待されるなどのイメージがあったために反対していたそうです。

その後、日本への渡航を頑なに拒否し続けた母親は、なんとしてでも信洛に残って貰うべく、花嫁を探し出し、幼馴染の女性と信洛を結婚させることにしました。しかし、信洛は日本へ渡り相撲を取ることを決め、家族と結婚相手を残し、日本へと渡航したのでした。

1940年 – 17歳「二所ノ関部屋から初土俵入り」

力士時代の力道山

二所ノ関部屋から力士になる

日本に渡った信洛は、百田巳之吉が後援幹事を務めていた二所ノ関部屋へと入門しました。入門後、「力道山 信洛」という四股名をもらい、1940年5月場所から序の口として初土俵入りし、1946年から11月から幕内力士として入幕しました。

その後、1947年6月場所では前頭8枚目ながら大関前田山、東富士、横綱羽黒山から星を上げ、9勝1敗の好成績を残し、優勝決定戦へと進出しました。また、1948年5月場所では大関東富士、横綱照国から星を上げ、優勝決定戦で不戦勝し、殊勲賞を受賞しました。

9月場所を前に突如廃業

力道山廃業の一報

その後、関脇へと昇進するも、1950年9月場所を前に、自ら髷を切り落とし、そのまま力士として廃業してしまいました。この廃業理由には様々な理由があり、その酒癖などの素行の悪さや金銭問題が積み重なり、それがきっかけとなり引退したという説などがあります。

また、当時相撲自体が資金難に見舞われており、この先の未来に不安を感じ、見切りをつけるべく廃業したという説。民族の壁に阻まれ、大関以上に昇進できないことを悩み、廃業を決意した、と諸説存在しております。

1952年 – 28歳「日本プロレスを旗揚げ」

ハロルド坂田

ハロルド坂田と知り合い、プロレス修行のためホノルルへ

廃業後、百田家の養子に迎え入れられ、二所ノ関部屋の後援者であった新田新作が営んでいた建設業の会社で現場監督として働いておりました。ある時、ナイトクラブでの喧嘩をきっかけに日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い、プロレスラーへの転向を勧められました。

その後、ハワイのホノルルにて、日系人レスラーの沖識名の下で修行を積み、アメリカへ渡り300戦のサーキットを経験し日本へと帰国しました。しかし、これらの話も作り話であった可能性が高く、同僚であった遠藤幸吉も300戦については疑問を呈しております。

プロレス団体「日本プロレス」を旗揚げ

帰国後、力道山は新田新作と興行界のドンと呼ばれた大物興行師の永田貞雄と共に、プロレス団体「日本プロレス」を旗揚げすることになりました。この団体のスポンサーとして北海道汽船炭鉱の常務であった萩原吉太郎など実業家たちが名を連ね、この背景には「フィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が背後についていたという噂があります。

また、団体発足に伴い「日本プロレスリングコミッショナー」が設立され、そこには自民党の副総裁であった大野伴睦や自治庁長官などを歴任した川島正次郎といった大物政治家たちが名を連ね、その中には後に総理となる中曽根康弘もおり、蜜月の関係性だったのが伺えます。

1954年 – 30歳「「昭和の巌流島」こと木村政彦と一戦を交える」

力道山組対シャープ兄弟

シャープ兄弟を招致し初興行を開催

興行の目玉カードとして、世界タッグ王座を保持していたシャープ兄弟を招致し、柔道王・木村政彦とタッグを組み、2月19日の蔵前国技館を皮切りに14連戦にもわたる興行を開催。この試合は日本発の国際試合として認定されております。

この試合はテレビ中継も行われ、結果として、大成功を収め、全国にプロレスブームを巻き起こしました。但し、このシャープ兄弟が保持していた世界タッグ王座というのは、あくまでも「世界で一番の」というものではなく、「カナダローカルの世界タッグ王座」であり、誇大広告であった可能性があります。

昭和の巌流島

「昭和の巌流島」木村政彦との一戦

この興行の際、引き立て役扱いであったことに不満を持った木村政彦は、自ら「国際プロレス団」という団体を立ち上げ、朝日新聞記者に対し「真剣勝負なら負けない」という旨を発言し、12月22日に昭和の巌流島と呼ばれる一戦を繰り広げ、結果、力道山のKO勝ちという結果を収めました。

ですが、この試合については未だに謎が多く、力道山側の一方的なブック破りなど、不可解な点の多い試合として語り継がれております。また、力道山は試合の翌日に木村政彦側から送られた念書を大々的に公開するなど、木村側の報復を恐れていたそうです。

1958年 – 34歳「ルー・テーズを破りインターナショナルヘビー級王座を獲得」

グレートアントニオ

プロレス人気が下火に

第一次プロレスブームが去り、1957年ごろからプロレスブームは徐々に下火へとなっていきました。力道山は、この状態を打破すべく、様々な外国人レスラーを招致するといった、プロモーターとしての活動も行っていきます。

また、選手をプロデュースする能力にも長けており、こうしたプロデュースにより、外国人レスラーを強く見せるといった手法をとっておりました。例を挙げると、グレート・アントニオというレスラーにはバスを4台引っ張るというパフォーマンスを提案し、怪力レスラーとして記者に紹介しておりました。

ルー・テーズとの熱戦

ルー・テーズと力道山

1958年にロサンゼルスにてルー・テーズが保持するインターナショナルヘビー級王座に力道山は挑戦し、ベルトを奪取することに成功。これにより、再びプロレス人気に火が付き、日本プロレスの至宝として様々な外国人レスラーと戦う目玉カードとして、力道山は19度防衛しました。

しかし、このインターナショナルヘビー級王座というのも力道山の創作した話であったという説など諸説あります。このベルトは力道山の逝去後に封印され、後にジャイアント馬場が立ち上げた全日本プロレスで復活し、現在は全日本の至宝である「三冠ヘビー級王座」の1本に包含されております。

1962年 – 38歳「WWA世界ヘビー級王座に追認」

ジャイアント馬場とアントニオ猪木

ジャイアント馬場、アントニオ猪木をスカウト

1960年、同時期に2人の青年をプロレスラーとしてスカウトしました。1人が、元ジャイアンツの投手であった馬場正平。もう1人は、ブラジルのサンパウロの市場で働いていた猪木寛治。この二人を新たなスターにすべく日本プロレスへと入門させました。

練習生時代は特に厳しく、猪木は靴ベラで殴られる、ゴルフクラブで殴打する、といった壮絶な体罰を受けておりました。また、馬場にも我慢を強要させるといった横暴な一面がありました。しかし、力道山が一番かわいがっていたのは、同じく韓国から帰化した2人の1年先輩である大木金太郎だったそうです。

フレッド・ブラッシーとNAWA世界王座を争う

力道山とフレッド・ブラッシー

1962年、力道山は「銀髪鬼」として恐れられたフレッド・ブラッシーが保持するNAWA王座へと挑戦しました。フレッド・ブラッシーは噛みつき攻撃を得意とするレスラーで、歯をやすりで削るパフォーマンスを得意としてました。ちなみに、このパフォーマンスを提案したのも力道山です。

試合に勝利し奪取するも、ブラッシー側からクレームがつき、その結果、新たな王座として「WWAヘビー級王座」が誕生し、その初代王者という事で追認されました。この、WWA王座は、NWA世界ヘビー級王座から分裂したものであり、後に統一されることになります。

1963年 – 39歳「赤坂のニューラテンクォーターで刺傷事件が起こる」

力道山対ザ・デストロイヤー

ザ・デストロイヤー戦の視聴率が64%を記録

1963年5月24日に東京体育館にて行われたWWA世界ヘビー級選手権試合にて、ザ・デストロイヤーと戦った力道山。この試合は、足4の字固めでデストロイヤーが力道山を苦しめるも、決着がつかず引き分けという裁定になりました。この試合で、平均視聴率64%を記録しました。

デストロイヤーはその後、日本プロレスの外国人レスラーとして人気を博し、日本テレビ系列のバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!」にてそのキャラクターを生かし、プロレスファン以外にもお茶の間に親しまれるレスラーとして活躍しました。

池上本門寺内の力道山の墓

ニューラテンクォーターで刺傷、そして逝去

1963年12月22日、赤坂のニューラテンクォーターにて反社会的勢力傘下の構成員である村田勝志と口論になり、喧嘩沙汰となり腹部を刺された力道山は知り合いの医師がいる山王病院へと入院。その後、怪我は回復するも結局、医療事故のため、39歳という若さで逝去しました。

この入院生活中にも諸説あり、入院中に腹膜炎となり食事制限をされていたにもかかわらず、付き人に出前などを取らせ、さらには厳禁である飲酒などをしたことが原因で亡くなった、という説などがあります。配偶者であった田中敬子さんはこれらを否定しており、実際の真相も秘密となっております。

1972年 – 「日本プロレス、崩壊」

豊登

力道山の死後の日本プロレス

力道山亡き後、社長となったのが豊登というレスラーです。社長兼エースとなった豊登は元レスリング選手である斎藤昌典(後のマサ斎藤)、元ラグビー選手である草津正武(後のグレート草津)といった、アマチュアスポーツ選手を日本プロレスへ入団させました。

しかし、博打好きであった豊登の公金横領が問題となり事実上の追放という名の退職をさせられました。豊登は日プロへ復讐すべく、「東京プロレス」を立ち上げ、猪木を引き抜くことに成功するも、興行は失敗し、東京プロレスは解散。猪木は再び日プロへと復帰しました。

BI砲

新日本プロレス、全日本プロレス、旗揚げ

1966年から日本プロレスの新たなエースとして、ジャイアント馬場が抜擢されアントニオ猪木とのタッグ「BI砲」として活躍しました。しかし、幹部や経営陣などの怠慢により、レスラー達は会社に改善要求を突きつけようとするも、上田馬之助の密告により、猪木のみが日プロから除名されてしまいます。

その後、猪木は日プロから脱退した山本小鉄、柴田勝久、藤波辰巳らを引き連れ、1972年に新団体「新日本プロレス」を旗揚げします。馬場も続くように、「全日本プロレス」を旗揚げし、次第に日本プロレスはテレビ中継などを打ち切られ、1973年に興行を停止し、解散となりました。

2017年 – 「WWE殿堂にてレガシー部門を受賞」

レッスルキングダム

その後のプロレス界

その後、新日本から枝分かれした団体「UWF」による格闘プロレスや、「FMW」「大日本プロレス」と言ったデスマッチ系団体、「みちのくプロレス」「大阪プロレス」といった地方団体など、多団体時代を迎えることになりました。

一時期は、「PRIDE」などの総合格闘技ブームに押されるも、2010年代以降ブシロード体制となった新日本プロレスのV字回復などもあり、現在も日本のプロレスは世界中から注目されております。こうしたブームの背景には、力道山が広めた功績が残っております。

殿堂の模様

WWE殿堂にて、レガシー部門を受賞

2017年、世界最大の団体と呼ばれる「WWE」にてプロレスにおいて顕著な功績を残した人物に贈られるWWE殿堂こと「ホール・オブ・フェーム」のレガシー部門にて、力道山が選出されこれを受賞しました。

レガシー部門にはプロレス創世期に活躍した人物などが受賞されており、力道山は日本人初となるレガシー部門受賞、WWE殿堂にはアントニオ猪木、藤波辰爾に次いで日本人3番目となる受賞をされました。亡くなってから50年以上経過した今でも、プロレスファンの中には偉人として称えられております。

力道山の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

力道山の真実

人間・力道山について描かれた一冊。レスラー以外の側面も描かれており、人として難しい人物であったんだなと言う印象を受けております。また、1991年に行った村田勝志へのインタビューが掲載されており、加害者側からの刺傷事件の顛末が分かる一冊となっています。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

「昭和の巌流島」で敗れた木村政彦を取り上げたノンフィクション評伝。グレイシー柔術の始祖であるエリオ・グレイシーを破るなど、柔道家として活躍していた木村政彦の生涯と、力道山との遭遇について描かれております。

父・力道山

力道山の次男である百田光雄さんが描いたエッセイ。レスラーとしてだけでなく、父親としての地面を描いた評伝となっており、あまり見せなかった家庭的な一面を垣間見えることが出来る作品となっています。

おすすめの動画

「今こそJAPANに力道山!」~空手チョップに込められた願い~力道山夫人:田中敬子さん

力道山の配偶者であった田中敬子さん出演の動画。ここでしか聞けない力道山との秘話が聞ける動画となっております。

1954.12.22 プロレスリング日本選手権 “昭和の巌流島”

「昭和の巌流島」と呼ばれた世紀の一戦を取り上げた動画。モノクロ映像ながらも、試合での気迫が伝わってきます。

おすすめの映画

力道山

力道山の生涯を独自の解釈を交えつつ、モデルにした作品。日韓合作でありながら、日本人レスラーが多数出演しております。

関連外部リンク

力道山についてのまとめ

力道山について、日本プロレスの父ではあるものの、その人間性などはあまり評価できない一面が多かった人物だったんだな、と言うのが分かりました。ですが、プロレスラーとして魅せる試合が多かったことは事実であり、その礎は現在のプロレスにも通じております。

よく、「プロレスは八百長だ」という言い方をする人がいますが、プロレスは自らの肉体を酷使し、命を削りながら誰かに感動を与えるスポーツだと個人的には思います。例え、結果が分かっていようとも、人々の記憶に残るような試合をしていた力道山は偉大な先駆者のひとりであったのだと思います。

これをきっかけに、力道山という人物に興味を持っていただければ幸いです。

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