力道山とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家族構成、戦績や死因についても紹介】

1963年 – 39歳「赤坂のニューラテンクォーターで刺傷事件が起こる」

力道山対ザ・デストロイヤー

ザ・デストロイヤー戦の視聴率が64%を記録

1963年5月24日に東京体育館にて行われたWWA世界ヘビー級選手権試合にて、ザ・デストロイヤーと戦った力道山。この試合は、足4の字固めでデストロイヤーが力道山を苦しめるも、決着がつかず引き分けという裁定になりました。この試合で、平均視聴率64%を記録しました。

デストロイヤーはその後、日本プロレスの外国人レスラーとして人気を博し、日本テレビ系列のバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!」にてそのキャラクターを生かし、プロレスファン以外にもお茶の間に親しまれるレスラーとして活躍しました。

池上本門寺内の力道山の墓

ニューラテンクォーターで刺傷、そして逝去

1963年12月22日、赤坂のニューラテンクォーターにて反社会的勢力傘下の構成員である村田勝志と口論になり、喧嘩沙汰となり腹部を刺された力道山は知り合いの医師がいる山王病院へと入院。その後、怪我は回復するも結局、医療事故のため、39歳という若さで逝去しました。

この入院生活中にも諸説あり、入院中に腹膜炎となり食事制限をされていたにもかかわらず、付き人に出前などを取らせ、さらには厳禁である飲酒などをしたことが原因で亡くなった、という説などがあります。配偶者であった田中敬子さんはこれらを否定しており、実際の真相も秘密となっております。

1972年 – 「日本プロレス、崩壊」

豊登

力道山の死後の日本プロレス

力道山亡き後、社長となったのが豊登というレスラーです。社長兼エースとなった豊登は元レスリング選手である斎藤昌典(後のマサ斎藤)、元ラグビー選手である草津正武(後のグレート草津)といった、アマチュアスポーツ選手を日本プロレスへ入団させました。

しかし、博打好きであった豊登の公金横領が問題となり事実上の追放という名の退職をさせられました。豊登は日プロへ復讐すべく、「東京プロレス」を立ち上げ、猪木を引き抜くことに成功するも、興行は失敗し、東京プロレスは解散。猪木は再び日プロへと復帰しました。

BI砲

新日本プロレス、全日本プロレス、旗揚げ

1966年から日本プロレスの新たなエースとして、ジャイアント馬場が抜擢されアントニオ猪木とのタッグ「BI砲」として活躍しました。しかし、幹部や経営陣などの怠慢により、レスラー達は会社に改善要求を突きつけようとするも、上田馬之助の密告により、猪木のみが日プロから除名されてしまいます。

その後、猪木は日プロから脱退した山本小鉄、柴田勝久、藤波辰巳らを引き連れ、1972年に新団体「新日本プロレス」を旗揚げします。馬場も続くように、「全日本プロレス」を旗揚げし、次第に日本プロレスはテレビ中継などを打ち切られ、1973年に興行を停止し、解散となりました。

2017年 – 「WWE殿堂にてレガシー部門を受賞」

レッスルキングダム

その後のプロレス界

その後、新日本から枝分かれした団体「UWF」による格闘プロレスや、「FMW」「大日本プロレス」と言ったデスマッチ系団体、「みちのくプロレス」「大阪プロレス」といった地方団体など、多団体時代を迎えることになりました。

一時期は、「PRIDE」などの総合格闘技ブームに押されるも、2010年代以降ブシロード体制となった新日本プロレスのV字回復などもあり、現在も日本のプロレスは世界中から注目されております。こうしたブームの背景には、力道山が広めた功績が残っております。

WWE殿堂にて、レガシー部門を受賞

トロフィーは息子でプロレスラーの百田光雄に手渡された
出典:日刊スポーツ

2017年、世界最大の団体と呼ばれる「WWE」にてプロレスにおいて顕著な功績を残した人物に贈られるWWE殿堂こと「ホール・オブ・フェーム」のレガシー部門にて、力道山が選出されこれを受賞しました。

レガシー部門にはプロレス創世期に活躍した人物などが受賞されており、力道山は日本人初となるレガシー部門受賞、WWE殿堂にはアントニオ猪木、藤波辰爾に次いで日本人3番目となる受賞をされました。亡くなってから50年以上経過した今でも、プロレスファンの中には偉人として称えられております。

力道山の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

力道山の真実

人間・力道山について描かれた一冊。レスラー以外の側面も描かれており、人として難しい人物であったんだなと言う印象を受けております。また、1991年に行った村田勝志へのインタビューが掲載されており、加害者側からの刺傷事件の顛末が分かる一冊となっています。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

「昭和の巌流島」で敗れた木村政彦を取り上げたノンフィクション評伝。グレイシー柔術の始祖であるエリオ・グレイシーを破るなど、柔道家として活躍していた木村政彦の生涯と、力道山との遭遇について描かれております。

父・力道山

力道山の次男である百田光雄さんが描いたエッセイ。レスラーとしてだけでなく、父親としての地面を描いた評伝となっており、あまり見せなかった家庭的な一面を垣間見えることが出来る作品となっています。

おすすめの動画

「今こそJAPANに力道山!」~空手チョップに込められた願い~力道山夫人:田中敬子さん

力道山の配偶者であった田中敬子さん出演の動画。ここでしか聞けない力道山との秘話が聞ける動画となっております。

1954.12.22 プロレスリング日本選手権 “昭和の巌流島”

「昭和の巌流島」と呼ばれた世紀の一戦を取り上げた動画。モノクロ映像ながらも、試合での気迫が伝わってきます。

おすすめの映画

力道山

力道山の生涯を独自の解釈を交えつつ、モデルにした作品。日韓合作でありながら、日本人レスラーが多数出演しております。

関連外部リンク

力道山についてのまとめ

力道山について、日本プロレスの父ではあるものの、その人間性などはあまり評価できない一面が多かった人物だったんだな、と言うのが分かりました。ですが、プロレスラーとして魅せる試合が多かったことは事実であり、その礎は現在のプロレスにも通じております。

よく、「プロレスは八百長だ」という言い方をする人がいますが、プロレスは自らの肉体を酷使し、命を削りながら誰かに感動を与えるスポーツだと個人的には思います。例え、結果が分かっていようとも、人々の記憶に残るような試合をしていた力道山は偉大な先駆者のひとりであったのだと思います。

これをきっかけに、力道山という人物に興味を持っていただければ幸いです。

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