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アントニオガウディとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作、名言についても紹介】

アントニオガウディは、19世紀末から20世紀初頭にかけてスペインのバルセロナで活躍した建築家です。カタルーニャ地方出身であったガウディは、カタルーニャ・モダニズムという芸術の復興期にあったバルセロナにおいて、唯一無二の名建築をいくつも世に生み出しました。

彼の建築スタイルの特徴は、自然や動植物をモチーフとした自由で独創的な造形と、色鮮やかで芸術的な装飾にあります。そんなユニークで幻想的な世界観を持つガウディの建築は、一度見たら忘れられないインパクトを放ちます。

また、自然力学に則ったシンプルで合理的な構造は、その後の多くの建築家たちに影響を与えてきました。ガウディの残した作品は時代を超えて世界中の人々に愛され、1984年にはその作品群がユネスコ世界文化遺産に登録されています。

サグラダ・ファミリア大聖堂

また、ガウディの功績を語る上で避けては通れないのが、「サグラダ・ファミリア大聖堂」の建築です。彼は31歳で専任建築士に任命されてから73歳で亡くなる日まで、人生をかけてこの大作に取り組みました。

着工当初、ガウディが描いた構想を実現するのにはなんと300年の月日がかかると想定されたそうです。自分の生きている内に完成させるのが不可能な建築だと分かっていながら、ガウディは建設をスタートさせたのでした。

そして、ガウディの死から100年以上経った現在でも、その意思を継ぎサグラダ・ファミリアの建設は続けられています。

今回は、アントニオガウディの功績や生涯、性格、家族や、独身を貫いた彼の恋模様についても詳しく解説していきます。この記事を読み終えたとき、偉大な建築家アントニオガウディを、きっと一人の人間としても身近に感じられるようになりますよ。

アントニオガウディとはどんな人物か

名前アントニオ・ガウディ
誕生日1852年6月25日
没日1926年6月10日
生地スペイン カタルーニャ地方 タラゴナ
没地スペイン カタルーニャ地方 バルセロナ
配偶者なし
埋葬場所サグラダ・ファミリア

アントニオガウディの生涯をハイライト

アントニオ・ガウディ

まず、アントニオガウディの生涯について、簡単にご説明します。

1852年6月25日、アントニオガウディはスペインのカタルーニャ地方タラゴナで誕生します。リウマチに苦しみ、ほかの子どものように自由に走り回ることができなかったガウディは、銅板加工の職人だった祖父や両親の仕事をじっと眺めて過ごすのが好きでした。

そんなガウディが建築家に憧れを抱くようになったのは、高校時代に出会った親友たちとの交流がきっかけでした。漠然と「何か立体的なものを作る仕事がしたい」と考えていたガウディは、友人たちに建築家を目指すことを勧められます。

友人の言葉に背中を押されたガウディは、本格的に建築家を目指すためバルセロナに移住します。建築専門学校で学び、苦学の末建築家の資格を取得したガウディは、早速個人での仕事を受注し始めます。

小さい仕事をコツコツとこなしていましたが、とある仕事がきっかけで後に最大のパトロンとなる大富豪エウセビ・グエルと出会います。

実業家エウセビ・グエル

その後ガウディは、前任の跡を引き継いでサグラダ・ファミリア大聖堂の専任設計者を任されます。それに加え、グエルの依頼で「グエル別邸」や「グエル邸」などの建設も並行して行い、ガウディは多忙な日々を送ります。

精神的に追い込まれながらも、依頼主に喜ばれる完璧な作品を作り上げることに情熱を注いだガウディ。こうして、一流の建築家としてガウディの名はバルセロナ中の富豪たちに知られることになり、彼はその後も多くの歴史的建造物を生み出していきました。

晩年のガウディは敬虔なカトリック信者に変貌し、仕事をサグラダ・ファミリアの建設一本に絞って作業に没頭するようになります。

ある日の夕方、ガウディはミサに出かけた道中で路面電車にはねられる事故に遭います。怪我を負ったガウディでしたが、そのとき放浪者のような身なりをしていたため、人々は彼がガウディだということに気がつかず十分な治療を受けることができませんでした。

ガウディは事故の3日後、73歳で息を引き取ります。ガウディの死をバルセロナ中の人々が悲しみ、盛大な葬式が執り行われました。ガウディは、サグラダ・ファミリアの地下聖堂に埋葬されました。

アントニオガウディの家族

ガウディ一家(一番奥にいるのがガウディ)

では、ガウディはどのような家族のもとで育ったのでしょうか。

ガウディの生まれた家は地元に代々続く銅細工職人の家系で、銅細工師だった父と母、兄と姉が一人ずつの計5人家族でした。夫婦には、幼くして亡くなった長男と次女がいました。身体の弱かったガウディは、両親の愛情をいっぱいに受けて幸せに育ちます。

しかし、ガウディが成長しバルセロナに移り住んだ後、医学部を目指していた兄が病気で亡くなり、そして後を追うように母親が他界します。ガウディは、故郷レウスにいた父親とバルセロナに住んでいた姉ロサとその娘とともにバルセロナで暮らし始めますが、程なくして姉のロサも亡くなってしまいます。

最愛の家族を次々に失ったガウディは、神の存在を否定するほどに落ち込みましたが、建築家になる夢を実現するため懸命に努力を続けました。彼らの分まで人生を精いっぱい生き抜こうという思いがあったからこそ、建築の世界で偉業を成し遂げることができたのかもしれません。

アントニオガウディの性格

自然に囲まれて育ったガウディ

ガウディは、とても繊細で内気な性格でした。小さい頃リウマチを患い、友達と遊ぶことができなかった彼は、いつも自然の中で動物や植物を観察して過ごしていました。よって人との交流に慣れておらず口下手だったため、ガウディは恋愛も苦手で生涯独身を貫いています。

一方で、建築家となったガウディは自分の仕事に携わる職人たち一人ひとりに真摯に向き合い、大切にしたというエピソードもあります。建設の現場でも、問題のある職人に対しすぐクビにしたり怒鳴ったりするのではなく、時間をかけて正しい方法を丁寧に教えたと言います。

晩年は不幸が続いたことで人を避けるようになってしまったガウディですが、上っ面ではない本当の繋がりを大切にする、人に対してとても誠実で心優しい人物だったのでしょう。

アントニオガウディの女性事情

内気な性格で恋愛が苦手だった

生涯を通して独身だったガウディでしたが、人生で3度の恋を経験していました。

1人目は、ガウディが20代後半の頃にマタロという町で出会った教師のペピータ・モレウという女性です。知り合った当時ペピータは、夫との離婚手続きの最中でした。そんな彼女にガウディはぞっこんだったようで、離婚が成立するまでの5年間、ペピータの実家に毎週のようにご飯を食べに行っていたというエピソードが残っています。

しかし、離婚が成立してすぐにプロポーズしたものの、なんとそのときペピータには別の婚約者が。婚約指輪を見せられたガウディのショックは、いかほどのものだったのでしょうか。

2人目は、教会で出会った女性です。ガウディが一目ぼれをして告白するも、その女性は尼になることを決めていたため恋は成就しませんでした。

3人目は、知人のパーティーで出会ったフランス人の女性でした。芸術話で意気投合したことで、ガウディは彼女こそ運命の女性だと確信します。しかし、不幸にも彼女にも婚約者がおり、これがガウディにとって3度目の失恋となってしまいます。

ガウディにとって失恋の痛手は大きく、これが彼が建築に没頭するようになった原因のひとつだったとも言われています。

アントニオガウディの功績

功績1「カタルーニャ・モダニズム時代の建築界を牽引」

カタルーニャ・モダニズムの代表的な建築『カサ・バトリョ』

ガウディは、カタルーニャ・モダニズム時代のバルセロナの建築界を牽引し、後世に残る名建築をいくつも生み出しました。

カタルーニャ・モダニズムとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてバルセロナを中心に発展した、新しい芸術様式のことを指します。それは、フランスで興っていた「アール・ヌーヴォー」とイスラム文化を融合させた、カタルーニャ独自の芸術思潮でした。

カタルーニャ生まれのガウディは、この独自の芸術様式を象徴するような曲線や華やかな装飾が施された建築を数多く残し、カタルーニャ・モダニズムを代表する巨匠のひとりとして語り継がれています。

功績2「未完の傑作サグラダ・ファミリアを生涯をかけて建設」

サグラダ・ファミリア

ガウディの偉業の中でで最も有名だと言えるのが、バルセロナのサグラダ・ファミリア大聖堂の建築でしょう。ガウディはこの教会の設計において斬新で革新的なアイデアを次々と盛り込み、その完成にはなんと300年もの年月がかかると想定されました。

資金不足や、ガウディの親族や友人の死によって工事は何度も中断しましたが、ガウディはその度に建築計画や設計を見直し、徹底的にその完成度を追究したと言います。

ガウディが31歳で引き受けたサグラダ・ファミリアの建設はいつしか彼の人生そのものとなり、晩年は教会内に住みついて建築に没頭しました。

しかし、ガウディは1926年に路面電車にはねられて73歳で命を落とします。サグラダ・ファミリアはガウディの意思を継ぎ、残された数少ない資料をもとに、現在もなお建築家たちによって建設が続けられています。

功績3「手がけた建築の作品群が世界文化遺産に」

たくさんの観光客が訪れるグエル公園

ガウディの手がけた建築の一部が「アントニ・ガウディの作品群」として1984年にユネスコ世界文化遺産に登録され、その後2005年に追加で作品が登録されました。

個性的でファンタジックな雰囲気を持ちながらも周囲の自然や街並みに溶け込み、地元民に愛されているガウディの建築。その唯一無二の造形美と合理的な構造設計から、人類が後世に残していくべき作品として高く評価されています。

なお、現在世界遺産に登録されているのは、以下の7つの作品です。

  • サグラダ・ファミリアの「生誕のファサードと地下礼拝堂」
  • グエル公園
  • グエル邸
  • カサ・ミラ
  • カサ・ビセンス
  • カサ・バトリョ
  • コロニア・グエル教会

これらの作品群はバルセロナの街で圧倒的な存在感を放ち、現在でもバルセロナ観光の必見ポイントとして、世界中から多くの人々が見物に訪れています。

アントニオガウディの名言

ガウディの芸術に対する考えが表れている

世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である。

豊かな自然に囲まれ、生き物や草花と触れ合って育ったガウディ。彼の建築のアイデアは何もないところから生まれるのではなく、身の回りに存在するものを観察することで得られるものばかりでした。

創造性というのは、既存のものを注意深く観察しそこからヒントを得ることから生まれるという、ガウディの信念が感じられる言葉です。

美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない。

ガウディは、自然の中にあるものこそが美しく、最も安定していると考えていました。その考えを自身の作品にも反映し、彼の建築には自然法則を利用したシンプルな構造が取り入れられています。

半信半疑だった職人たちに対し、その構造の安定性を自信たっぷりに説いたガウディ。100年以上経った現在も当時のままの美しさを保っているガウディの建築こそ、この言葉の証明を証明していると言えるでしょう。

芸術作品というのは誘惑的なものじゃないとならない。また、オリジナルすぎても誘惑の度合いを失ってしまい、それは芸術作品ではなくなってしまう

ガウディの芸術における考えを示した名言です。芸術作品は、見る人にとって魅力的で理解されるものでなければならず、その独自性ばかりを追究するべきではないという考えを語っています。

依頼主の意見にあくまでも忠実で、周囲の建物への配慮も欠かさなかったというガウディの、作品作りにおける謙虚さが感じられる言葉です。

アントニオガウディにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「サグラダ・ファミリア着工時は無神論者だった」

信仰への迷い

「神の建築家」と呼ばれ、敬虔なカトリック教信者として知られているガウディ。しかし、サグラダ・ファミリアを建設し始めた当時のガウディは、神を信じない無神論者でした。

建築家を目指してバルセロナに来てから、ガウディにとって不幸な出来事が続きました。最愛の兄、母、そして姉を次々に失ったのです。大切な人を自分から次々に奪う神に対し、ガウディは怒りを覚え、信仰心を完全に失ってしまいます。

その後サグラダ・ファミリアの仕事の依頼を受けたとき、無神論者として生きていたガウディは教会建設の仕事を「あくまでも建築の仕事」と割り切って引き受けました。しかし、建設を進めるうちにガウディには信仰心を持たないことへの迷いが生まれ、徐々にキリスト教に向き合うようになります。

そして、次第にキリスト教が孤独だったガウディの心の拠り所となっていったのでした。

都市伝説・武勇伝2「40日間にわたる断食を行い生死をさまよう」

精神的に追い込まれたガウディ

建築家として高く評価されていたガウディは、多くの仕事を掛け持ちする忙しい日々を過ごします。サグラダ・ファミリアの建設という大仕事も並行して続けていたガウディは、プレッシャーに押し潰されそうになっていました。

そこでガウディは、神の声を聞くためにイエス・キリストに習って40日間の断食を行うことにします。

ガウディは厳しく自分を戒め、2週間ほどで生死をさまようほどに衰弱してしまいます。見かねた神父がガウディを説得して断食は中止となり、ガウディは何とか一命を取りとめたと言います。

都市伝説・武勇伝3「晩年は身なりにかなり無頓着だった」

いつもボロボロの服を着ていた

晩年のガウディは、建築に熱中するあまり身なりには相当無頓着だったそうです。

サグラダ・ファミリアの建設を自らの最後の使命としたガウディは、作業に没頭するため教会内の事務所にこもるようになります。ガウディはいつも浮浪者のようなみすぼらしい格好をしており、サグラダ・ファミリアの警備員にもガウディだと分からず追い返されそうになったこともあったようです。

ただ、そんなガウディも、自身の最大の理解者であったグエルが亡くなったときは、最期の祈祷に正装で参加したと言います。

アントニオガウディの簡単年表

1852年 - 0歳
アントニオガウディの誕生
アントニオガウディの誕生

カタルーニャ地方南部のタラゴナにて、銅細工士の父フランセスクと母アントニアのもとに三男として誕生します。長男と次女を幼くして亡くしていた夫婦は、身体の弱かったガウディを愛情たっぷりに育てました。

1863年 - 11歳
ピアリスト修道会の学校に入学
地元の学校に入学

ガウディは11歳の時、貧しい家庭の子どもたちのためにピアリスト修道会が運営していた学校に入学します。ここで出会ったエドワルドとホセという2人の親友と、ガウディは将来について語り合ったり小旅行に出かけたりと少年時代を謳歌します。

1873年 - 21歳
バルセロナ県立建築専門学校に入学
建築の現場で経験を積む

バルセロナに移住したガウディは、専門学校で建築を本格的に学び始めます。勉強のかたわら、生活費を稼ぐために設計事務所でのアルバイトにも精を出しました。建築家たちのもとで働いた経験は、ガウディにとって将来への大きな財産になりました。

1878年 - 26歳
建築士の資格を取得
建築士として働き始める

アルバイト専門学校に入学してから5年後ついにガウディは建築士の資格を取得します。学校を卒業後、建築家の助手として働きながらガウディは個人でも小さな仕事を受注し始めます。

1883年 - 31歳
サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に任命される
サグラダ・ファミリア

まだ無名だったガウディは、サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に指名されます。聖堂は、前任の建築家によって途中まで出来あがっていましたが、ガウディは新たな設計を考案。思い描く完璧な教会を目指し、その後生涯をかけて建設に取り組みます。

1887年 - 34歳
グエル邸に着工
グエル邸の鉄門

パリ万博をきっかけに知り合った実業家グエルから、ガウディは邸宅の建築の依頼を受けます。作成した20以上の案から、ガウディは実験を重ねていた放射線型アーチを取り入れた設計を採用。完成した邸宅は新聞にも取り上げられ、ガウディの名はバルセロナ中の富豪たちに一気に知れわたりました。

1898年 - 46歳
コロニア・グエル教会の建設に着工
完成したコロニア・グエル教会の地下聖堂

ガウディは、グエルによるスペイン初の労働者向けコロニー(共同住居地)の建設プロジェクトに招かれます。担当した教会建築のための模型作りに、ガウディは10年の歳月をかけました。しかし、結局工事は依頼主の都合で打ち切りとなり、教会は未完成に終わります。

1900年 - 48歳
グエル公園の建設に着工
グエル公園

当時バルセロナは工業化が進んでいました。そこでグエルは、人々が芸術と自然に囲まれて暮らすことができる住宅地を作りたいと考え、ガウディに相談します。

ガウディはその構想を聞くやいなや、設計図を描くこともなくすぐに建設に取り掛かりました。その後14年をかけて、広大な庭園都市グエル公園を完成させます。

1904年 - 52歳
カサ・バトリョの改築に着工
カサ・バトリョ

ガウディは繊維業者ホセ・バトリョにより、邸宅の改築を依頼されます。もともと4階建てだった建物にガウディは5階と地下室を増築。外部・内部ともに大胆な改築を行い、風変りでありながらも温かみのある、ユニークな建物に変貌させました。

1906年 - 54歳
カサ・ミラの建設に着工
カサ・ミラ

ガウディは実業家ペレ・ミラに邸宅の建設を依頼されます。地中海の美しさを表現した邸宅は、その独特の外観から当時の人々に醜悪なデザインと批評されてしまいますが、ガウディ自身はその完成度に満足していました。

1926年 - 73歳
ミサに向かう途中で路面電車にはねられ亡くなる
晩年のガウディ

1926年6月7日、教会のミサに出かけたガウディは路面電車にはねられてしまいます。身なりに無頓着だったガウディは浮浪者と間違われて処置が遅れてしまい、3日後に病院で息をひきとります。ガウディの突然の死は、バルセロナ中の人々に大きな衝撃と悲しみを与えました。

アントニオガウディの年表

1852年 – 0歳「アントニオガウディの誕生」

勉強は苦手だったガウディ

銅細工師だった両親の影響

ガウディの両親は、地元に代々伝わる銅細工の職人でした。身体が弱く、他の子どものように走り回ることができなかったガウディは、両親の仕事場に顔を出しては、平らな銅板が立体的なものへ変わっていく様子をいつも興味深々で眺めていたと言います。

この過程でガウディは、空間を把握する能力を身につけ、建築家への憧れを抱き始めます。

勉強が苦手だったガウディ

偉大な建築家として知られるガウディですが、実は幼少期は勉強が大の苦手でした。持病のために学校を休みがちだったこともありますが、唯一好きだった工作以外は、勉強は得意ではなく単位を落としてしまうことも多かったようです。

田舎の豊かな自然に囲まれて育ち、周囲にあるものを観察するのが好きだったガウディは、論理的に物事を考えるよりも、独自のセンスでものの形をとらえ、創造する能力に秀でていたのです。

1863年 – 11歳「ピアリスト修道会の学校に入学」

友人に恵まれたガウディ

建築家になる意志を確固たるものに

11歳でガウディは、ピアリスト修道会が運営する学校に入学します。ここで、ガウディにはエドワルドとホセという2人の親友ができました。

3人はオリジナルの週刊誌を発行し、その中でガウディは挿絵を担当しました。また、演劇用の道具を作ったり、遺跡や建築を見に小旅行に出かけ、廃墟となっていたポブレー修道院の修復計画も立てるなど、さまざまな経験をします。これらの経験を通して、ガウディは立体物への関心を高めていきました。

また、3人は将来の夢についても語り合いました。「立体的なものを造る人になりたい」という漠然とした夢を語ったガウディに対し、2人は「それなら建築家になればいいよ」と背中を押します。この言葉で、ガウディは本格的に建築家を目指すことを決意したのでした。

バルセロナへ移住

一刻も早く建築の勉強を始めたかったガウディは、カタルーニャの中心バルセロナに移住することを決めます。そして、バルセロナで医学部で勉強していた兄フランセスクと一緒に暮らし始めました。

当時のバルセロナは都市拡大計画のもと、急速に発展を遂げていた大都市。都会での暮らしは慣れないことばかりでしたが、ガウディは夢のためにピアリストで落とした単位を取得し、バルセロナ県立建築専門学校へ進む準備を整えます。

1873年 – 21歳「バルセロナ県立建築専門学校に入学」

建築家を目指し勉強に励む

地元の建築家たちのもとで実務経験を積む

バルセロナ県立建築専門学校の予科に入学したガウディ。実家からの仕送りだけでは生活費が足りず、アルバイトをしながら勉強に励みます。

ガウディのバイト先は、建築現場や設計事務所でした。職人や建築家のもとで生の建築に触れ、ガウディは知識と経験を積み上げていきました。

最愛の兄と母の死

夢の実現に向けて走り出したガウディを、突然の悲劇が襲いました。バルセロナで支え合って暮らしていた最愛の兄フランセスクが、病気により25歳の若さで亡くなったのです。尊敬していた兄の死は、ガウディに大きなショックを与えました。

しかし、家族を支えるためにも、ガウディは建築家になる夢を叶えるべく学業に打ち込みました。そんな中、さらなる不幸がガウディを襲います。兄の死から2ヵ月後、その後を追うかのように母のアントニアが亡くなったのです。

最愛の人を次々に亡くしたことで、ガウディは神への信仰心を完全に失いました。

1878年 – 26歳「建築士の資格を取得」

最初の作品『レイアール広場の街灯』

一番最初の仕事「レイアール広場の街灯」を手がける

数々の苦難を乗り越え、念願の建築士の資格を取得したガウディ。学校を卒業後、建築家の事務所で助手として働きながら、建築士としてのキャリアをスタートさせます。

ガウディが一番初めに得た仕事は、市からの依頼で手がけた「レイアール広場の街灯」でした。この作品のユニークなデザイン性が好評を博し、その後新たな仕事の受注にも繋げることができました。

生涯のパトロンとなるグエルとの出会い

次にガウディが手がけたのは、パリ万国博覧会で展示を行う革手袋ショップのショーケースの製作でした。ガウディは、本心では早く建築の仕事をしたいという気持ちでしたが、依頼主の思いに応え希望通りのショーケースを造り上げます。

しかし、この仕事がガウディの運命を大きく変えることになります。作ったショーケースが、パリ万博にてスペインの若手実業家エウゼビ・グエルの目にとまったのです。

ガウディの才能を確信したグエルは、彼を支援することを決意し本人を直接訪問。その後2人は、ともに歴史に残る数々の素晴らしい作品を世に生み出すことになります。

1883年 – 31歳「サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に任命される」

カサ・ビセンス

最初の建築の仕事となる「カサ・ビセンス」を設計

建築士の資格を取得して5年間が経った頃、ガウディのもとに念願の建築の仕事が舞い込みます。それは、レンガやタイル工場を運営していたマヌエル・ビセンスの邸宅「カサ・ビセンス」の建築でした。

ガウディはこの邸宅の設計に、西洋建築とイスラム建築を融合させた「ムハデル様式」を採用。さらに、建物全体に動物や植物といった自然のモチーフの装飾を施し、外壁にタイル装飾もふんだんに使用して色彩豊かな建物に造り上げました。

この「カサ・ビセンス」は依頼主を大変満足させ、建物と自然との調和を大切にするガウディの後の建築スタイルを確立させた作品となりました。

サグラダ・ファミリアの専任建築家に抜擢

ガウディにとって運命的な仕事が来ます。サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に抜擢されたのです。

サグラダ・ファミリアの建設は、フランシスコ・デ・パウラ・ビジャールという建築家の指揮で前年スタートしていました。しかし、このフランシスコが依頼主との意見の違いから辞任。そこで、次の専任建築家にガウディが指名されたのです。

当時まだ無名だったガウディは、喜んでこの仕事を受諾。設計を一から作り直し、すでに出来上がっていた部分は上手く活かしながら、思い描く理想の教会の建設に取り組みました。このサグラダ・ファミリア建設は、その後ガウディの人生そのものとなっていきます。

1887年 – 34歳「グエル邸に着工」

グエル別邸

グエルからの最初の建築依頼

ガウディがパリ万博をきっかけに出会ったグエルからは、その後家具の制作の依頼を受けてはいたものの、建築の依頼はなかなかありませんでした。しかし、出会ってから6年後の1884年、グエルはようやくガウディに建築の依頼をします。

依頼内容は、グエルが所有していた土地における庭園の改築と、門番小屋と厩舎を新築するというものでした。東洋式や西洋式、ムデハル様式など、さまざまなスタイルを融合させたこの「グエル別邸」は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼びました。

ガウディ初期の最高傑作と言われる「グエル邸」の建設

グエル別邸の成功により、グエルはガウディに次の仕事となる「グエル邸」の建設の依頼を決めます。最高の邸宅を建てるため、ガウディは20個以上の案を作成。グエルの意見のもと、その中から放射線型アーチを取り入れた大胆な構造の案を採用しました。

ガウディは、工事の過程においてもグエルと頻繁に話し合いを行いました。芸術的で重厚感のあるデザインに加え、グエル家の生活様式に合わせて使用する建材や部屋の配置などにおいても細やかな工夫を加えました。

こうして、2年間をかけて完成した独創的で豪華絢爛なこの邸宅は、グエル本人からはもちろんのこと、世間からも高い評価を受けます。そして、ガウディの名はバルセロナ中の富豪たちに知れわたることになったのです。

1898年 – 46歳「コロニア・グエル教会の建設に着工」

コロニア・グエル教会の逆さ吊り構造模型

着工前の模型作りに10年の歳月をかける

ガウディが46歳の時、グエルはガウディに自身が手掛けていたとあるプロジェクトへの参加を依頼します。それは、労働者のためのコロニー(教会や学校、医療機関などの施設を含む工業団地)を作るというものでした。

ガウディはそのプロジェクトの中で、コロニー内の教会の建築を任されます。グエル邸で成功させた放射線型アーチを取り入れた構造をこの教会にも取り入れるべく、ガウディは模型を使った構造実験に10年もの歳月をかけました。

工事が中断し、未完成の建築となる

試行錯誤の末練り上げられた建築計画のもと、1908年教会の建設がようやくスタートします。しかし、1914年にはグエル家が突然工事の打ち切りを発表。地下聖堂のみ完成した教会は、そのまま未完成作品となってしまいます。

地下聖堂の一番の特徴は、数え切れないほどの実験を重ねて設計された、美しい曲線を描くドームです。その自然と見事に調和するその構造設計は、見る人々を圧倒しました。

未完の傑作と言われ、多くの建築家たちを魅了してきたコロニア・グエル教会地下聖堂。ガウディによる数少ないスケッチや資料をもとに、完成形がどのようなものだったのか、これまで多くの研究者たちによって推測されています。

1900年 – 48歳「グエル公園の建設に着工」

グエル公園のオオトカゲ

壮大な都市型プロジェクト「グエル公園」

それまでの仕事を通じてガウディの腕を信頼していたグエルは、大型プロジェクトを依頼します。それは、60棟もの分譲住宅を含む大型庭園、通称「グエル公園」を建設するというものでした。

グエルはこの公園を、人々が芸術と自然に囲まれて暮らすことができる住宅地にしたいと考えていました。この壮大な計画に賛同したガウディは、あっという間に構想を練り上げ、すぐに建設を開始します。

個性的すぎて売り手がつかず

グエルとガウディが目指したのは、ドイツの音楽家ワーグナーの「楽劇」をイメージした建築の総合芸術でした。住宅地の外壁には色とりどりの粉砕タイルが散りばめられ、公園入口の階段に大トカゲのオブジェが設置されたりと、まるでおとぎ話の世界のような奇抜でユニークなデザインが施されました。

しかし、グエルとガウディの想いとは裏腹に、分譲住宅は全く売れませんでした。2人の先進的すぎる感性に人々がついていけなかったのです。また、公園がバルセロナ中心地から少し離れた場所にあったのも理由のひとつでした。

60棟の建設を予定していましたが、最終的に売れた住宅はたったの3軒。しかもその内の2軒はガウディとグエル自身によるものでした。

1904年 – 52歳「カサ・バトリョの改築に着工」

バトリョ・チェアと呼ばれるガウディ作の椅子

独創的なデザインで「骨の家」とよばれる

52歳のガウディは、大繊維業者ホセ・バトリョに自身の邸宅の改築を依頼されます。改築の理由は、隣に立った家が豪華で自分の家が目立たなくなってしまったという、ステイタス重視のいかにも富豪らしいものでした。

「ひと際目立つ家」を目指して、ガウディは建物にさまざまな仕掛けを施します。

シンプルだった外壁には、海をイメージした色鮮やかなモザイクタイルやガラスを散りばめ、骸骨のような形状のバルコニーや人の骨のような柱を設置。建物のどこを見ても直線的な部分のないユニークなデザインで、バトリョ邸を圧倒的な存在感を放つ建物へと生まれ変わらせました。

その独特の風貌から、当時の人々はこの建物に「骨の家」「あくびの家」というあだ名を付けたそうです。

住人のために家具もデザイン

ガウディは、バトリョのために家具や内装の細部にいたるまで全てをデザインしています。自然との調和を大切にするガウディは、木材を利用した曲線的で温かみのある家具をいくつも生み出しました。

中でもガウディが作った木製のベンチや椅子は、邸宅の内装にマッチするデザインとなっているだけでなく、人間工学に基づいたそのなめらかな形状が人の身体にフィットし、快適な座り心地を実現しています。

優れたデザインと機能性の両立にこだわったガウディの作品は、依頼主を大いに喜ばせたそうです。

1906年 – 54歳「カサ・ミラの建設に着工」

波打つ地中海をイメージしたカサ・ミラ

人々に受け入れられなかったカサ・ミラ

ガウディは、バルセロナの実業家ペレ・ミラに邸宅の建設を依頼されます。

完成した邸宅の、地中海をイメージした波打つ曲線が特徴的なコンクリート造りの外観は、周囲の建物の中で異彩な雰囲気を放っていました。またガウディは、スペインで初めての駐車場を設けたり、取り外しのできる壁を設置するなど、当時の最新設備を取り入れます。

しかし、その独創的な外観が当時の人々に受け入れられず、カサ・ミラは「石切り場」という不名誉なあだ名をつけられてしまいます。

孤独を深めていくガウディ

ガウディがカサ・ミラに取り組み始めた1906年、最愛の父親が93歳で他界します。さらに、その6年後には、同居していた姪が亡くなりました。家族を全員失ったガウディは悲しみに暮れ、孤独をまぎらわすかのように仕事に没頭するようになります。

そしてガウディは、カサ・ミラの仕事を最後に個人の邸宅の建築を引き受けるのをやめ、教会関連の依頼やサグラダ・ファミリアの建設のみに集中するようになります。

1926年 – 73歳「ミサに向かう途中で路面電車にはねられ亡くなる」

ガウディに別れを告げるため葬式には多くの群衆が集まった

一番の理解者グエルの死去

1918年、長年にわたりガウディを支援し、ともに数々の名建築を造り上げてきたグエルが亡くなります。ガウディの最大の理解者であり、親友でもあったグエルの死は、ガウディに大きなショックを与えました。

ガウディはグエルの死以降、周囲の人々と距離を置いて暮らすようになります。そして、サグラダ・ファミリアの建設に余生を捧げることを決めたガウディは、1925年にはサグラダ・ファミリア内の事務所に移り住み、作業に没頭しました。

突然の死

1926年の6月7日の夕方、教会のミサに出かけたガウディは段差につまずいて転倒し、そこを通った路面電車にはねられてしまいます。病院に搬送され処置を受けましたが、3日後に息を引き取りました。

ガウディの死はバルセロナ中の人々に悲しみを与えました。「葬儀は質素に」というガウディの遺言に反して、街中の市民が葬儀に参加し、葬列の長さは1.5kmに及んだと言います。

ガウディの遺体は現在、サグラダ・ファミリア大聖堂の礼拝堂に埋葬されてます。

アントニオガウディの関連作品

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バルセロナのガウディ建築案内


バルセロナ在住の建築研究家である著者による、ガウディ建築のビジュアル・ガイドです。スペイン各地に点在するガウディの建築を観賞する上でのポイントが、写真つきで分かりやすく説明されています。

ガウディの独自の感覚を生んだカタルーニャの文化や、ガウディの偉業についても触れられており、この一冊でガウディという人物やその作品についてよく分かるようになっています。

アントニオ・ガウディ


長年ガウディ研究に携わってきた鳥居徳敏氏が、ガウディの生い立ちから死までの生涯についてを多数の資料や作品をもとに綴っています。

ガウディ建築について詳細なが解説があるだけでなく、彼の内面や人間としての成長についても綿密に語られているため、とても興味深く読み進めることができます。天才建築家としてではなく、一人の人間「アントニオ・ガウディ」に触れられる一冊です。

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創造と神秘のサグラダ・ファミリア

ガウディの死後100年以上が経つ現在も建設が続けられている、サグラダ・ファミリアの一大建設プロジェクトに迫ったドキュメンタリー映画です。ガウディの構想を、後を継いだ建築家たちがどのように再現してきたか、現代にいたるまでの経緯を描いています。

関係者しか入ることのできない内部映像や、建設に関わる人々のインタビュー映像など、観光やガイドブックでは分からないサグラダ・ファミリアの全貌を知ることができます。

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アントニオガウディについてのまとめ

以上、今回はアントニオガウディの生涯や功績、家族、性格、恋愛などについて解説しました。

天才建築家と言われたガウディは、不器用で真っ直ぐな人間味にあふれた人物でした。ガウディの死後も建設が続けられてきたサグラダ・ファミリアは、2026年に完成予定と言われています。

自身が人生を捧げた作品が100年の時を超えてついに完成する様子をもしガウディが見ていたら、一体どんな感想を持つのでしょうか。

バルセロナに行った際は、サグラダ・ファミリアをはじめとするガウディの素晴らしい建築を訪れ、その人生に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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