アントニオガウディとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作、名言についても紹介】

アントニオガウディの年表

1852年 – 0歳「アントニオガウディの誕生」

勉強は苦手だったガウディ

銅細工師だった両親の影響

ガウディの両親は、地元に代々伝わる銅細工の職人でした。身体が弱く、他の子どものように走り回ることができなかったガウディは、両親の仕事場に顔を出しては、平らな銅板が立体的なものへ変わっていく様子をいつも興味深々で眺めていたと言います。

この過程でガウディは、空間を把握する能力を身につけ、建築家への憧れを抱き始めます。

勉強が苦手だったガウディ

偉大な建築家として知られるガウディですが、実は幼少期は勉強が大の苦手でした。持病のために学校を休みがちだったこともありますが、唯一好きだった工作以外は、勉強は得意ではなく単位を落としてしまうことも多かったようです。

田舎の豊かな自然に囲まれて育ち、周囲にあるものを観察するのが好きだったガウディは、論理的に物事を考えるよりも、独自のセンスでものの形をとらえ、創造する能力に秀でていたのです。

1863年 – 11歳「ピアリスト修道会の学校に入学」

友人に恵まれたガウディ

建築家になる意志を確固たるものに

11歳でガウディは、ピアリスト修道会が運営する学校に入学します。ここで、ガウディにはエドワルドとホセという2人の親友ができました。

3人はオリジナルの週刊誌を発行し、その中でガウディは挿絵を担当しました。また、演劇用の道具を作ったり、遺跡や建築を見に小旅行に出かけ、廃墟となっていたポブレー修道院の修復計画も立てるなど、さまざまな経験をします。これらの経験を通して、ガウディは立体物への関心を高めていきました。

また、3人は将来の夢についても語り合いました。「立体的なものを造る人になりたい」という漠然とした夢を語ったガウディに対し、2人は「それなら建築家になればいいよ」と背中を押します。この言葉で、ガウディは本格的に建築家を目指すことを決意したのでした。

バルセロナへ移住

一刻も早く建築の勉強を始めたかったガウディは、カタルーニャの中心バルセロナに移住することを決めます。そして、バルセロナで医学部で勉強していた兄フランセスクと一緒に暮らし始めました。

当時のバルセロナは都市拡大計画のもと、急速に発展を遂げていた大都市。都会での暮らしは慣れないことばかりでしたが、ガウディは夢のためにピアリストで落とした単位を取得し、バルセロナ県立建築専門学校へ進む準備を整えます。

1873年 – 21歳「バルセロナ県立建築専門学校に入学」

建築家を目指し勉強に励む

地元の建築家たちのもとで実務経験を積む

バルセロナ県立建築専門学校の予科に入学したガウディ。実家からの仕送りだけでは生活費が足りず、アルバイトをしながら勉強に励みます。

ガウディのバイト先は、建築現場や設計事務所でした。職人や建築家のもとで生の建築に触れ、ガウディは知識と経験を積み上げていきました。

最愛の兄と母の死

夢の実現に向けて走り出したガウディを、突然の悲劇が襲いました。バルセロナで支え合って暮らしていた最愛の兄フランセスクが、病気により25歳の若さで亡くなったのです。尊敬していた兄の死は、ガウディに大きなショックを与えました。

しかし、家族を支えるためにも、ガウディは建築家になる夢を叶えるべく学業に打ち込みました。そんな中、さらなる不幸がガウディを襲います。兄の死から2ヵ月後、その後を追うかのように母のアントニアが亡くなったのです。

最愛の人を次々に亡くしたことで、ガウディは神への信仰心を完全に失いました。

1878年 – 26歳「建築士の資格を取得」

最初の作品『レイアール広場の街灯』

一番最初の仕事「レイアール広場の街灯」を手がける

数々の苦難を乗り越え、念願の建築士の資格を取得したガウディ。学校を卒業後、建築家の事務所で助手として働きながら、建築士としてのキャリアをスタートさせます。

ガウディが一番初めに得た仕事は、市からの依頼で手がけた「レイアール広場の街灯」でした。この作品のユニークなデザイン性が好評を博し、その後新たな仕事の受注にも繋げることができました。

生涯のパトロンとなるグエルとの出会い

次にガウディが手がけたのは、パリ万国博覧会で展示を行う革手袋ショップのショーケースの製作でした。ガウディは、本心では早く建築の仕事をしたいという気持ちでしたが、依頼主の思いに応え希望通りのショーケースを造り上げます。

しかし、この仕事がガウディの運命を大きく変えることになります。作ったショーケースが、パリ万博にてスペインの若手実業家エウゼビ・グエルの目にとまったのです。

ガウディの才能を確信したグエルは、彼を支援することを決意し本人を直接訪問。その後2人は、ともに歴史に残る数々の素晴らしい作品を世に生み出すことになります。

1883年 – 31歳「サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に任命される」

カサ・ビセンス

最初の建築の仕事となる「カサ・ビセンス」を設計

建築士の資格を取得して5年間が経った頃、ガウディのもとに念願の建築の仕事が舞い込みます。それは、レンガやタイル工場を運営していたマヌエル・ビセンスの邸宅「カサ・ビセンス」の建築でした。

ガウディはこの邸宅の設計に、西洋建築とイスラム建築を融合させた「ムハデル様式」を採用。さらに、建物全体に動物や植物といった自然のモチーフの装飾を施し、外壁にタイル装飾もふんだんに使用して色彩豊かな建物に造り上げました。

この「カサ・ビセンス」は依頼主を大変満足させ、建物と自然との調和を大切にするガウディの後の建築スタイルを確立させた作品となりました。

サグラダ・ファミリアの専任建築家に抜擢

ガウディにとって運命的な仕事が来ます。サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に抜擢されたのです。

サグラダ・ファミリアの建設は、フランシスコ・デ・パウラ・ビジャールという建築家の指揮で前年スタートしていました。しかし、このフランシスコが依頼主との意見の違いから辞任。そこで、次の専任建築家にガウディが指名されたのです。

当時まだ無名だったガウディは、喜んでこの仕事を受諾。設計を一から作り直し、すでに出来上がっていた部分は上手く活かしながら、思い描く理想の教会の建設に取り組みました。このサグラダ・ファミリア建設は、その後ガウディの人生そのものとなっていきます。

1887年 – 34歳「グエル邸に着工」

グエル別邸

グエルからの最初の建築依頼

ガウディがパリ万博をきっかけに出会ったグエルからは、その後家具の制作の依頼を受けてはいたものの、建築の依頼はなかなかありませんでした。しかし、出会ってから6年後の1884年、グエルはようやくガウディに建築の依頼をします。

依頼内容は、グエルが所有していた土地における庭園の改築と、門番小屋と厩舎を新築するというものでした。東洋式や西洋式、ムデハル様式など、さまざまなスタイルを融合させたこの「グエル別邸」は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼びました。

ガウディ初期の最高傑作と言われる「グエル邸」の建設

グエル別邸の成功により、グエルはガウディに次の仕事となる「グエル邸」の建設の依頼を決めます。最高の邸宅を建てるため、ガウディは20個以上の案を作成。グエルの意見のもと、その中から放射線型アーチを取り入れた大胆な構造の案を採用しました。

ガウディは、工事の過程においてもグエルと頻繁に話し合いを行いました。芸術的で重厚感のあるデザインに加え、グエル家の生活様式に合わせて使用する建材や部屋の配置などにおいても細やかな工夫を加えました。

こうして、2年間をかけて完成した独創的で豪華絢爛なこの邸宅は、グエル本人からはもちろんのこと、世間からも高い評価を受けます。そして、ガウディの名はバルセロナ中の富豪たちに知れわたることになったのです。

1898年 – 46歳「コロニア・グエル教会の建設に着工」

コロニア・グエル教会の逆さ吊り構造模型

着工前の模型作りに10年の歳月をかける

ガウディが46歳の時、グエルはガウディに自身が手掛けていたとあるプロジェクトへの参加を依頼します。それは、労働者のためのコロニー(教会や学校、医療機関などの施設を含む工業団地)を作るというものでした。

ガウディはそのプロジェクトの中で、コロニー内の教会の建築を任されます。グエル邸で成功させた放射線型アーチを取り入れた構造をこの教会にも取り入れるべく、ガウディは模型を使った構造実験に10年もの歳月をかけました。

工事が中断し、未完成の建築となる

試行錯誤の末練り上げられた建築計画のもと、1908年教会の建設がようやくスタートします。しかし、1914年にはグエル家が突然工事の打ち切りを発表。地下聖堂のみ完成した教会は、そのまま未完成作品となってしまいます。

地下聖堂の一番の特徴は、数え切れないほどの実験を重ねて設計された、美しい曲線を描くドームです。その自然と見事に調和するその構造設計は、見る人々を圧倒しました。

未完の傑作と言われ、多くの建築家たちを魅了してきたコロニア・グエル教会地下聖堂。ガウディによる数少ないスケッチや資料をもとに、完成形がどのようなものだったのか、これまで多くの研究者たちによって推測されています。

1900年 – 48歳「グエル公園の建設に着工」

グエル公園のオオトカゲ

壮大な都市型プロジェクト「グエル公園」

それまでの仕事を通じてガウディの腕を信頼していたグエルは、大型プロジェクトを依頼します。それは、60棟もの分譲住宅を含む大型庭園、通称「グエル公園」を建設するというものでした。

グエルはこの公園を、人々が芸術と自然に囲まれて暮らすことができる住宅地にしたいと考えていました。この壮大な計画に賛同したガウディは、あっという間に構想を練り上げ、すぐに建設を開始します。

個性的すぎて売り手がつかず

グエルとガウディが目指したのは、ドイツの音楽家ワーグナーの「楽劇」をイメージした建築の総合芸術でした。住宅地の外壁には色とりどりの粉砕タイルが散りばめられ、公園入口の階段に大トカゲのオブジェが設置されたりと、まるでおとぎ話の世界のような奇抜でユニークなデザインが施されました。

しかし、グエルとガウディの想いとは裏腹に、分譲住宅は全く売れませんでした。2人の先進的すぎる感性に人々がついていけなかったのです。また、公園がバルセロナ中心地から少し離れた場所にあったのも理由のひとつでした。

60棟の建設を予定していましたが、最終的に売れた住宅はたったの3軒。しかもその内の2軒はガウディとグエル自身によるものでした。

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