アントニオガウディの名言
世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である。
豊かな自然に囲まれ、生き物や草花と触れ合って育ったガウディ。彼の建築のアイデアは何もないところから生まれるのではなく、身の回りに存在するものを観察することで得られるものばかりでした。
創造性というのは、既存のものを注意深く観察しそこからヒントを得ることから生まれるという、ガウディの信念が感じられる言葉です。
美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない。
ガウディは、自然の中にあるものこそが美しく、最も安定していると考えていました。その考えを自身の作品にも反映し、彼の建築には自然法則を利用したシンプルな構造が取り入れられています。
半信半疑だった職人たちに対し、その構造の安定性を自信たっぷりに説いたガウディ。100年以上経った現在も当時のままの美しさを保っているガウディの建築こそ、この言葉の証明を証明していると言えるでしょう。
芸術作品というのは誘惑的なものじゃないとならない。また、オリジナルすぎても誘惑の度合いを失ってしまい、それは芸術作品ではなくなってしまう
ガウディの芸術における考えを示した名言です。芸術作品は、見る人にとって魅力的で理解されるものでなければならず、その独自性ばかりを追究するべきではないという考えを語っています。
依頼主の意見にあくまでも忠実で、周囲の建物への配慮も欠かさなかったというガウディの、作品作りにおける謙虚さが感じられる言葉です。
アントニオガウディにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「サグラダ・ファミリア着工時は無神論者だった」
「神の建築家」と呼ばれ、敬虔なカトリック教信者として知られているガウディ。しかし、サグラダ・ファミリアを建設し始めた当時のガウディは、神を信じない無神論者でした。
建築家を目指してバルセロナに来てから、ガウディにとって不幸な出来事が続きました。最愛の兄、母、そして姉を次々に失ったのです。大切な人を自分から次々に奪う神に対し、ガウディは怒りを覚え、信仰心を完全に失ってしまいます。
その後サグラダ・ファミリアの仕事の依頼を受けたとき、無神論者として生きていたガウディは教会建設の仕事を「あくまでも建築の仕事」と割り切って引き受けました。しかし、建設を進めるうちにガウディには信仰心を持たないことへの迷いが生まれ、徐々にキリスト教に向き合うようになります。
そして、次第にキリスト教が孤独だったガウディの心の拠り所となっていったのでした。
都市伝説・武勇伝2「40日間にわたる断食を行い生死をさまよう」
建築家として高く評価されていたガウディは、多くの仕事を掛け持ちする忙しい日々を過ごします。サグラダ・ファミリアの建設という大仕事も並行して続けていたガウディは、プレッシャーに押し潰されそうになっていました。
そこでガウディは、神の声を聞くためにイエス・キリストに習って40日間の断食を行うことにします。
ガウディは厳しく自分を戒め、2週間ほどで生死をさまようほどに衰弱してしまいます。見かねた神父がガウディを説得して断食は中止となり、ガウディは何とか一命を取りとめたと言います。
都市伝説・武勇伝3「晩年は身なりにかなり無頓着だった」
晩年のガウディは、建築に熱中するあまり身なりには相当無頓着だったそうです。
サグラダ・ファミリアの建設を自らの最後の使命としたガウディは、作業に没頭するため教会内の事務所にこもるようになります。ガウディはいつも浮浪者のようなみすぼらしい格好をしており、サグラダ・ファミリアの警備員にもガウディだと分からず追い返されそうになったこともあったようです。
ただ、そんなガウディも、自身の最大の理解者であったグエルが亡くなったときは、最期の祈祷に正装で参加したと言います。
アントニオガウディの簡単年表
カタルーニャ地方南部のタラゴナにて、銅細工士の父フランセスクと母アントニアのもとに三男として誕生します。長男と次女を幼くして亡くしていた夫婦は、身体の弱かったガウディを愛情たっぷりに育てました。
ガウディは11歳の時、貧しい家庭の子どもたちのためにピアリスト修道会が運営していた学校に入学します。ここで出会ったエドワルドとホセという2人の親友と、ガウディは将来について語り合ったり小旅行に出かけたりと少年時代を謳歌します。
バルセロナに移住したガウディは、専門学校で建築を本格的に学び始めます。勉強のかたわら、生活費を稼ぐために設計事務所でのアルバイトにも精を出しました。建築家たちのもとで働いた経験は、ガウディにとって将来への大きな財産になりました。
アルバイト専門学校に入学してから5年後ついにガウディは建築士の資格を取得します。学校を卒業後、建築家の助手として働きながらガウディは個人でも小さな仕事を受注し始めます。
まだ無名だったガウディは、サグラダ・ファミリア聖堂の専任建築家に指名されます。聖堂は、前任の建築家によって途中まで出来あがっていましたが、ガウディは新たな設計を考案。思い描く完璧な教会を目指し、その後生涯をかけて建設に取り組みます。
パリ万博をきっかけに知り合った実業家グエルから、ガウディは邸宅の建築の依頼を受けます。作成した20以上の案から、ガウディは実験を重ねていた放射線型アーチを取り入れた設計を採用。完成した邸宅は新聞にも取り上げられ、ガウディの名はバルセロナ中の富豪たちに一気に知れわたりました。
ガウディは、グエルによるスペイン初の労働者向けコロニー(共同住居地)の建設プロジェクトに招かれます。担当した教会建築のための模型作りに、ガウディは10年の歳月をかけました。しかし、結局工事は依頼主の都合で打ち切りとなり、教会は未完成に終わります。
当時バルセロナは工業化が進んでいました。そこでグエルは、人々が芸術と自然に囲まれて暮らすことができる住宅地を作りたいと考え、ガウディに相談します。
ガウディはその構想を聞くやいなや、設計図を描くこともなくすぐに建設に取り掛かりました。その後14年をかけて、広大な庭園都市グエル公園を完成させます。
ガウディは繊維業者ホセ・バトリョにより、邸宅の改築を依頼されます。もともと4階建てだった建物にガウディは5階と地下室を増築。外部・内部ともに大胆な改築を行い、風変りでありながらも温かみのある、ユニークな建物に変貌させました。
ガウディは実業家ペレ・ミラに邸宅の建設を依頼されます。地中海の美しさを表現した邸宅は、その独特の外観から当時の人々に醜悪なデザインと批評されてしまいますが、ガウディ自身はその完成度に満足していました。
1926年6月7日、教会のミサに出かけたガウディは路面電車にはねられてしまいます。身なりに無頓着だったガウディは浮浪者と間違われて処置が遅れてしまい、3日後に病院で息をひきとります。ガウディの突然の死は、バルセロナ中の人々に大きな衝撃と悲しみを与えました。