マキャヴェリとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言も紹介】

マキャベリとは、ルネサンス期のイタリアで活躍した政治思想家です。「権謀術数主義」と訳される「マキャベリズム」という政治思想を唱えたことで知られ、その冷徹でありながら現実主義的な思想は、現在でも評価されるとともに批判の対象ともなっています。

マキャベリを描いたとされる肖像画

ほかにも『君主論』や『戦術論』などの思想書を数多く著したことでも知られ、近代的な国家防衛の形式である「国有軍」の元祖となったのは、マキャベリの思想であるとも言われています。そうした観点からも、マキャベリは現代にも大きな影響を与えた人物でもあるのです。

その冷徹を極め、ともすれば政治的な腐敗を容認するような彼の思想は、現代社会においては少々受け入れがたい思想として、批判にさらされることも多々あります。

しかし、だからといって”ニッコロ・マキャベリ”という思想家は、歴史において”悪”だと言われるような人物だったのでしょうか?この記事では、そんな賛否の分かれる人物であるマキャベリについて、なるべく中立的に、彼の人格的な観点から詳しく迫っていきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

ニッコロ・マキャベリとはどんな人物か

名前ニッコロ・マキャベリ
誕生日1469年5月3日
没日1527年6月21日(享年58)
生地フィレンツェ共和国、フィレンツェ
没地フィレンツェ共和国、フィレンツェ
配偶者マリエッタ・コルシニ(1502年~1527年)
職業外交官、政治思想家、喜劇作家
墓所イタリア、フィレンツェ、サンタ・クローチェ大聖堂
代表作『君主論』『戦術論』『戯曲マンドラゴラ』etc

ニッコロ・マキャベリの生涯をハイライト

マキャベリを模ったとされる彫像

マキャベリは1469年、フィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家の3人目の子として生を受けました。父は弁護士として篤い信任を受けていましたが、マキャベリ家は絶対的に裕福というわけではなく、彼はそんな家の中で両親の愛と教育を受けつつ、フィレンツェ共和国の激動期の中で少年~青年期を過ごすことになります。

マキャベリが「理想の君主」と仰いだチェーザレ・ボルジア

そうして上流階級に相応しい知性を身に着けたマキャベリは、1498年にフィレンツェ共和国の第二書記長に就任。しかしその翌年にはピサ問題から始まる傭兵部隊の独断行動によって、フィレンツェ共和国の権威が失墜するという憂き目にあうことになってしまいました。この時の経験から、マキャベリはチェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出し、国有軍や強い君主を求める思想を育てていくこととなります。

しかしマキャベリの受難は続き、1512年には第二書記長の座を解かれ、その翌年にはボスコリ事件に関わった容疑で逮捕されるという苦境も経験することになりました。大赦を受けて解放されたマキャベリでしたが、政権に戻ることは許されず、彼は隠遁生活を送ることを余儀なくされてしまったのです。

隠遁していたマキャベリを重用し、政界に引き戻したロレンツォ・デ・メディチ

しかし、そんな隠遁生活の中で、マキャベリは『君主論』をはじめとする論文などの執筆活動を敢行。1516年にフィレンツェの君主が交代すると、マキャベリは新たな君主であるロレンツォ・デ・メディチとの謁見の機会を与えられ、そこで『君主論』を提出。以降彼は、メディチ家より信任を受け、文筆関連の顧問のような役割を果たすことになりました。

しかし、そんな時も長くは続かず、1527年のローマ略奪に伴うメディチ家追放によって、マキャベリも政権を去ることに。共和制支持者から「メディチ家にすり寄った裏切り者」「冷徹なばかりで血も涙もない男」と批判を浴び、失意の中で病死することになってしまったのでした。

語り継がれる彼の思想・「マキャベリズム」とは何?

マキャベリの唱えた思想である「マキャベリズム」は、チェーザレ・ボルジアに感銘を受けて生まれた

マキャベリという人物を語るうえで、彼の思想である「マキャベリズム」という政治思想については、絶対に外すことができません。むしろ、マキャベリという人物そのものを知らずとも、「マキャベリズム」という言葉は知っているという方もいらっしゃるかもしれません。

「マキャベリズム」とは、「国家の繁栄のためであれば、非道徳的、非人道的な手段をとることも許される」という、現代で言う所の「自国第一主義」にも通じる政治思想の事です。日本語においては「権謀術数主義」と訳され、現代においてはドナルド・トランプ氏などが、度々このような思想の持ち主であると批判を受けています。

また、心理学における「悪の気質」を示す特性の中に「マキャベリズムの信望者」を示す「マキャベリスト」という項があることからも、この思想があまり一般に受け入れられているものではないことがご理解いただけるでしょう。

マキャベリはこの思想を『君主論』の中で説き、その理想的な君主としてイタリアの軍司令官・チェーザレ・ボルジアを例示し、信望していました。このチェーザレも、目的のためには暗殺や人質などの非人道的ながら効果的な手段を数多く用いていたことが記録されており、マキャベリの思想の根幹は、明らかにチェーザレを意識して形作られていると言ってもいいでしょう。

ルネサンス期の理想論的な政治に、一石を投じたのがマキャベリの思想だと言えるかもしれない

ともかく、現実的ではありますが急進的で冷酷さが目立つこの思想は、当時の人々からしても賛否が分かれる思想でした。しかし、理想論ばかりが横行していたルネサンス期において、このような思想を打ち出したことは、マキャベリという人物の評価すべき点であるとも言えそうです。

「冷徹官吏」だった?ニッコロ・マキャベリの性格

『マキャベリズム』の主張も相まって、「冷酷な人でなし」だと思われがちなマキャベリだが…?

『君主論』にて、現実的ではありますが、その分冷徹極まる主張を展開したマキャベリ。そんな思想を展開した彼の性格をイメージすると、やはり浮かんでくるのは「機械的で冷酷な人物」「人の心のないサイコパス」といったような、マイナスのイメージが殆どです。

しかし実のところ、ニッコロ・マキャベリという人物は、実は大変親しみやすく、身分を問わず付き合いのいい性格の持ち主だったと記録されています。実際、親友であるフランチェスコ・ヴェトーリとの手紙のやり取りの中には、マキャベリが本来持つ性格がありありと映し出され、その意外性を事実であるとして物語っています。

手紙から読み取れるニッコロ・マキャベリの性格は、非常に明るく付き合いやすい人物で、陽気で話好き。庶民とも分け隔てなく賭け事や宴会に興じ、過程では良き父、良き夫、良き家長であり続けたという、その冷徹な「マキャベリズム」の主張からは想像もできない姿がほとんどです。また、隠遁生活中には農業を営んでいたという記録や、ワインでひと稼ぎを狙っていたという噂もあり、ますます冷酷さとは無縁な人物のように思えてきます。

現代においても、現実主義者の冷徹な人物が、実は熱い志を秘めていることはままあるもの。マキャベリという人物の姿や、そこに基づく評価は、ともすれば現代的な「人付き合い」の本質にも繋がっているのかもしれません。

ニッコロ・マキャベリの最期

マキャベリの墓所は、イタリアのサンタ・クローチェ大聖堂の一角に存在している

彼の死因は病死です。紆余曲折を経て、メディチ家からの信任を受けた政治顧問の一人となったマキャベリでしたが、そんな彼の最期は、どうにもやるせないものでした。

メディチ家によって政界に復帰したマキャベリでしたが、1527年にローマ略奪が勃発。その影響でメディチ家はフィレンツェを追放されてしまい、マキャベリは後ろ盾を失うことになってしまい、最終的には彼もまた、政界から追放されることになってしまいました。

そして、政界から追放された彼を待っていたのは、共和主義者からの批判の嵐。「メディチ家にすり寄った裏切り者」「冷酷な人でなし」「目的のために手段を選ばない狡猾者」と、マキャベリは様々な批判に晒され続けることになってしまいました。

そして、そんな状況によるストレスからか、マキャベリは病に倒れてそのまま急死。58歳でこの世を去ることになったのでした。マキャベリが何処に埋葬されたのかの記録は判然としませんが、現在はサンタ・クローチェ大聖堂の一角に墓所が作られ、観光スポットの一つとして賑わいを見せています。

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