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マキャヴェリとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言も紹介】

マキャベリとは、ルネサンス期のイタリアで活躍した政治思想家です。「権謀術数主義」と訳される「マキャベリズム」という政治思想を唱えたことで知られ、その冷徹でありながら現実主義的な思想は、現在でも評価されるとともに批判の対象ともなっています。

マキャベリを描いたとされる肖像画

ほかにも『君主論』や『戦術論』などの思想書を数多く著したことでも知られ、近代的な国家防衛の形式である「国有軍」の元祖となったのは、マキャベリの思想であるとも言われています。そうした観点からも、マキャベリは現代にも大きな影響を与えた人物でもあるのです。

その冷徹を極め、ともすれば政治的な腐敗を容認するような彼の思想は、現代社会においては少々受け入れがたい思想として、批判にさらされることも多々あります。

しかし、だからといって”ニッコロ・マキャベリ”という思想家は、歴史において”悪”だと言われるような人物だったのでしょうか?この記事では、そんな賛否の分かれる人物であるマキャベリについて、なるべく中立的に、彼の人格的な観点から詳しく迫っていきたいと思います。

ニッコロ・マキャベリとはどんな人物か

名前ニッコロ・マキャベリ
誕生日1469年5月3日
没日1527年6月21日(享年58)
生地フィレンツェ共和国、フィレンツェ
没地フィレンツェ共和国、フィレンツェ
配偶者マリエッタ・コルシニ(1502年~1527年)
職業外交官、政治思想家、喜劇作家
墓所イタリア、フィレンツェ、サンタ・クローチェ大聖堂
代表作『君主論』『戦術論』『戯曲マンドラゴラ』etc

ニッコロ・マキャベリの生涯をハイライト

マキャベリを模ったとされる彫像

マキャベリは1469年、フィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家の3人目の子として生を受けました。父は弁護士として篤い信任を受けていましたが、マキャベリ家は絶対的に裕福というわけではなく、彼はそんな家の中で両親の愛と教育を受けつつ、フィレンツェ共和国の激動期の中で少年~青年期を過ごすことになります。

マキャベリが「理想の君主」と仰いだチェーザレ・ボルジア

そうして上流階級に相応しい知性を身に着けたマキャベリは、1498年にフィレンツェ共和国の第二書記長に就任。しかしその翌年にはピサ問題から始まる傭兵部隊の独断行動によって、フィレンツェ共和国の権威が失墜するという憂き目にあうことになってしまいました。この時の経験から、マキャベリはチェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出し、国有軍や強い君主を求める思想を育てていくこととなります。

しかしマキャベリの受難は続き、1512年には第二書記長の座を解かれ、その翌年にはボスコリ事件に関わった容疑で逮捕されるという苦境も経験することになりました。大赦を受けて解放されたマキャベリでしたが、政権に戻ることは許されず、彼は隠遁生活を送ることを余儀なくされてしまったのです。

隠遁していたマキャベリを重用し、政界に引き戻したロレンツォ・デ・メディチ

しかし、そんな隠遁生活の中で、マキャベリは『君主論』をはじめとする論文などの執筆活動を敢行。1516年にフィレンツェの君主が交代すると、マキャベリは新たな君主であるロレンツォ・デ・メディチとの謁見の機会を与えられ、そこで『君主論』を提出。以降彼は、メディチ家より信任を受け、文筆関連の顧問のような役割を果たすことになりました。

しかし、そんな時も長くは続かず、1527年のローマ略奪に伴うメディチ家追放によって、マキャベリも政権を去ることに。共和制支持者から「メディチ家にすり寄った裏切り者」「冷徹なばかりで血も涙もない男」と批判を浴び、失意の中で病死することになってしまったのでした。

語り継がれる彼の思想・「マキャベリズム」とは何?

マキャベリの唱えた思想である「マキャベリズム」は、チェーザレ・ボルジアに感銘を受けて生まれた

マキャベリという人物を語るうえで、彼の思想である「マキャベリズム」という政治思想については、絶対に外すことができません。むしろ、マキャベリという人物そのものを知らずとも、「マキャベリズム」という言葉は知っているという方もいらっしゃるかもしれません。

「マキャベリズム」とは、「国家の繁栄のためであれば、非道徳的、非人道的な手段をとることも許される」という、現代で言う所の「自国第一主義」にも通じる政治思想の事です。日本語においては「権謀術数主義」と訳され、現代においてはドナルド・トランプ氏などが、度々このような思想の持ち主であると批判を受けています。

また、心理学における「悪の気質」を示す特性の中に「マキャベリズムの信望者」を示す「マキャベリスト」という項があることからも、この思想があまり一般に受け入れられているものではないことがご理解いただけるでしょう。

マキャベリはこの思想を『君主論』の中で説き、その理想的な君主としてイタリアの軍司令官・チェーザレ・ボルジアを例示し、信望していました。このチェーザレも、目的のためには暗殺や人質などの非人道的ながら効果的な手段を数多く用いていたことが記録されており、マキャベリの思想の根幹は、明らかにチェーザレを意識して形作られていると言ってもいいでしょう。

ルネサンス期の理想論的な政治に、一石を投じたのがマキャベリの思想だと言えるかもしれない

ともかく、現実的ではありますが急進的で冷酷さが目立つこの思想は、当時の人々からしても賛否が分かれる思想でした。しかし、理想論ばかりが横行していたルネサンス期において、このような思想を打ち出したことは、マキャベリという人物の評価すべき点であるとも言えそうです。

「冷徹官吏」だった?ニッコロ・マキャベリの性格

『マキャベリズム』の主張も相まって、「冷酷な人でなし」だと思われがちなマキャベリだが…?

『君主論』にて、現実的ではありますが、その分冷徹極まる主張を展開したマキャベリ。そんな思想を展開した彼の性格をイメージすると、やはり浮かんでくるのは「機械的で冷酷な人物」「人の心のないサイコパス」といったような、マイナスのイメージが殆どです。

しかし実のところ、ニッコロ・マキャベリという人物は、実は大変親しみやすく、身分を問わず付き合いのいい性格の持ち主だったと記録されています。実際、親友であるフランチェスコ・ヴェトーリとの手紙のやり取りの中には、マキャベリが本来持つ性格がありありと映し出され、その意外性を事実であるとして物語っています。

手紙から読み取れるニッコロ・マキャベリの性格は、非常に明るく付き合いやすい人物で、陽気で話好き。庶民とも分け隔てなく賭け事や宴会に興じ、過程では良き父、良き夫、良き家長であり続けたという、その冷徹な「マキャベリズム」の主張からは想像もできない姿がほとんどです。また、隠遁生活中には農業を営んでいたという記録や、ワインでひと稼ぎを狙っていたという噂もあり、ますます冷酷さとは無縁な人物のように思えてきます。

現代においても、現実主義者の冷徹な人物が、実は熱い志を秘めていることはままあるもの。マキャベリという人物の姿や、そこに基づく評価は、ともすれば現代的な「人付き合い」の本質にも繋がっているのかもしれません。

ニッコロ・マキャベリの最期

マキャベリの墓所は、イタリアのサンタ・クローチェ大聖堂の一角に存在している

彼の死因は病死です。紆余曲折を経て、メディチ家からの信任を受けた政治顧問の一人となったマキャベリでしたが、そんな彼の最期は、どうにもやるせないものでした。

メディチ家によって政界に復帰したマキャベリでしたが、1527年にローマ略奪が勃発。その影響でメディチ家はフィレンツェを追放されてしまい、マキャベリは後ろ盾を失うことになってしまい、最終的には彼もまた、政界から追放されることになってしまいました。

そして、政界から追放された彼を待っていたのは、共和主義者からの批判の嵐。「メディチ家にすり寄った裏切り者」「冷酷な人でなし」「目的のために手段を選ばない狡猾者」と、マキャベリは様々な批判に晒され続けることになってしまいました。

そして、そんな状況によるストレスからか、マキャベリは病に倒れてそのまま急死。58歳でこの世を去ることになったのでした。マキャベリが何処に埋葬されたのかの記録は判然としませんが、現在はサンタ・クローチェ大聖堂の一角に墓所が作られ、観光スポットの一つとして賑わいを見せています。

ニッコロ・マキャベリの功績

功績1「理想主義の社会の中、現実主義の思想を唱えた」

ルネサンス期と言えば、絢爛豪華で理想論的な思想が主流だった時代だが、マキャベリはそこに警鐘を鳴らした

ルネサンス期と言えば、芸人である髭男爵さんのネタからイメージされる通り、「優雅で貴族的な時代」「芸術などの文化が発展した時代」というイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?実際、そのイメージは大筋としては正しく、ルネサンス期は様々な芸術や学問分野の発展においては、欠かすことのできない時代となっています。

しかしその一方で、ルネサンス期の政治は「理想論的」な部分が大きく、言い方を変えれば退廃的で破滅的とも言える思想が横行し始めている時代でもあったようです。

そして、そのような思想に「待った」をかけたのが、マキャベリの政治思想であるマキャベリズム。当時や後年の評価同様、いささか急進的で冷徹すぎる部分はあったものの、現状を冷静に見て抱いた危機感への回答としてみれば、確かに筋が通っているように思える思想ではないでしょうか。

功績2「国有軍の重要性を説いた、現在の軍事理論の先駆け」

現在でこそ、ほとんどの国で「国有軍」が国防を担っているが、そのような体制を発案したのもマキャベリの功績

現代社会において、国家間におけるある種の抑止力や、いざという時の備えとしての役目を担っているのは、「国有軍」である事がほとんどです。国有軍の軍人は、国によって雇われたいわゆる「国家公務員」であり、いざという時は戦力として戦地に赴き、戦うことを生業としています。

と、現代社会においてはそれらは当たり前の事柄ですが、実はマキャベリが生きたルネサンス期、「国有軍」というシステムは一般的なものではなく、むしろ戦争の主役として最前線で戦っていたのは、民間の傭兵がほとんどでした。

軍人と同じ「戦いを生業とする事業者」である傭兵だが、その気質は軍人とは違ったようで…

しかし、傭兵はあくまで「戦時のみ雇われる事業者」でしかなかったため、国に対する忠誠心や使命感は非常に薄く、命令違反や独断行動が横行するなど、戦場は国のトップの思うようには運ばない、かなり混沌とした場所だったようです。事実、マキャベリが関わったピサへの侵攻も、傭兵部隊の独断によって戦線が崩壊したことが記録されています。

と、このような戦場の状況で、一度大きく失敗をしたマキャベリは、自身の思想を著した『君主論』において国有軍の重要性に関する持論を展開。以降、各国は自前の軍隊を整備し、戦場を国家として統制する手段を得る方向へと舵を切っていきました。

功績3「現在も読み継がれる名著『君主論』 」

マキャベリの『君主論』は、現在も多くの出版が行われ、様々な世代の人々に読み継がれている

マキャベリズムという思想が、冷徹で一般に受け入れられ難い思想であるというのは、これまで開設させていただいた通りです。しかし一方で、その現実的で必要悪とも呼べるような思想は、多くの人々に未だに指示をされている思想でもあります。

特に、マキャベリが自身の思想を著した『君主論』は、現在でも盛んに翻案や出版が行われ、政治家や思想家、あるいは一般市民などにも読み継がれる、紛れもない名著としての地位を築き上げているのです。

ともすれば「自国第一主義」という、国際社会には似つかわしくない思想に繋がる思想であり、軽々しく「良い」とは言えない思想ではありますが、現実的な必要悪の思想が役立つこともまた事実。マキャベリズムの思想については、軽々しく受け入れるでも否定するのでもなく、考え続けることが現在でも求められているのではないでしょうか。

ニッコロ・マキャベリの名言

マキャベリの思想が表れている

君主足らんとするものは、 種々の良き性質をすべて持ち合わせる必要はない。しかし、持ち合わせていると、人々に思わせることは必要である。

マキャベリの『君主論』の一説です。彼が抱く君主というものの理想像が、とりわけ現実的で人間的であることを示す一説だと言えるでしょう。本音と建前の、あるいは表と裏の使い分けを君主に求めるという点で、彼の思想は他の思想とは一線を画しているように思えます。

君主たる者、けちだという評判を恐れてはならない。

これもまた、ルネサンス期の思想とは対極に位置する現実的な思想です。「国家の歳出を抑えろ」という、現代では当たり前のことを言っているだけですが、理想論が横行していたルネサンス期にこんな思想を呈することができるあたり、マキャベリという人物の異質さが垣間見えます。

人間というものは、自分を守ってくれなかったり、誤りを正す力もないものに対して、忠誠であることはできない。

これも冷静に考えれば当たり前の事ですが、トップに立つものが忘れてはならない志でしょう。上下関係があったとしても「やってもらって当たり前」の事はない。特に「やってもらって当たり前」と錯覚しがちな、社会的地位が高い人にほど、心に留め置いてほしい言葉だと思います。

ニッコロ・マキャベリにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実はかなり”愉快”な人物だった?」

冷酷な印象の強いマキャベリだが、彼自身の性格は思想の冷徹さとは少し違ったようで…

マキャベリという人物が、思想の冷徹さとは相反する陽気な人物であったことは、少し前のトピックで説明させていただいた通りです。マキャベリは元来陽気でおしゃべり。隠遁後は農業に精を出しつつ民衆たちとカードゲームに興じたりと、「近所の気のいいおじさん」のようにも見える記録が数多く残っています。

そんな彼の性質は、実は執筆活動の中にも見えています。マキャベリの代表的な著作と言えば、やはり『君主論』や『戦術論』といったお固い思想書が多いイメージですが、実はマキャベリは『戯曲マンドラゴラ』という喜劇の執筆も行っているのです。

そして、その『戯曲マンドラゴラ』がヒットすることで彼の”著述家”としての名声が高まったというのですから、実際の所彼の”愉快”な性質は、民衆たちからもかなり受け入れられやすいものだったと言えるでしょう。こういった”愉快な喜劇作家”の部分もまた、マキャベリという人物の記録に深みを与える要因となっています。

都市伝説・武勇伝2「実は結構失敗の多い人生を送った?」

冷徹な理論を打ち立て、晩年には信望者までいたというマキャベリだが、実はその人生は悠々自適ではなかった

近代に繋がる多くの理論を打ち立て、晩年にはメディチ家の顧問となり、理論に対して振幅する者もいたというマキャベリですが、実は彼の人生はさほど悠々自適なものではありませんでした。

ザっと記録が残るだけでも、ピサへの侵攻に端を発するフランスとの交渉で煮え湯を飲まされた経験や、その数年後の失脚。そしてボスコリ事件に関わった容疑で逮捕され、拷問を受けた末に多額の保釈金(マキャベリの年収の10倍とも)を払って釈放。その後も半隠遁生活を余儀なくされ、ようやく政界に戻るきっかけを得たのは晩年にあたる1516年ごろと、実はマキャベリは、失敗や不遇の時代が長い人物でもあったのです。

実際、冷徹な理論も自身の失敗に基づくものが多く、調べていくほどその苦しみが理解できるのがマキャベリという人物。思想だけを追うと「悪人」のように見えてしまいますが、皆さんはどうかその一側面だけでなく、彼の歩んだ人生からもマキャベリを考えてみてほしいと思います。

都市伝説・武勇伝3「マキャベリは「政治思想家」ではない!?」

『君主論』『戦術論』など、思想家のイメージが強いマキャベリだが、実は生前は全く違ったイメージを持たれていたとか

マキャベリの提唱した「マキャベリズム」の思想は、一部に信望者を生みましたが、多くの人々からは受け入れられ難いと敬遠されたことは、先に述べたとおりです。しかし現代において、マキャベリはその優れた現実的な思想を評価され、「政治思想家」として歴史上に登場する事がほとんどとなっています。

しかし彼の生前において、マキャベリは「政治思想家」ではなく、「喜劇作家」として多くの人から評価を受けていたことはご存知でしょうか?

40代半ばで隠遁生活を余儀なくされたマキャベリは、『君主論』に代表される多くの論文などを執筆。そしてその中で最も評価を受けたのは、実は喜劇である『戯曲マンドラゴラ』だったのです。事実、マキャベリはこの作品の出版によって著述家としての地位を確立したため、世間的には「喜劇作家」という評価を受けていたことが伝わっています。

現代に伝わる「政治思想家」の側面ではなく、現代ではあまり注目されない「喜劇作家」として評価を受けていたマキャベリ。そういった評価の変遷もまた、歴史という事物の面白さだと言えそうです。

ニッコロ・マキャベリの年表

1469年 – 00歳「法律家の子として生を受ける」

マキャベリが生まれたフィレンツェは、現在では観光地として多くの人でにぎわっている

法律家の家に生まれる

この年、ニッコロ・マキャベリは、法律家であるベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3人目の子として生を受けました。

当時のマキャベリ家は、フィレンツェ共和国の要職を輩出した名家として知られ、一説ではトスカーナ地方の旧公爵家の子孫であるという説も残っています。少なくとも、マキャベリ家が一財産を築いている、生活に不自由することはない家系であったことは、記録からも容易に読み取ることができます。

何不自由のない少年時代…とはいかなかったようで

とはいえ、名家であるマキャベリ家に生まれ、幼いニッコロは何不自由のない少年時代を過ごした…とはいかなかったようです。マキャベリは後年の回想録の中で、「私は貧しく生まれた」と書き記し、少年時代の苦労を思わせる記述を残しています。

とはいえ、マキャベリの言う「貧しさ」は、貧困層の言う貧しさとは一線を画すものであり、少年時代のマキャベリは、上流階級の必須技能であるギリシャ古典やラテン語を学んですごしていたことが記録されています。

しかし、マキャベリの少年~青年時代はフィレンツェ共和国の激動期とほとんど同時期に重なっているため、現在の我々がイメージする「貴族的な生活」というのを送れるような状況になかったことも同じく想像することができるでしょう。

1498年 – 29歳「ピエロ・ソデリーニ政権の中で頭角を現す」

ピエロ・ソデリーニの政権下で、マキャベリは晩年に通じる思想を育てていくことになる

6月・ソデリーニ政権の第二書記局長に任命

この年の6月、マキャベリはソデリーニ政権下の第二書記局長に任命を受け、精力的に活動を行うことになります。

マキャベリの属する第二書記局は、主に内政と軍政を統括する部局であり、マキャベリはここの局長として積極的に各国との交渉などに関わることになりました。

そして、この時代に経験した様々な交渉などをきっかけとして、マキャベリは後に続く冷徹で現実的な思想を育てていくことになるのです。

7月・「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官に任命

第二書記局長に任命された翌月には、マキャベリは「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命を受けます。また、それと同時期には統領秘書官への任命も受けていたようです。

かなりハイペースに多くの要職に任命されていることから、この頃のソデリーニ政権下において、マキャベリがかなり重要なポストにあったことが読み取れるでしょう。

『ピサ問題に関する論考』を執筆

マキャベリが頭角を現していた当時、フィレンツェ共和国はピサの港が支配下を離れたことで窮地に追いやられていました。海を持たないフィレンツェにとって、ピサの港の使用権は生命線も同然だったのです。

この問題に際し、マキャベリは十人委員会からの依頼を受けて『ピサ問題に関する論考』を執筆。簡潔にまとめられたその論文は、「フィレンツェのためにピサの再領有は実現されねばならない」という結論に基づき、必要な兵力や包囲戦の布陣などが、拠点ごとに論じられていたそうです。

1499年 – 30歳「ピサへの軍事侵攻開始」

フィレンツェ共和国にとっての要所だったピサは、現在では「ピサの斜塔」が有名な観光地となっている

ピサへの軍事侵攻

6月、フィレンツェ共和国はチッタ・ディ・カスティロの領主であり傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリを最高司令官に任命して、ピサへの軍事侵攻を開始。

この進軍を監督するのは、本来であれば十人委員会の仕事でしたが、当時の十人委員会は腐敗が進んだ状態だったため、マキャベリは十人委員会の上位機関にあたる統領と官僚に指示を仰いで仕事をこなしていたと記録されています。

8月・目前に迫るピサの再領有。しかし…

フィレンツェ共和国軍は進軍を続け、8月中旬にはピサを守る砦を攻め落とし、城壁を破壊するなど、ピサの再領有は目前まで迫ります。

しかし、ここで傭兵隊長でもあったパオロ・ヴィテッリが、自身の率いる軍勢を突如として撤退させてしまいます。この撤退の理由は、通説では「自身の傭兵団の兵力を失うことを嫌がったから」だと言われています。

ともかく、最高司令官の撤退によってフィレンツェ共和国軍の軍事行動は中断。更にタイミング悪く、軍内にマラリアが蔓延し始めたことで、ピサへの侵攻は目的達成の直前で、内側から瓦解することになってしまったのです。

パオロ・ヴィテッリの処刑

こうして、内側から戦線が崩壊してピサの再領有を果たせなかったフィレンツェ共和国は、独断行動に出たパオロ・ヴィテッリを逮捕。その二日後に処刑してしまいます。

また、同時期にフィレンツェ共和国は、フランスとの同盟を締結。ピサへの侵攻にあたって、フランスから5000人のスイス人傭兵を借り受ける契約を結びます。

しかし、今回のピサ侵攻の失敗によって、マキャベリは「傭兵」という軍備の形式に疑問を抱くことになりました。そして、この時に抱いた思想こそが、後の『君主論』へと繋がっていくことになるのです。

1500年 – 31歳「フランスの力を借りて、ピサへ再々侵攻。しかし…」

同盟を結んだフランスの兵力を当てにして、ピサへ再々侵攻を企てるフィレンツェ共和国。しかし…

ピサへの再々侵攻

この年、フィレンツェ共和国はフランスとの同盟を当てにして、再びピサへの侵攻を企てます。子の侵攻にはマキャベリも軍顧問の副官として参加することになるのですが、この時の戦役が、後のマキャベリの思想を決定づけることになりました。

ルイ12世の命を受けてフィレンツェ共和国に加勢することになったフランス軍は、まず軍備の面で協約違反を犯して登場。しかしフィレンツェ共和国はフランスとの協約費用を賄うために、自国の傭兵を解雇して侵攻に臨んだため、フランスの協約違反は咎められることなく、そのまま侵攻は継続されました。

その後もフランスは、自国の示威行為にフィレンツェ軍を付き合わせつつゆっくりと進軍。ピサに対する攻撃にも積極的に参加せず、略奪や市外への侵攻の拒否、挙句の果てにフィレンツェの顧問を拉致して身代金を要求するなど、フィレンツェ共和国の顧問を終始振り回し続けました。

1500年ピサ侵攻が残したもの

フランス軍の力を借りてのピサ侵攻は、フランス軍の暴挙によって大失敗に終わり、フィレンツェ共和国は大幅に権威を失墜させることになりました。多額の費用を使わされた挙句、残ったものはピサの周辺地域からのフィレンツェに対する憎悪のみ。

しかもフランス国王はこの一件を謝罪することもなく、一方的にフィレンツェ共和国との同盟を破棄。マキャベリは政府の副使として、フランス王に弁明をしに向かうことにもなってしまいました。

この一件でマキャベリは、現在の軍事制度や統治者の器の限界を痛感。チェーザレ・ボルジアを理想の君主として思索を積み上げると同時に、マキャベリは国民軍の創設を計画します。この計画は実現されますが、当時設立された国民軍は期待された成果を上げることができず、この計画も失敗に終わってしまいます。

そしてそのまま、特に何かを成し遂げることもなく1512年にはソデリーニ政権は崩壊。マキャベリもまた第二書記局長の任を解かれることになったのです。

1513年 – 44歳「ボスコリ事件に関わった容疑で逮捕される」

ジョヴァンニ・デ・メディチ政権下で起こったボスコリ事件は、マキャベリの人生を大きく捻じ曲げることになった

ボスコリ事件によって牢に繋がれる

ソデリーニ政権が崩壊したことで、フィレンツェの統治はメディチ家に委ねられることになります。しかしメディチ家に対しての反感を持つ者もあり、これによって”ボスコリ事件”という陰謀事件が勃発することになってしまいます。

反メディチ家で有名な、パオロ・ボスコリという若者が発端になった事件でしたが、彼が落としたメモにマキャベリの名があったことで、マキャベリもまた指名手配を受けることになってしまいました。

指名手配を受けたマキャベリは、実際には事件に加担していませんでしたが、自首をして獄に繋がれることに。その中で数回の拷問を受けたマキャベリでしたが、幸運にも一月後に、ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇就任に伴う大赦によって釈放されることになりました。

しかし、大赦の際には莫大な保釈金が発生していたようで、その額はなんとマキャベリの年収の十倍にあたる額だったと言われています。マキャベリはこの高額な保釈金を友人たちから借金をすることで支払ったとされていますが、その後は財産のほとんどを失い、半隠遁生活を送ることになってしまいました。

キャンティ地方の山荘で、半隠遁生活を送る

財産のほとんどを失ったマキャベリは、妻子とともにキャンティ地方の山荘に移り住み、しばらくの間、そこで半隠遁生活を送ることになります。

しかしマキャベリは、そこで執筆活動を行いつつ、民衆と積極的に交流。『戯曲マンドラゴラ』が好評を博したことで著述家としての地位を得て、政治にこそそれほど関わらないものの、情報から読み取れる分にはそれなりに幸福な暮らしを送っていたようです。

しかし「愛国者」を自任し、政治に関わる仕事を好んでいたマキャベリはその暮らしに満足をしていなかったようで、彼はしばらくの隠遁生活の後、メディチ家の下で再び政治にかかわる道を模索し始めたようです。

1516年 – 47歳「ロレンツォ・デ・メディチに謁見。『君主論』を提出する」

ロレンツォ・デ・メディチによって、マキャベリは再び政界へと足を踏み入れることになる

ロレンツォ・デ・メディチとの謁見

政界に戻ろうと試行錯誤するマキャベリでしたが、共和国時代に政権の重鎮として活動していた事が足を引っ張り、メディチ家からはなかなか受け入れられない不遇の時代を経験することになります。

そして、そんなマキャベリに転機が訪れたのが1516年。ロレンツォ・デ・メディチが僭主となったことで、マキャベリは彼に謁見する機会を与えられることになりました。

マキャベリは、この謁見の際にロレンツォへ、自身の著作である『君主論』を献上。チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島の統一を成し遂げる「強い君主」の像や、そのための政治や軍事態勢の論考を展開し、それを国政の場へと提出したのです。

この『君主論』に対するロレンツォからの評価は記録には残っておらず不明ですが、少なくとも覚えは悪いものではなかったようで、マキャベリは以降、メディチ家の政治顧問のような扱いで重用されることになります。

1520年 – 51歳「オルティ・オリチェラーレ事件」

後のクレメンス7世であるジュリオ・デ・メディチは、マキャベリの思想に傾倒していたことでも知られる

オルティ・オリチェラーレ事件

この年、反メディチ家の陰謀事件である「オルティ・オリチェラーレ事件」が勃発。この事件の首謀者として名前を挙げられた中には、マキャベリの名前もあり、マキャベリは再び窮地に立たされることになります。

しかし、この頃の政権にはマキャベリの理論の信望者が数多く存在し、当時の為政者であったジュリオ・デ・メディチもその理論に傾倒する者の一人。

そのこともあってか、ジュリオはマキャベリの事件に対する責任を一切問わなかったばかりか、彼の文筆家としての才能を高く買い、彼に『フィレンツェ史』の執筆の依頼を行っています。

多くの失敗や挫折を経験したマキャベリにとっては、この頃が「人生の絶頂期」だったと言えるのかもしれません。

1527年 – 58歳「失意の中で病を得て病死」

勃発した「ローマ略奪」によってメディチ家の政権は崩壊。マキャベリもまた失意のうちに倒れることになった

ローマ略奪

メディチ政権下で重用されるようになったマキャベリですが、そんな状況も長くは続きませんでした。

長らく緊張状態にあったフランス王国と神聖ローマ帝国の関係の中に、クレメンス7世――ジュリオ・デ・メディチが、フランス王国に味方する意思を表明したことで、神聖ローマ帝国がイタリアへ侵攻。ローマで略奪や強姦などの破壊活動を行ったのです。

これにより、メディチ家は多くの人々から非難を浴びることになり、最終的にはフィレンツェを追放されることに。これによってマキャベリは後ろ盾を失うことになり、彼もまたフィレンツェを去ることになってしまったのでした。

失意の中の病死

こうしてふたたび政権から追放されたマキャベリもまた、人々から多くの非難を受けるようになってしまいました。

「共和国からメディチ家に擦り寄った裏切り者」「冷徹なばかりの人でなし」「目的のために手段を選ばない冷酷で狡猾な男」など、マキャベリに対して向けられた非難の言葉は、現代の彼に対する評価にもつながるものがほとんどです。

そして、そんな非難の嵐の中で、マキャベリは病を得てそのまま急死。正確な埋葬場所の記録は残っていないようですが、現在はサンタ・クローチェ大聖堂の一角に墓所が作られ、観光スポットの一つとなっています。

ニッコロ・マキャベリの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

君主論 – 新版 (中公文庫)

マキャベリの代表的な著作『君主論』の日本語訳版です。多くの訳者によって翻訳されていますが、筆者としてはこの書籍の役が最もわかりやすいかと思います。

いわゆる「いい人」的な理論を真っ向から否定する言葉や思想の目白押しのため、非常に読む人を選び、ともすれば不快感を覚える方もいるかもしれません。ですが、現実を冷徹に見据えたその思想は、現代において共感できる部分も多々存在しています。

決して「読んで気持ちいい」本ではありませんが、マキャベリについてや政治思想について触れるためには、避けては通れない名著の一つであると筆者は感じました。

マキアヴェリ戦術論(新版)

こちらもマキャベリの代表的な著作『戦術論』の日本語訳版です。”戦術論”だけだと、似たような別の書籍が引っかかることも多いため、購入の際は著者をよく確かめてからご購入ください。

政治の観点から戦争を語っていますが、当時としては革新的な、いわゆる「国有軍」と呼ぶべきマキャベリの戦争論が解説されています。あくまで「政治家」だったマキャベリなので、細かいミスなどは見受けられますが、それでもその思索の深さには驚かされること請け合いです。

とはいえ、あくまで「マキャベリの思想書の和訳」であり、解説はほぼ無いも同然の書籍ですので、まず初めにこれを読むよりは、時代背景などを深く理解したうえで読むことをお勧めしたい一冊となっています。

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ニッコロ・マキャベリについてのまとめ

いわゆる「マキャベリズム」の提唱者であり、人によって非常に賛否の声が分かれる人物であるマキャベリ。筆者個人としては、「現実主義なのはいい所もあるような…」と、賛と否とも付かない印象を抱いていた人物なのですが、今回の執筆で「より評価が難しくなった」というのが正直なところです。

その主張は冷徹そのもので、ともすれば政治の腐敗や国際的な緊張を招くようなもの。現代の社会に適用するには、少しばかり急進的すぎる印象を受けました。

しかし、自身の失敗を思想として活かそうとしたことや、多くの失敗や苦境を乗り越えて邁進したその姿は、単純に他の偉人にも引けを取らない立派な人物としての姿だと思います。

ともあれ、そうした評価の難しさがあり、それが面白さにつながるのが歴史という分野。皆さんも様々な歴史的事象を調べ、マキャベリの評価を「確定させる」のではなく、自分なりに彼や他の人物への評価を作り上げていってほしいと思います。

それでは、最後までこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

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