マキャヴェリとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言も紹介】

ニッコロ・マキャベリの年表

1469年 – 00歳「法律家の子として生を受ける」

マキャベリが生まれたフィレンツェは、現在では観光地として多くの人でにぎわっている

法律家の家に生まれる

この年、ニッコロ・マキャベリは、法律家であるベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3人目の子として生を受けました。

当時のマキャベリ家は、フィレンツェ共和国の要職を輩出した名家として知られ、一説ではトスカーナ地方の旧公爵家の子孫であるという説も残っています。少なくとも、マキャベリ家が一財産を築いている、生活に不自由することはない家系であったことは、記録からも容易に読み取ることができます。

何不自由のない少年時代…とはいかなかったようで

とはいえ、名家であるマキャベリ家に生まれ、幼いニッコロは何不自由のない少年時代を過ごした…とはいかなかったようです。マキャベリは後年の回想録の中で、「私は貧しく生まれた」と書き記し、少年時代の苦労を思わせる記述を残しています。

とはいえ、マキャベリの言う「貧しさ」は、貧困層の言う貧しさとは一線を画すものであり、少年時代のマキャベリは、上流階級の必須技能であるギリシャ古典やラテン語を学んですごしていたことが記録されています。

しかし、マキャベリの少年~青年時代はフィレンツェ共和国の激動期とほとんど同時期に重なっているため、現在の我々がイメージする「貴族的な生活」というのを送れるような状況になかったことも同じく想像することができるでしょう。

1498年 – 29歳「ピエロ・ソデリーニ政権の中で頭角を現す」

ピエロ・ソデリーニの政権下で、マキャベリは晩年に通じる思想を育てていくことになる

6月・ソデリーニ政権の第二書記局長に任命

この年の6月、マキャベリはソデリーニ政権下の第二書記局長に任命を受け、精力的に活動を行うことになります。

マキャベリの属する第二書記局は、主に内政と軍政を統括する部局であり、マキャベリはここの局長として積極的に各国との交渉などに関わることになりました。

そして、この時代に経験した様々な交渉などをきっかけとして、マキャベリは後に続く冷徹で現実的な思想を育てていくことになるのです。

7月・「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官に任命

第二書記局長に任命された翌月には、マキャベリは「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命を受けます。また、それと同時期には統領秘書官への任命も受けていたようです。

かなりハイペースに多くの要職に任命されていることから、この頃のソデリーニ政権下において、マキャベリがかなり重要なポストにあったことが読み取れるでしょう。

『ピサ問題に関する論考』を執筆

マキャベリが頭角を現していた当時、フィレンツェ共和国はピサの港が支配下を離れたことで窮地に追いやられていました。海を持たないフィレンツェにとって、ピサの港の使用権は生命線も同然だったのです。

この問題に際し、マキャベリは十人委員会からの依頼を受けて『ピサ問題に関する論考』を執筆。簡潔にまとめられたその論文は、「フィレンツェのためにピサの再領有は実現されねばならない」という結論に基づき、必要な兵力や包囲戦の布陣などが、拠点ごとに論じられていたそうです。

1499年 – 30歳「ピサへの軍事侵攻開始」

フィレンツェ共和国にとっての要所だったピサは、現在では「ピサの斜塔」が有名な観光地となっている

ピサへの軍事侵攻

6月、フィレンツェ共和国はチッタ・ディ・カスティロの領主であり傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリを最高司令官に任命して、ピサへの軍事侵攻を開始。

この進軍を監督するのは、本来であれば十人委員会の仕事でしたが、当時の十人委員会は腐敗が進んだ状態だったため、マキャベリは十人委員会の上位機関にあたる統領と官僚に指示を仰いで仕事をこなしていたと記録されています。

8月・目前に迫るピサの再領有。しかし…

フィレンツェ共和国軍は進軍を続け、8月中旬にはピサを守る砦を攻め落とし、城壁を破壊するなど、ピサの再領有は目前まで迫ります。

しかし、ここで傭兵隊長でもあったパオロ・ヴィテッリが、自身の率いる軍勢を突如として撤退させてしまいます。この撤退の理由は、通説では「自身の傭兵団の兵力を失うことを嫌がったから」だと言われています。

ともかく、最高司令官の撤退によってフィレンツェ共和国軍の軍事行動は中断。更にタイミング悪く、軍内にマラリアが蔓延し始めたことで、ピサへの侵攻は目的達成の直前で、内側から瓦解することになってしまったのです。

パオロ・ヴィテッリの処刑

こうして、内側から戦線が崩壊してピサの再領有を果たせなかったフィレンツェ共和国は、独断行動に出たパオロ・ヴィテッリを逮捕。その二日後に処刑してしまいます。

また、同時期にフィレンツェ共和国は、フランスとの同盟を締結。ピサへの侵攻にあたって、フランスから5000人のスイス人傭兵を借り受ける契約を結びます。

しかし、今回のピサ侵攻の失敗によって、マキャベリは「傭兵」という軍備の形式に疑問を抱くことになりました。そして、この時に抱いた思想こそが、後の『君主論』へと繋がっていくことになるのです。

1500年 – 31歳「フランスの力を借りて、ピサへ再々侵攻。しかし…」

同盟を結んだフランスの兵力を当てにして、ピサへ再々侵攻を企てるフィレンツェ共和国。しかし…

ピサへの再々侵攻

この年、フィレンツェ共和国はフランスとの同盟を当てにして、再びピサへの侵攻を企てます。子の侵攻にはマキャベリも軍顧問の副官として参加することになるのですが、この時の戦役が、後のマキャベリの思想を決定づけることになりました。

ルイ12世の命を受けてフィレンツェ共和国に加勢することになったフランス軍は、まず軍備の面で協約違反を犯して登場。しかしフィレンツェ共和国はフランスとの協約費用を賄うために、自国の傭兵を解雇して侵攻に臨んだため、フランスの協約違反は咎められることなく、そのまま侵攻は継続されました。

その後もフランスは、自国の示威行為にフィレンツェ軍を付き合わせつつゆっくりと進軍。ピサに対する攻撃にも積極的に参加せず、略奪や市外への侵攻の拒否、挙句の果てにフィレンツェの顧問を拉致して身代金を要求するなど、フィレンツェ共和国の顧問を終始振り回し続けました。

1500年ピサ侵攻が残したもの

フランス軍の力を借りてのピサ侵攻は、フランス軍の暴挙によって大失敗に終わり、フィレンツェ共和国は大幅に権威を失墜させることになりました。多額の費用を使わされた挙句、残ったものはピサの周辺地域からのフィレンツェに対する憎悪のみ。

しかもフランス国王はこの一件を謝罪することもなく、一方的にフィレンツェ共和国との同盟を破棄。マキャベリは政府の副使として、フランス王に弁明をしに向かうことにもなってしまいました。

この一件でマキャベリは、現在の軍事制度や統治者の器の限界を痛感。チェーザレ・ボルジアを理想の君主として思索を積み上げると同時に、マキャベリは国民軍の創設を計画します。この計画は実現されますが、当時設立された国民軍は期待された成果を上げることができず、この計画も失敗に終わってしまいます。

そしてそのまま、特に何かを成し遂げることもなく1512年にはソデリーニ政権は崩壊。マキャベリもまた第二書記局長の任を解かれることになったのです。

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