1513年 – 44歳「ボスコリ事件に関わった容疑で逮捕される」
ボスコリ事件によって牢に繋がれる
ソデリーニ政権が崩壊したことで、フィレンツェの統治はメディチ家に委ねられることになります。しかしメディチ家に対しての反感を持つ者もあり、これによって”ボスコリ事件”という陰謀事件が勃発することになってしまいます。
反メディチ家で有名な、パオロ・ボスコリという若者が発端になった事件でしたが、彼が落としたメモにマキャベリの名があったことで、マキャベリもまた指名手配を受けることになってしまいました。
指名手配を受けたマキャベリは、実際には事件に加担していませんでしたが、自首をして獄に繋がれることに。その中で数回の拷問を受けたマキャベリでしたが、幸運にも一月後に、ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇就任に伴う大赦によって釈放されることになりました。
しかし、大赦の際には莫大な保釈金が発生していたようで、その額はなんとマキャベリの年収の十倍にあたる額だったと言われています。マキャベリはこの高額な保釈金を友人たちから借金をすることで支払ったとされていますが、その後は財産のほとんどを失い、半隠遁生活を送ることになってしまいました。
キャンティ地方の山荘で、半隠遁生活を送る
財産のほとんどを失ったマキャベリは、妻子とともにキャンティ地方の山荘に移り住み、しばらくの間、そこで半隠遁生活を送ることになります。
しかしマキャベリは、そこで執筆活動を行いつつ、民衆と積極的に交流。『戯曲マンドラゴラ』が好評を博したことで著述家としての地位を得て、政治にこそそれほど関わらないものの、情報から読み取れる分にはそれなりに幸福な暮らしを送っていたようです。
しかし「愛国者」を自任し、政治に関わる仕事を好んでいたマキャベリはその暮らしに満足をしていなかったようで、彼はしばらくの隠遁生活の後、メディチ家の下で再び政治にかかわる道を模索し始めたようです。
1516年 – 47歳「ロレンツォ・デ・メディチに謁見。『君主論』を提出する」
ロレンツォ・デ・メディチとの謁見
政界に戻ろうと試行錯誤するマキャベリでしたが、共和国時代に政権の重鎮として活動していた事が足を引っ張り、メディチ家からはなかなか受け入れられない不遇の時代を経験することになります。
そして、そんなマキャベリに転機が訪れたのが1516年。ロレンツォ・デ・メディチが僭主となったことで、マキャベリは彼に謁見する機会を与えられることになりました。
マキャベリは、この謁見の際にロレンツォへ、自身の著作である『君主論』を献上。チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島の統一を成し遂げる「強い君主」の像や、そのための政治や軍事態勢の論考を展開し、それを国政の場へと提出したのです。
この『君主論』に対するロレンツォからの評価は記録には残っておらず不明ですが、少なくとも覚えは悪いものではなかったようで、マキャベリは以降、メディチ家の政治顧問のような扱いで重用されることになります。
1520年 – 51歳「オルティ・オリチェラーレ事件」
オルティ・オリチェラーレ事件
この年、反メディチ家の陰謀事件である「オルティ・オリチェラーレ事件」が勃発。この事件の首謀者として名前を挙げられた中には、マキャベリの名前もあり、マキャベリは再び窮地に立たされることになります。
しかし、この頃の政権にはマキャベリの理論の信望者が数多く存在し、当時の為政者であったジュリオ・デ・メディチもその理論に傾倒する者の一人。
そのこともあってか、ジュリオはマキャベリの事件に対する責任を一切問わなかったばかりか、彼の文筆家としての才能を高く買い、彼に『フィレンツェ史』の執筆の依頼を行っています。
多くの失敗や挫折を経験したマキャベリにとっては、この頃が「人生の絶頂期」だったと言えるのかもしれません。
1527年 – 58歳「失意の中で病を得て病死」
ローマ略奪
メディチ政権下で重用されるようになったマキャベリですが、そんな状況も長くは続きませんでした。
長らく緊張状態にあったフランス王国と神聖ローマ帝国の関係の中に、クレメンス7世――ジュリオ・デ・メディチが、フランス王国に味方する意思を表明したことで、神聖ローマ帝国がイタリアへ侵攻。ローマで略奪や強姦などの破壊活動を行ったのです。
これにより、メディチ家は多くの人々から非難を浴びることになり、最終的にはフィレンツェを追放されることに。これによってマキャベリは後ろ盾を失うことになり、彼もまたフィレンツェを去ることになってしまったのでした。
失意の中の病死
こうしてふたたび政権から追放されたマキャベリもまた、人々から多くの非難を受けるようになってしまいました。
「共和国からメディチ家に擦り寄った裏切り者」「冷徹なばかりの人でなし」「目的のために手段を選ばない冷酷で狡猾な男」など、マキャベリに対して向けられた非難の言葉は、現代の彼に対する評価にもつながるものがほとんどです。
そして、そんな非難の嵐の中で、マキャベリは病を得てそのまま急死。正確な埋葬場所の記録は残っていないようですが、現在はサンタ・クローチェ大聖堂の一角に墓所が作られ、観光スポットの一つとなっています。
ニッコロ・マキャベリの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
君主論 – 新版 (中公文庫)
マキャベリの代表的な著作『君主論』の日本語訳版です。多くの訳者によって翻訳されていますが、筆者としてはこの書籍の役が最もわかりやすいかと思います。
いわゆる「いい人」的な理論を真っ向から否定する言葉や思想の目白押しのため、非常に読む人を選び、ともすれば不快感を覚える方もいるかもしれません。ですが、現実を冷徹に見据えたその思想は、現代において共感できる部分も多々存在しています。
決して「読んで気持ちいい」本ではありませんが、マキャベリについてや政治思想について触れるためには、避けては通れない名著の一つであると筆者は感じました。
マキアヴェリ戦術論(新版)
こちらもマキャベリの代表的な著作『戦術論』の日本語訳版です。”戦術論”だけだと、似たような別の書籍が引っかかることも多いため、購入の際は著者をよく確かめてからご購入ください。
政治の観点から戦争を語っていますが、当時としては革新的な、いわゆる「国有軍」と呼ぶべきマキャベリの戦争論が解説されています。あくまで「政治家」だったマキャベリなので、細かいミスなどは見受けられますが、それでもその思索の深さには驚かされること請け合いです。
とはいえ、あくまで「マキャベリの思想書の和訳」であり、解説はほぼ無いも同然の書籍ですので、まず初めにこれを読むよりは、時代背景などを深く理解したうえで読むことをお勧めしたい一冊となっています。
関連外部リンク
ニッコロ・マキャベリについてのまとめ
いわゆる「マキャベリズム」の提唱者であり、人によって非常に賛否の声が分かれる人物であるマキャベリ。筆者個人としては、「現実主義なのはいい所もあるような…」と、賛と否とも付かない印象を抱いていた人物なのですが、今回の執筆で「より評価が難しくなった」というのが正直なところです。
その主張は冷徹そのもので、ともすれば政治の腐敗や国際的な緊張を招くようなもの。現代の社会に適用するには、少しばかり急進的すぎる印象を受けました。
しかし、自身の失敗を思想として活かそうとしたことや、多くの失敗や苦境を乗り越えて邁進したその姿は、単純に他の偉人にも引けを取らない立派な人物としての姿だと思います。
ともあれ、そうした評価の難しさがあり、それが面白さにつながるのが歴史という分野。皆さんも様々な歴史的事象を調べ、マキャベリの評価を「確定させる」のではなく、自分なりに彼や他の人物への評価を作り上げていってほしいと思います。
それでは、最後までこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。