大鳥圭介は、江戸時代末期から明治時代を生きた、軍人・教育者・技術者・外交官と多彩な顔を持った人物です。一番知られているのは、榎本武揚や土方歳三とともに幕臣として最後まで新政府軍と戦い、箱館戦争で降伏した軍人という顔でしょう。
しかし、彼の功績として、次世代を担う人材の育成と最先端の技術紹介を挙げないわけにはいきません。
例えば国内での石油採掘事業は、大鳥圭介が欧米で視察した技術を利用して進められました。明治時代から石油を輸入に頼っている日本の現状を憂いて行動したのは、彼に先見の明があった証です。地質学・測量学に則ったアプローチに始まり、石油生産の方法論までも自ら学び、次の世代に伝えました。
また、日清・日露戦争で軍の幹部を占めていたのは、大鳥圭介に学んだ軍人たちでした。日清戦争では初代連合艦隊司令長官を、日露戦争では作戦を指導する軍令部長を務めた伊東祐亨、日露戦争の満州軍総司令官大山巌、日露戦争陸軍第4軍司令官野津道貫など、煌びやかな経歴の彼らは皆、圭介の教えを受け、翻訳書の恩恵を受けて軍人となったのです。
この記事では、知れば知るほどその業績に驚かされる、そんな大鳥圭介の波乱に満ちた生涯や面白いエピソードを紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
大鳥圭介とはどんな人物か
名前 | 大鳥圭介 |
---|---|
誕生日 | 1832(天保3)年もしくは1833(天保4)年生まれ。誕生日も2月25日(新暦4月14日)と2月28日(4月17日)の説あり。 |
没日 | 1911(明治44)年6月16日 |
生地 | 播磨国赤穂郡細念村小字石戸(現・兵庫県上郡町岩木石戸地区) |
没地 | 神奈川県足柄下郡国府津町にあった別荘 |
前妻 | 道子(ヒナ、富士太郎、キク、次郎、六三を出産) |
後妻 | すず(ツル、イナ、鴻子、玉枝を出産) |
埋葬場所 | 青山霊園(東京都港区南青山2丁目32−2 青山霊園1種イ1-2) |
身長 | 148cm |
習得した外国語 | オランダ語、英語、フランス語 |
子孫 | 富士太郎(外交官 1865-1931)、大鳥蘭三郎(医史学者 1908-1996)、アヤ(河上徹太郎の妻 1904-1994) |
大鳥圭介の生涯をハイライト
大鳥圭介は江戸時代末期に村医者の子供として兵庫で生まれました。小柄な体格でしたが、活発で好奇心が強く、勉学に打ち込みました。
家業を継ごうと医学を修めるうちに蘭学に興味を持ち、さらに緒方洪庵やジョン万次郎といった一流の師に学ぶ機会に恵まれて、語学の才能が花開きました。当時、西洋兵学の知識が求められていたこともあり、翻訳作業に関わるうちに軍事や工学にも目覚めていきます。
20歳代半ばから30歳代半ばにかけて、江川塾で塾頭として、さらに開成所でも教授として招聘され、未来を担う若者たちに兵学や語学などを教えました。幕府陸軍では伝習隊を作り、フランス式の精鋭軍隊を組織します。戊辰戦争が始まると、幕臣として取り立ててくれた徳川幕府への恩義もあり、伝習隊を率いて旧幕府軍に参加します。
最終決戦となった箱館戦争では、榎本武揚や土方歳三とともに戦うも、追い詰められ降伏します。しばらく牢獄生活が続きましたが、牢内で「南柯紀行」を書くなど、勉学に励みました。40歳代に入り釈放されると、技術者として欧米を視察し、日本の殖産興業を押し進めるために尽力します。
50歳後半になり、圭介は外交官として日清戦争直前の外交交渉をまとめるべく奔走しました。相手となった李鴻章には漢詩を送るなどして親交を育みます。李鴻章は下関条約の折、圭介に友誼の証とし臥龍梅を贈りました。圭介の別荘があった国府津で今も早春に花を咲かせています。圭介はその別荘で息を引き取りました。享年79歳でした。
葬儀には晩年交流の多かった徳川慶喜をはじめ、徳川宗家16代徳川家達、政治家の後藤新平、実業家の渋沢栄一など二千名が参列しました。訃報を知らせた新聞には、今日の工業の隆盛は大鳥圭介に負うところがとても大きいと書かれています。現在は東京の青山墓地に眠っています。
エリート教育を受けた幼少期
大鳥圭介は岡山藩の郷学である閑谷学校に通い、漢学・儒学・漢方医学を学びました。閑谷学校は日本の三代学府の一つとして知られ、武士以外にも地域の上層農民の子弟も通うことができただけではなく、他藩からの入学者も受け入れていたため、レベルの高い教育活動が行われていました。
閑谷学校には、寛政三奇人の一人と言われる尊王家の高山彦九郎や陽明学者の大塩平八郎、儒学者の横井小楠、「日本外史」の執筆で知られる頼山陽も訪れたと記録にあります。大鳥圭介は優秀な成績で卒業したようで、卒業後は医師であった父の後を継ぐために、蘭学を学び始めます。
師事した先生も超一流
蘭学知識を深めるため、大鳥圭介は緒方洪庵の適塾に入塾します。ここで2年間西洋医学を学びましたが、どうやら語学の才能の方が秀でていたようで、江戸へ行き坪井(大木)塾に入塾しました。
坪井塾は、緒方洪庵の師にあたる坪井信道の婿養子となった坪井為春(結婚前は大木忠益)の蘭学塾です。坪井為春は薩摩藩の奥医師だったので、もちろん医学を学べる塾でしたが、原書を多く所蔵していることで知られていました。大鳥圭介は適塾で鍛えたオランダ語の能力を生かし、当時需要のあった洋書を通じた兵学研究に勤しんだようです。
そして中浜万次郎(ジョン万次郎)に英語を学びます。この時の同窓生には、後に箱館戦争を共に戦う榎本武揚や明治の近代法を整備した箕作麟祥(みつくり りんしょう)がいます。更に横浜へ行き、ヘボン式ローマ字の考案をしたヘボンやトムソン、ブラウンからは英語の発音も学びました。
明治の世を作る若者を育成
大鳥圭介は江戸幕府の洋学教育機関である開成所で教鞭をとっています。この時に、後に政治家となる後藤象二郎をはじめ、日本の植物分類学の先鞭をつけた矢田部良吉、「洋書の丸善」の基礎を築いた小柳津要人などに英語を教えました。
明治時代になって工部大学校初代校長に就任します。酵素化学・ホルモン化学の発展に貢献した高峰譲吉や、東京駅など日本の近代建築を設計した辰野金吾、琵琶湖疎水など日本の近代土木工学の楚を築いた田辺朔郎など、新しい時代に近代のレールをひこうと尽力する若者たちを育てました。