大鳥圭介とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や土方歳三との関係も紹介】

大鳥圭介の功績

功績1「日本初の金属製の活版印刷を行う」

大鳥活字最初の印刷物「築城典刑」

大鳥圭介は、日本で初めて金属活字を開発し、西洋兵学の翻訳書を印行した人です。俗に「大鳥活字」と呼ばれています。最初は錫と亜鉛などでできた明朝体の漢字と仮名文字を鋳造して使いましたが、その後は銅に彫刻して原型を作り、銃の弾丸鋳造機を利用して活字にしました。

江川塾があった江川太郎左衛門屋敷跡

当時圭介は江川塾で塾頭として西洋兵学を教えていました。洋書の輸入が厳しく制限されていた江戸時代末期において、原書は貴重で、教科書としては写本が一般的でした。しかし写本は手間がかかる上、写し間違いもあって問題だと悩んでいた圭介は、西洋で活字という方法があると聞き、やってみようとチャレンジしたのです。

功績2「西洋の最新知識を広めた」

晩年の天璋院(篤姫)

日本最初の写真家として知られるのは上野彦馬ですが、大鳥圭介はそれより前の1856年、坪井塾時代に、書物から写真術を学んで習得しました。後に天璋院として知られる篤姫が、第13代将軍徳川家定に輿入れする前に、圭介の指導のもとで写真を撮ったという話もあります。

大鳥圭介が殖産興業のために発刊していた中外工業新報

明治時代に入ってからは、「中外工業新報」という日本で初めての工業雑誌を発刊しました。工業の発展に結びつきそうなものなら何でも記事にしていたようで、面白いものでは、「衛星」「避雷針」「シャワー」「漂白粉」といった項目もあります。内容的には時代を先取りしすぎているものも多く、圭介が最先端の知識人であったことがうかがえます。

功績3「明治時代の殖産興業に尽力 」

明治時代に建てられた工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)
出典:文化遺産オンライン

大鳥圭介には、工業を発展させ、製品を輸出することで国を富ますという自論がありました。工部省工作局長を務めていた際、国がそのバックアップをするべきとして多くの官営工場を監督しています。ガラスや紙といった大衆工業製品の品質を均一化することが、輸出できる製品を生み出す道であると、開発試験費用を国が用立てるよう主張しています。

近代に日本一の産油量を誇った新津油田金津鉱場跡(国指定遺跡)

また、日本初の石油本「山油編」を記したのは大鳥圭介です。海外の石油事情を紹介するとともに、採掘方法も学んだ圭介は、当時輸入に頼っていた石油を国内で採掘できないか試みます。石油採掘には莫大な資金が必要で、圭介は大久保利通や大隈重信の協力を取り付けるために奔走しました。

結局この事業には最後まで関われませんでしたが、圭介の元で石油採掘試験に携わった人たちが、日本の石油会社の立ち上げに尽力することになります。

大鳥圭介の名言

江川塾時代に大鳥圭介の教え子だった黒田清隆

己より出ずるものは己に返るの理なるかと一笑を催せり

大鳥圭介は晩年、自分の人生を振り返ってこう述べています。幕末、自ら翻訳した兵学書を使って教えを授けた志士たちが新政府軍として圭介の前に立ちはだかり、箱館戦争で戦うも降伏することになりました。しかし、圭介の知能を高く買っていた黒田清隆らの尽力により、明治新政府でも活躍することになります。

圭介の人生には、こうした縁の巡り合わせが多く訪れました。自分の利害のためというより、国のために良かれと思うことは何でも実践してみる圭介には、多くの人が慕いました。苦境に陥った時には手を差し伸べてくれる素地を、圭介は自ら作り上げていたのでしょう。

明治14年に竣工した旧北陸線の小刀根トンネル

政府は民心を鎮静する政策を実施しているが、却って反動を招いている。政略と察せられるものは政略の極意ではない。籠絡と見抜かれるものは籠絡の秘伝ではない。真の政略籠絡とは、知らず知らず行われ最後まで気付かれないものだ。

明治15年、工部省時代に大鳥圭介は加越地方鉄道計画に関わっていました。現在の北陸線です。この意見は事業化計画書で述べています。明治時代の、特に前期に活躍した官僚は、圭介に限らず大久保利通など、自分のことはそっちのけで国のために奔走した人が多くいました。だからこそ政略も籠絡も成り立っていたのでしょう。

しかし、時代を経るにつれ、その場凌ぎのような、己の立場を守るための政策も増えてきていました。圭介はそれを危惧していたようにも思われます。兵学を教えていた圭介の一面を垣間見るような意見です。

明治初期の殖産興業政策を担った工部省の庁舎

社会は疲弊し、大商人や豪農すら困窮する者が増えている。一方、華族諸侯は俸禄を得て大金を有しながら、これを傍観するだけで無策だ。華族の義務を果たしているとはとても言えない。世の中、金銭が尊いのはそれが流通しているからだ。流通しない財は石ころに等しい。よって、社会の疲弊を救う為、貯蓄している金銭を運用し、大事業を起こし全国を豊かにするよう計画すべきだ。

華族の資産を政府の鉱山開発の資金として使うべきだとする、工部省時代の意見書です。これはまさに今、内閣府が推進しているPPP/PFI事業のことです。世界的に見ても1980年代のイギリスで初めて実施された事業で、圭介の発想がどれだけ斬新であったか、時代を先取りしていたかがよくわかります。

圭介の献策は結局、炭鉱や鉱山が財閥に払い下げられたことで実施されませんでした。しかし、このノーブレス・オブリージュの発想は、欧米通の圭介ならではとも感じます。そして渋沢栄一の考え方にも通じる鋭い経済感覚を持っていたことは、圭介の知られざる才能の一端を見るようです。

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