大鳥圭介とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や土方歳三との関係も紹介】

大鳥圭介にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「相棒の土方歳三に、負けちゃったよと笑って語る」

箱館で大鳥圭介と共に戦っていた頃の土方歳三
出典:Wikipedia

大鳥圭介が戦いに負けても笑って帰隊するという話はよく耳にします。戊辰戦争ではかつて新撰組の鬼の副長として恐れられた土方歳三とコンビを組んで戦っていたので、こうした圭介の姿勢は、土方歳三の何かに取り憑かれたような「必死」の戦い方と比べて、弱腰に映ることが多いようです。

しかし、圭介が戦上手であったことは、多くの史料で確認できます。宇都宮戦争で戦った薩摩藩士野津鎮雄(弟は日露戦争第4軍司令官で知られる野津道貫)は、圭介の戦略は神の如きで、負けても恥ではないと述べています。勝率も5割以上で、将才がなかったわけではないようです。負けてもそれを引きずらず、切り替えが早かったのでしょう。

都市伝説・武勇伝2「洒落こんで降伏しようと言い出す」

箱館戦争降伏式を行った亀田八幡宮に残る弾丸跡

箱館戦争で土方歳三も戦死してからは、大鳥圭介の周りでも降伏の話が本格化していきます。この議論の席上で圭介が「ここは一つ降伏と洒落込もう」と言って降伏を決断したという話が有名です。

しかし、記録にそのような言葉は残っていません。わかっているのは、降伏するかどうかの議論直前まで、圭介は連戦の疲れで押入れに入って眠りこけており、探し回った部下に起こされたという話と、降伏は決して薩長に下るという意味ではなく、朝廷の大命に随うというこだと述べて議論をまとめたということです。

都市伝説・武勇伝3「収監された牢内生活も新時代方式に!」

明治時代初期の江戸城

大鳥圭介は箱館戦争で降伏後、榎本武揚らとともに江戸城辰ノ口牢獄に送られます。ここは圭介が幕臣時代に作った牢屋でした。圭介は牢内で「南柯紀行」を記し、「日本外史」などを読み漁り、外国の戦記物や化学・物理書は読むだけでなく翻訳も手掛けます。収監者に英語を教えたり、和歌を読んだりと、サロンのような様相を呈していました。

また、牢内は封建制が敷かれ、牢名主が仕切っていましたが、圭介は民主制に変え、牢獄生活も新時代のものにしました。どんな状況でも前向きに考える圭介の性格がよくわかるエピソードばかりです。木戸孝允は圭介たちを死刑にすべきと主張していましたが、黒田清隆の助命嘆願や外国の恩赦を見習うべきとの声もあったことから、釈放されることになります。

大鳥圭介の簡単年表

1832(1833)〜1851年 – 1〜19歳
腕白だったが求学心旺盛な少年時代
6年間にも及んだ天保の飢饉

1832(天保3)年2月28日(25日)、赤穂郡細念村に村医者大鳥直輔の息子として慶太郎(後の圭介)が誕生します。全国的に天保の飢饉が襲っていた時期です。

幼少期の圭介は読書好きで親孝行に励む一方、年嵩の子供も率いてガキ大将として走り回っていることで有名でした。圭介は博学だった祖父の純平に可愛がられ、祖父亡き後は、祖父の学び舎でもあった閑谷学校へ通うことになります。

1852〜1856(1857)年 – 20〜24(25)歳
蘭学に目覚めた学生時代
幕末の始まりとされる黒船来航

閑谷学校を卒業した圭介は、蘭方医学を極めるため、大坂にある緒方洪庵の適塾に通います。元々記憶力が良かった圭介は、ここで語学の面白さに気づきます。そこで江戸へ行き、原書に多く触れることのできる坪井(大木)塾に通い始めました。

1853年にはペリーが浦賀に来航し、日米和親条約が調印され、江戸が大騒ぎになっていた時期のことです。

1857〜1867年 – 25〜35歳
幕臣として取り立てられる
徳川幕府が採用したフランス式日本軍歩兵部隊

1857年ごろ、江川塾に塾頭として呼ばれ、更に尼崎藩で取り立てられ武士になります。1859年には幕府に出仕し、幕臣となりました。1867年、幕府軍の精鋭部隊である伝習隊を作り、圭介自らもフランス式操練を学びます。

日本は開国したことで需要と供給のバランスが崩れ、貨幣価値も変わって経済が混乱しただけではなく、尊王攘夷運動が激しさを増し、江戸幕府の権威は失墜の一途を辿り、時代の波は倒幕へと一気に傾きました。


1868〜1871年 – 36〜39歳
戊辰戦争と牢獄生活
戊辰戦争最後の戦いと言われる箱館戦争(五稜郭の戦い)

1868年、江戸開城とともに伝習隊を率いて脱走、関東や東北各地を転戦するも、箱館戦争で敗北し降伏しました。その後は江戸で牢獄生活を送ります。

戊辰戦争終結後、明治新政府は次々と新しい政策を打ち出しました。1869年に版籍奉還、1871年には廃藩置県を実施しています。


1872〜1888年 – 40〜56歳
技術者・教育者時代
自由民権運動の中心人物・板垣退助

釈放後は海外に産業視察へ行き、帰国すると技術官僚となって殖産興業を押し進めるために尽力しました。その後は教育者として、工部大学校初代校長、学習院院長、華族女学校学長となります。

国内では自由民権運動が起こり、藩閥政治打破、そして国会開設を求める声が高まっていた時期です。


1889〜1911年 – 57〜79歳
死を覚悟して望んだ外交
朝鮮の支配権を争った日清戦争

1889年には清国在勤全権公使、1892年には朝鮮公使も兼任し、圭介は日清戦争勃発直前の外交交渉にあたります。1900年には長年の功績を認められて男爵を授けられました。そして1911年、神奈川県国府津にあった別荘で、食道癌によって亡くなりました。

国内では1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年には第一回帝国議会が開催されました。1894年に日清戦争が、1904年には日露戦争が勃発し、圭介の多くの教え子が軍の幹部として出征します。1911年に関税自主権を回復し、明治政府の懸案だった条約改正が成ったことを見届けて、大鳥圭介の波乱の生涯が幕を閉じました。

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