アメリカ建国の歴史を年表付で簡単に解説【13の州の特徴も】

アメリカ建国の歴史を年表で解説

紀元前1万2千年「パレオ・インディアンが北米大陸に用達」

メサベルデ国立公園の崖の宮殿

紀元前1万2千年前、ベーリング海を渡り、アラスカからアメリカ大陸にアメリカ先住民(インディアン)の祖先となるパレオ・インディアンが到達しました。北米各地に広がったインディアンは、各部族ごとに母系社会をきずき、部族ごとに独自の国家を形づくりました。

紀元前3000年ころには、現在のニューメキシコ州とアリゾナ州の河川流域で、トウモロコシの栽培が始まり、初期の灌がいが行われた跡が残っています。900年ころ、南西部にホピ族の祖先であるアナサジ族が崖の表面に沿って作ったプエブロ住宅は遺跡としても残っており、中でもコロラド州メサベルデ市の崖の宮殿には、200以上の部屋が、ニューメキシコ州のプエブロ・ボニトには、800以上の部屋があったといわれています。

985年「最初の西洋人が北米大陸に上陸」

レイフ・エリクソン

10世紀末に、ノルマン人(ヴァイキング)の航海士レイフ・エリクソンの船団がアメリカ大陸を発見したといわれています。カナダのバフィン島に到着後南下して、ニューイングランドからニューヨーク州までの一帯に定住を試みたようです。しかし、ベオスック族の祖先のインディアンと折り合いがつかなかったため十年ほどで立ち去り、元の入植地グリーンランドへと戻ったとされています。

1498年「ヨーロッパからの入植が始まる」

メイフラワー号

1498年、イギリス人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸に到達し、1534年にはフランス人ジャック・カルティエがカナダに上陸します。その後も、ヨーロッパからの入植者は増え続け、バージニアやカロライナにはイギリス人、ルイジアナにはフランス人、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人、デラウェアにはスウェーデン人、フロリダにはスペイン人が入植し、それぞれに植民地を開いていきました。

1600年には、欧州から押し寄せた移民の数は何百万人へと拡大し、かれらの多くは、政治的抑圧から逃れるため、信教の自由のために北米にやってきました。特に、1620年にやってきた移民船「メイフラワー号」には、16世紀に起きた宗教改革と宗教戦争の影響で本国から逃れてアメリカを目指した多くの新教徒(ピューリタン)が乗っていました。

1755年「フレンチ・インディアン戦争が始まる」

フレンチ・インディアン戦争

フレンチ・インディアン戦争とは、北米大陸にお植民地で起きた英仏植民地戦争です。ヌーベルフランスとヴァージニア植民地からノバスコシアまでが主な戦場で、現在のペンシルバニア州ピッツバーグで起きた紛争がきっかけで始まりました。

当初はフランス軍が優勢でしたが、最終的にイギリス軍が制圧します。1763年、パリ条約でフランスがミシシッピ川の東側とカナダ全域をイギリスに割譲しました。

アメリカ植民地で起きた植民地戦争は他にも、フランス領カナダとイギリス領アメリカが戦った「ウィリアム王戦争」「アン女王戦争」「ラル神父戦争」「ジョージ王戦争」「ル・ルートル神父の戦争」などがあります。

1765年「印紙法の制定」

イギリスの収入印紙。

印紙法は、イギリス本国がアメリカ植民地に対し課した印紙税で、新聞やパンフレットなど出版物、法律上のあらゆる証書、許可証、トランプなどに印紙を貼ることを義務付けるものです。なぜ印紙法が制定されたかというと、度重なる戦争によって招いた財政悪化を、植民地への課税を増やすことで立て直そうとしたからでした。しかし、植民地側からの強い反発にあい、イギリスは印紙法を撤回しました。

1773年「茶法の制定とボストン茶会事件」

ボストン茶会事件

茶法は、植民地におけるオランダ商人からの茶の密輸入を禁止し、イギリス東インド会社に植民地における茶の販売独占権を与えるものです。その背景には、財政に生き詰まったイギリス東インド会社を助けるという目的がありました。

この茶法に反発した植民地の急進派の人々は、1773年12月16日の夜、モホーク族に扮してボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃します。これが「ボストン茶会事件」で、人々は「ボストン港をティーポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てました。

これに対しイギリス政府は、翌年、ボストン港の閉鎖とマサチューセッツの自治の剥奪、ボストンにイギリス軍を駐留させるなどの抑圧的諸法を出しました。アメリカ人がコーヒーを好むようになったのは、茶法に反対する一連の運動のなかで紅茶をボイコットした代わりにコーヒーが普及したたからといわれています。

1775年「独立戦争開始」

コモン・センス

1775年、イギリス軍はマサチューセッツのコンコード植民地の武器を押収し、植民地軍の指導者を逮捕しようとしたところ、このニュースは瞬く間に13植民地に広まり、植民地は民兵を召集してボストンを包囲しました。これが、独立戦争最初の戦い、レキシントン・コンコードの戦いです。1776年3月、ジョージ・ワシントン総司令官率いる植民地軍は、イギリス軍をボストンから撤退させることに成功しました。

1776年に革命家トマス・ペインが「コモン・センス」の中で、「アメリカの独立は、人間の権利にもとづく正義の戦いである」と論じたことで、多くの植民地の人々は独立戦争に確信を持ち、自信と勇気を与えられたと言われています。

1776年「独立宣言」

独立宣言

1776年6月、大陸会議において、イギリスによる植民地支配の圧政から逃れるため、新しい政府を造ることを表明する「独立宣言」が採択されました。

1781年「独立戦争の勝利」

苦戦を強いられた植民地軍ですが、1777年のサラトガの戦いで大勝利をおさめ、さらにフランス、スペイン、オランダが植民地側についたことで勢いを増しました。1781年のヨークタウンの戦いで勝利を収めると、アメリカの独立は決定的なものとなります。1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められました。

1787年「アメリカ合衆国憲法が制定」

初代大統領ジョージ・ワシントン

イギリスからの独立を勝ち取ったものの、13州合衆国は連合体に過ぎず、州ごとに異る政策で混乱をきたしていました。そこで1787年、統一政府を作るため憲法制定会議がフィラデルフィアで開催されます。

憲法制定会議で、住民主権である共和制、立法、司法、行政の三権分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定されました。1789年、選挙により初代アメリカ大統領に、ジョージ・ワシントンが就任し、ここに現在にいたるアメリカ合衆国が誕生しました。

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