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毛利衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、宇宙飛行の経緯から現在の様子まで紹介】

毛利衛は日本人初のスペースシャトル計画に参加した宇宙飛行士です。そして、毛利宇宙飛行士が宇宙へと飛び立った日、9月12日が「宇宙の日」として1992年に制定されました。現在では2度の宇宙飛行などの経験を生かして、世間に科学の面白さを伝えるために日本科学未来館の館長を務めています。

宇宙飛行士を退任した後も科学技術の発展に尽力し、様々なイベントや講演への参加を積極的に行っています。日本が誇る潜水艦「しんかい6500」に乗って5000m以上の深さに潜り込んだり、南極・昭和基地を訪れて、現地の隊員の活動を世間に伝えたりしました。

毛利衛

毛利衛以降、日本人の宇宙飛行士は数多く誕生しましたが、やはり初めてのスペースシャトル計画への参加は衝撃的でした。日本人の宇宙飛行を見て、宇宙飛行士を夢見た人も数知れません。

今回は、毛利宇宙飛行士の初めての宇宙飛行がどのようなものだったのかに興味が湧き、毛利衛の文献を読み漁った筆者が、毛利衛の生涯、功績、意外なエピソードについてご紹介します。

毛利衛とはどんな人物か

名前毛利衛
誕生日1948年1月29日
生地北海道余市郡余市町
家族既婚 子供3人
他の職業技術者
日本科学未来館館長
宇宙滞在期間1992年(8日間)
2000年(11日間)
賞歴内閣総理大臣顕彰(1992年)
日本宇宙生物科学会功績賞(1995年)
藤村記念歴程賞特別賞(2011年)
レジオンドヌール勲章シュヴァリエ(2018年)

毛利衛の生涯をハイライト

毛利衛

毛利衛の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 北海道余市郡余市町に誕生
  • ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行に心奪われる
  • 高校に通っている際に起こった皆既日食に感動し、科学者を目指すように
  • 北海道大学理学部に進学、大学院化学専攻も修了し、修士号を取得
  • 南オーストラリア州立フリンダース大学に留学し、修士号、博士号を取得
  • 宇宙開発事業団の募集した日本人初の宇宙飛行士に応募し、最終候補者に選ばれる
  • 1992年9月に日本人として初めてスペースシャトル計画に参加
  • 2000年2月にミッションスペシャリストとして2度目の宇宙飛行に参加
  • 日本科学未来館館長に就任
  • 科学の第一人者としてしんかい6500に搭乗したり、南極・昭和基地を訪れたり、積極的に活動する
  • 2021年に日本科学未来館館長を退任することを発表

毛利衛の性格や家族構成は?

図鑑を読む子供 イメージ

毛利衛の家族構成は両親と8人の兄弟で、毛利衛は末っ子でした。父の職業は獣医師で、兄には物理学者の毛利信男がいます。毛利衛自身は奥さんと3人の子供がいます。

毛利は幼少期は外で遊ぶというよりも家にこもって図鑑を読んだり、簡単な実験をしてみたりすることが多く、内気な性格だったそうです。

北海道大学を卒業してオーストラリアに留学した時は言葉がうまく通じないという障害からあまり人とコミュニケーションを取らず、のちにそれを悔やんでいました。

コミュニケーション イメージ

大人になってからオープンな性格となったのか、NASAでの訓練の最中はオーストラリアでの教訓を生かして技術者達とも事務員達とも積極的にコミュニケーションを取って親しく接しました。その影響もあってスタッフの心証が良くなり、宇宙飛行士に選ばれるのに一役買ったのではないかとも語っています。

毛利衛は宇宙でどんなことをしてきたの?

1992年の1度目の宇宙飛行ではペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗し、微小重力環境下での材料実験や、鯉を用いた宇宙酔いの動物実験などを含む約40近くの生命科学の実験を行いました。

宇宙から見た地球

2000年の2度目の宇宙飛行はミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、SRTM(Shuttle Radar Topography Mission)という、レーダーで地表を撮影し、高精度の立体地図を作成するミッションを遂行しました。また、2度目の宇宙飛行では7日間に渡って宇宙から見える地球の様子を撮影し続けています。

毛利衛は宇宙に行くまでにどんな訓練をしたの?

NASA ロゴ

宇宙飛行士に選ばれると、スペースシャトルに搭乗するための訓練を受けることになります。NASAの基礎訓練コースを宇宙飛行士全員が受けて、修了すると、それぞれのミッションに合わせた訓練を遂行します。

毛利衛は1992年の1回目の宇宙飛行の際はペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)だったのでスペースシャトル内で実験を行うための訓練を受けることになりました。ペイロードによる宇宙実験には高度で専門的な知識が必要なため、訓練も非常にハードなものとなります。

スペースシャトル 船外活動

2000年の2回目の宇宙飛行の際、毛利はミッションスペシャリストとして搭乗したのでスペースシャトルの運用全般を担えるような訓練を受けることになりました。スペースシャトルのシステム運用や船外活動、パイロットの補佐まで引き受けなければならないため、こちらも厳しい訓練となったのです。

毛利衛は宇宙飛行士引退後の現在は何をしてるの?

日本科学未来館

毛利衛は2000年の2度目の宇宙飛行から帰還後、日本へと帰国し、日本科学未来館の館長として就任しました。宇宙での経験や科学の面白さを世の中に伝えるために様々なイベントやコーナーを設けて、科学の普及に務めています。

しんかい6500

科学に関するイベントや講演にも多数参加しており、2003年には潜水艦しんかい6500に乗船、2007年には南極・昭和基地を訪れ、隊員達の活動の様子を世間へと広めました。

現在は自らの後継者として科学者と市民を繋げる役割を担う「科学コミュニケーター」の育成に力を入れています。様々な国から人材を招き、日本化学未来館にて育成に取り組んでいます。

毛利衛の功績

功績1「日本人として初めてスペースシャトル計画に参加」

日本人初の宇宙飛行士

毛利は1983年の宇宙開発事業団の宇宙飛行士の募集に応募すると、1985年に7人の最終候補者に選出され、1990年には日本人初の宇宙飛行士として選ばれることになります。スペースシャトル計画自体が延長されたため、宇宙へと最初に飛び立つという業績はTBS記者の秋山豊寛に譲ってしまいましたが、1992年に初めてスペースシャトル計画に参加した日本人として宇宙へと飛行するのでした。

スペースシャトル内でのミッションは微小重力環境下での材料実験や、鯉を用いた宇宙酔いの動物実験などを含む約40近くの生命科学の実験を遂行することで、それらを見事にやり遂げ、世界的にも重要な成果をあげることとなるのです。

功績2「ミッションスペシャリストとして2度目の宇宙飛行を行う」

宇宙から見た地球も撮影した

1992年の1回目の宇宙飛行ではミッションに関する責務のみを負っていましたが、2000年の2回目の宇宙飛行においてはスペースシャトルのシステム運用や船外活動、パイロットの補佐まで引き受けるミッションスペシャリストとして搭乗することになります。

この際はレーダーで地表を撮影し、高精度の立体地図を作成するミッション、SRTM(Shuttle Radar Topography Mission)を遂行しました。さらには7日間に渡って宇宙から見える地球の様子を撮影し続け、帰還後に専門家の解説も加えたドキュメンタリー映像として記録を残しています。

功績3「日本科学未来館館長に 」

館長として科学技術を伝える活動をした

日本科学未来館は「科学技術を文化としてとらえ、社会に対する役割と未来の可能性について考え、語り合うための、すべての人々に開かれた場」を理念として2001年7月に開館しました。2度目の宇宙飛行から帰還した毛利衛が自身の経験を後世に伝えていきたいという思いとともに館長として就任することになります。

2021年に退任を表明していますが、それまで20年以上に渡って日本科学未来館を運営し、様々な科学技術を紹介してきました。現在は後進を産むために「科学コミュニケーター」の育成に力を入れており、世界中の科学者達に門戸を広げています。

毛利衛の名言

「宇宙から国境線は見えなかった」

毛利衛が1992年に日本人初のスペースシャトル計画に参加して、帰還後に発した言葉です。地球上では文化や生活習慣の違いによって国境を引き、日常的に争いが起きているけれど、それは宇宙から見たらちっぽけなことなのだということに気づかされます。

「挑戦することに、年齢は関係ないですよ。90歳でカンバスに向かう老芸術家だっている。私は1992年44歳で宇宙に飛び出し、8年間のブランクを経て再び宇宙へ挑戦しました。」

毛利衛が最初に宇宙へと飛び立ったのは44歳。そして、もう一度宇宙へ飛び立ちたいという思いから訓練を重ね、ミッションスペシャリストとして重要な責任を負って再び宇宙へ飛んだのが52歳。何かに挑戦するのに年齢は関係ないということがよくわかります。

アポロ11号 月面着陸

「公務員試験の2次試験会場を抜け出して、月面着陸するアポロ11号の中継テレビを見たくらいです。自分にとってどっちが大事なんだと。公務員試験はいつでもある。人類史上初めての月着陸の方がずっと価値があるんじゃないかと判断したんです。」

幼い頃から宇宙への興味を持っていた、毛利衛が公務員試験の際に、アポロ11号の月面着陸が重なり、これは見ずにいられないと試験会場を飛び出した当時のことを語った言葉です。自分の好きなことを追いかけ続ける執念が日本初のスペースシャトル計画参加へと繋がったのかもしれません。

毛利衛の人物相関図

スペースシャトルに搭乗した日本人

毛利衛にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「非常に多趣味」

毛利衛は非常に多趣味なことで知られており、宇宙航空研究開発機構(JAXA)のホームページでは、スキー・テニス・野球・卓球・アイススケート・スキューバダイビング・スカッシュ・エアロビクスが趣味として挙げられています。

スキー イメージ

特に、北海道出身ということもあってスキーには凝っていたため、宇宙飛行士になる際に当分はスキーが出来なくなるため、非常に名残惜しい気持ちになったそうです。

都市伝説・武勇伝2「ブラッド・ピットを日本科学未来館へ呼び込む」

ブラットピットをマンモス展に呼び込んだことで観客を増やした

2019年6月から日本科学未来館にて「マンモス展」が開催されましたが、来場者数があまり芳しくなかったため、展覧会の宣伝が喫緊の課題となっていました。そのさなか、映画「アド・アストラ」の発表のために来日していたブラッドピットが日本科学未来館へとやってきます。

そこで毛利はマンモス展に展示してある本物のマンモスの毛を持ち出し、ブラッドピットに見せて興味を持たせ、そのままマンモス展へと誘導するのでした。この光景はツイッターでも拡散され、マンモス展の動員に寄与したのです。

都市伝説・武勇伝3「スペースシャトルに搭乗した日が宇宙の日に制定」

毛利衛が搭乗したスペースシャトル・エンデバー

9月12日は毛利衛がスペースシャトル・エンデバーにて宇宙へと飛び立った日ということで「宇宙の日」と定められています。宇宙を身近に感じてもらえるように、一般の方へ向けて「宇宙の日」の日程を募集したところ、毛利宇宙飛行士が宇宙へ行った日を挙げる人が多かったため制定されました。

現在ではこの記念日に宇宙の普及活動を行うこととなり、青少年向けのイベントや宇宙関連行事を数多く催しています。

毛利衛の簡単年表

1948年 - 0歳
毛利衛誕生

1948年1月29日、北海道余市郡余市町に毛利衛が誕生します。幼い頃にお風呂で溺れそうになった経験を持つことから、水が苦手で、水泳は大嫌いだったそうです。

1961年 - 13歳
ガガーリンの人類初の宇宙飛行に魅せられ、宇宙に憧れを抱くように

1961年4月12日、ソビエト連邦の宇宙飛行士・ユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功します。ガガーリンの乗った宇宙船ボストーク1号は地球周回軌道に入り、約2時間で地球の周りを一周すると、ソ連領内の牧場へと帰還しました。この時にガガーリンが発した「地球は青かった」という言葉に、当時中学生の毛利衛が感動し、それ以来宇宙への興味を抱くようになります。

1963年 - 15歳
余市町立東中学校を卒業し、高校へ進学

余市町立東中学校を卒業後は高校進学を希望し、北海道立余市高等学校へと進学します。この時に北海道の一部地域が皆既日食地帯に入った1963年7月20日の日食に心を動かされ、これ以降科学者の道を目指すようになりました。

1966年 - 18歳
高校卒業後、北海道大学へ進学

北海道立余市高等学校を卒業すると、科学者になる夢を叶えるために、北海道大学理学部へと進学します。無事に4年で理学部化学科を卒業すると、大学院への進学を決め、大学院科学専攻へと進みました。大学院も2年で修了し、修士号を取得することになります。

1972年 - 24歳
南オーストラリア州立フリンダース大学へ留学

北海道大学大学院科学専攻を卒業すると、南オーストラリア州立フリンダース大学の大学院理学研究科科学専攻に留学します。こちらの大学でも自身の専門の研究を重ね、1975年に修士号、1976年に博士号を取得するに至りました。

1980年 - 32歳
北海道大学工学部講師に

日本へ帰国すると、北海道大学の工学部講師として教鞭をとることになりました。2年後には助教授へと昇格し、原始工学科高真空工学講座を担当するようになります。

講師として授業をするかたわら、研究職として地域の環境問題について研究を重ね、「スパイクタイヤ車粉塵の精密分析」として発表しました。この研究は北海道の主要都市(札幌市など)で春に飛ぶ粉塵の原因を突き止めた研究で、粉塵は車のスパイクタイヤがアスファルトを削って生成されたものだと結論づけました。

1983年 - 35歳
宇宙開発事業団が日本人宇宙飛行士を募集

1983年の12月、宇宙開発事業団がスペースシャトルに搭乗する初の日本人宇宙飛行士を募集します。1988年の飛行が目標で、選ばれた人は宇宙開発事業団の所属となり、日本とアメリカで訓練を受けることになります。

この募集に対し、500人以上の応募があり、毛利衛の他に、向井千秋や土井隆雄なども参加していました。1985年に発表された7人の最終候補者の中には、前述の毛利衛、向井千秋、土井隆雄が選ばれたのです。

1986年 - 38歳
チャレンジャー号爆発事故

1986年1月28日、アメリカのスペースシャトル、チャレンジャー号が爆発する事故が発生します。打ち上げから73秒後に分解し、搭乗していた7人の乗組員が犠牲になりました。この事故によってスペースシャトル計画が2年以上に渡って中断し、当初日本人初の宇宙飛行が予定されていた1988年の発射も延期されることになります。

1987年 - 39歳
アラバマ大学ハンツビル校にて研究を重ねる

スペースシャトル搭乗の訓練を受けるかたわら、アラバマ大学ハンツビル校に籍を置き、微小重力実験研究センターで研究を重ねる日々が続きます。

1990年 - 42歳
日本人のスペースシャトルミッションに毛利衛が選ばれる

チャレンジャー号爆発事故で延期されていた日本人のスペースシャトルミッションが再始動し、1990年4月24日に最初の搭乗者が毛利衛に決定されました。この時のミッション施行予定は1991年6月と言い渡されます。この年にはTBS記者の秋山豊寛がソビエト連邦のスペースシャトル、ソユーズTM-11に搭乗し、日本人で初めて宇宙へと飛び立ちました。

1992年 - 44歳
日本人初のスペースシャトル計画の宇宙飛行士に

最終的に毛利衛の日本人スペースシャトル搭乗ミッションは1992年にまでずれ込み、9月に予定されることとなりました。1992年9月12日、スペースシャトル・エンデバーのペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として乗り込み、約8日間宇宙に滞在します。9月20日に帰還した際には「宇宙から国境線は見えなかった」とのコメントを残しました。

1992年 - 44歳
宇宙開発事業団の別部署へ異動

スペースシャトル計画から帰還後の1992年10月、宇宙開発事業団の宇宙環境利用システム本部、宇宙環境利用推進部、有人宇宙活動推進室に異動が決まります。スペースシャトル内での実験の成果を元に研究を進めていくことになりました。

1998年 - 50歳
ミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を得る

最初のスペースシャトル計画に参加してから6年後の1998年、NASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を与えられることになります。この時に2000年のスペースシャトルへの搭乗が予定されることとなりました。

2000年 - 52歳
2度目の宇宙飛行

2000年2月にスペースシャトル・エンデバーに搭乗し、自身2度目となる宇宙飛行を行いました。この時はミッションスペシャリストとしての仕事を任せられ、SRTMと呼ばれるレーダーによる地球の地形の観測を担当したのです。

2000年 - 52歳
日本化学未来館の館長に就任

2度目の宇宙飛行から帰還後、日本へと帰国し、日本化学未来館の館長として就任します。2001年7月に開館して以後、2021年に退任(予定)するまで約20年に渡って館長を勤め上げました。日本化学未来館は最新の科学技術の紹介、科学技術者の成果の発表、庶民からの科学技術への見解を研究者へフィードバックすることを主な目標として掲げ、世の中における科学の交流を促すことを目指しています。

2003年 - 55歳
しんかい6500に乗船

しんかい6500は国立研究開発法人海洋研究開発機構が所有する有人潜水調査船です。その名の通り、深度6500mまで潜水することができ、地殻を構成するプレートの鈴見込み運動やマントルなどの地球内部の動きを調査することが主な任務となっています。毛利は2003年3月13日にしんかい6500に乗り込み、南西諸島海溝の深度6500m地点まで潜り込みました。

2007年 - 59歳
南極の昭和基地訪問

南極の昭和基地は天体・気象・生物の観測を行う施設で、約60の施設から成ります。南極地域観測隊員は60名が選ばれ、そのうちの40人が冬の間も基地で過ごすことになっています。毛利は日本の南極観測50周年を記念してイベントを企画し、2007年1月に昭和基地を訪問しました。

2019年 - 71歳
日本化学未来館で行われたマンモス展にブラッドピットを招く

2019年に日本化学未来館で「マンモス展」が開催されます。毛利は、当時来日していたブラッドピットをマンモス展に招くために、本物のマンモスの毛を見せ、興味を湧かせました。最終的には裏口を通じてマンモス展へブラッドピットを招き入れ、宣伝効果も狙うことに成功したのです。

2020年 - 72歳
日本化学未来館の館長退任を発表

2020年4月13日、約20年に渡って館長を勤めてきた日本化学未来館を2021年度限りで退任することを発表します。

毛利衛の年表

1948年 – 0歳「毛利衛の誕生」

北海道余市群余市町 ニッカウヰスキー製造工場

北海道余市郡余市町にて誕生

毛利衛は1948年1月29日に北海道余市郡余市町で誕生します。8人兄弟の末っ子として獣医師の家庭で育ちました。幼い頃から化学実験や望遠鏡での天体観測に興味をもち、科学の道へと進むことを夢見ていました。

その一方で苦手なものはとことん嫌いで、お風呂に落ちた経験があることから水に対する恐怖心が拭えず、水泳は大の苦手でした。また、昆虫のカマキリにも苦手意識を抱いていたそうです。

1961年 – 13歳「人類初の宇宙飛行に感動し、宇宙への憧れを抱く」

世界初の有人宇宙飛行に成功したガガーリン

ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功

1961年4月12日、ソビエト連邦の宇宙飛行士・ユーリイ・ガガーリンがボストーク1号に搭乗し、世界初の有人宇宙飛行に成功します。宇宙船ボストーク1号は地球周回軌道に入り、大気圏外を約2時間で一周し、ソ連領内の牧場へと帰還しました。この時、最初は宇宙船ごと牧場へ着陸したと伝えられていましたが、実際には高度7000mで宇宙船から飛び出し、座席ごとパラシュートで落下して帰還したのです。

この宇宙ショーを見た毛利衛は感動し、ガガーリンの発した「地球は青かった」という言葉にも感銘を受けます。ガガーリンの宇宙飛行をきっかけに毛利は宇宙への興味を深めていくのでした。

1966年 – 18歳「北海道大学理学部へ」

皆既日食

科学者の道を目指すことを決心し、北海道大学理学部へ

中学校、高校と地元の学校へ進学します。1963年7月20日に起こった日食(北海道は一部地域が皆既日食帯に含まれた)に感動し、それ以来科学者への道を目指すようになりました。1966年に高校卒業とともに北海道大学理学部への進学を決め、理学部化学科を専攻します。

4年間で大学課程を修了すると、そのまま2年間大学院科学専攻へと進学し、修士号を取得するのでした。

オーストラリアへの留学

大学院で修士号を取得すると、さらなる研究のために南オーストラリア州立フリンダース大学へ留学します。フリンダース大学では大学院理学研究科学専攻に所属し、研究を重ねていきます。地道な研究の成果もあり、1975年には修士号、1976年には博士号を取得することになりました。

帰国後は母校の北海道大学工学部で教鞭をとるようになり、2年後は助教授へと昇格を果たします。授業では原始工学科高真空工学講座を受け持つようになるのでした。講師として講義を行うかたわらで研究職としても従事し、「スパイクタイヤ車粉塵の精密分析」という研究も発表します。

1983年 – 35歳「日本人初の宇宙飛行士の募集」

宇宙開発事業団
現・宇宙航空研究開発機構のロゴ

日本人宇宙飛行士の募集が行われる

1983年の12月、日本人宇宙飛行士が宇宙開発事業団によりを募集されます。スペースシャトル計画に参加する初の日本人向けの募集で、1988年の飛行が目標とされました。毛利はこの募集に応募することになります。

日本人女性初の宇宙飛行士 向井千秋

最終的に500人以上の応募があり、1985年に発表された7人の最終候補者の中に毛利は選ばれることになるのでした。この最終候補者の中には向井千秋や土井隆雄など、のちの宇宙飛行士たちも選ばれました。選出された候補者は宇宙開発事業団に所属し、日本とアメリカで行われる訓練に参加することを義務付けられたのです。

チャレンジャー号の爆発事故とスペースシャトル搭乗の延期

チャレンジャー号の爆発

1983年1月28日にアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げられましたが、打ち上げ後わずか73秒で空中分解し、7名の乗組員が全員亡くなるという事故が発生しました。事故の原因は固体燃料補助ロケットの一部の破損で、わずかな不具合から発射直後の高温高圧ガスにより外部燃料タンクなどの破壊をもたらし、結果としてスペースシャトル全体の爆発を招いたのです。

このチャレンジャー号の事故によりスペースシャトル計画が32ヶ月に渡って延期され、日本人初の宇宙飛行もこれに伴って延期となりました。

1990年 – 42歳「毛利が日本人のスペースシャトルミッションに選ばれる」

スペースシャトルミッションのチーム 右端が毛利

毛利衛が日本人初のスペースシャトル搭乗者として選ばれる

1990年4月24日に日本人のスペースシャトルミッションの搭乗者が発表され、見事に毛利衛が勝ち取ることになりました。チャレンジャー号の爆発事故以来延期されていたスペースシャトル計画が再始動され、毛利の搭乗予定は1991年6月とされます。

1990年12月には日本人初の宇宙飛行士としてTBS記者の秋山豊寛がソ連のソユーズTM-11に乗り込み、宇宙飛行に成功しました。毛利はこの知らせをアメリカでの訓練中に聞き、「非常に刺激になった。私たちもぜひ成功させたい。」とコメントを残しています。

日本人初のスペースシャトル計画の一員に

毛利のスペースシャトル搭乗が決定してから2年後の1992年、ついにスペースシャトル・エンデバー絵hの搭乗が実現します。9月12日、ペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)としての任務を任され、8日間に渡って宇宙に滞在しました。

滞在期間中はスペースラブ実験、SL-Jミッションを遂行します。具体的には微小重力環境下での材料実験や鯉を用いた宇宙酔いの動物実験を含む生命科学実験などです。全ての実験を完了し、9月20日に地上へ降り立った際に毛利は「宇宙から国境線は見えなかった」とのコメントを残しました。

2000年 – 52歳「2度目の宇宙飛行」

毛利衛

ミッションスペシャリストとして2度目の宇宙飛行へ

1998年にNASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を得ると、2000年のスペースシャトル計画への参加を命じられることになりました。

2000年2月12日から23日にかけてスペースシャトル・エンデバーによる自身2度目となる宇宙飛行を遂行します。この時の任務はSRTM(Shuttle Radar Topography Mission)と呼ばれ、レーダーで地表を撮影し、高精度の立体地図を作成することでした。

2000年 – 52歳「日本科学未来館の館長に」

日本科学未来館

日本科学未来館の館長に就任

スペースシャトル計画から帰還し、日本へ帰国すると、今までの経験を生かして世の中に科学の面白さを広めたいという動機から日本化学未来館の館長に就任します。2001年7月に開館し、最新の科学技術の紹介や科学技術者の成果の発表を、展示物や実験の実演により伝えていきます。

毛利は2021年に日本化学未来館の館長を退任することを予定していますが、それまで約20年に渡って科学の交流を図ったのでした。

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毛利衛についてのまとめ

毛利衛は日本人として初めてスペースシャトル計画に参加した宇宙飛行士となり、現在でも科学の分野で世の中に大きな貢献をしています。幼い頃から宇宙にあこがれ、その夢を追い続けていたからこそ宇宙飛行が実現したのです。

現在は日本科学未来館の館長として、科学技術の発信とそれを受け継ぐ後継者の育成を行っています。2021年に館長を退任する予定ですが、今までに科学の面白さを伝えてきた功績は計り知れません。

今回は毛利衛についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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