毛利衛は日本人初のスペースシャトル計画に参加した宇宙飛行士です。そして、毛利宇宙飛行士が宇宙へと飛び立った日、9月12日が「宇宙の日」として1992年に制定されました。現在では2度の宇宙飛行などの経験を生かして、世間に科学の面白さを伝えるために日本科学未来館の館長を務めています。
宇宙飛行士を退任した後も科学技術の発展に尽力し、様々なイベントや講演への参加を積極的に行っています。日本が誇る潜水艦「しんかい6500」に乗って5000m以上の深さに潜り込んだり、南極・昭和基地を訪れて、現地の隊員の活動を世間に伝えたりしました。
毛利衛以降、日本人の宇宙飛行士は数多く誕生しましたが、やはり初めてのスペースシャトル計画への参加は衝撃的でした。日本人の宇宙飛行を見て、宇宙飛行士を夢見た人も数知れません。
今回は、毛利宇宙飛行士の初めての宇宙飛行がどのようなものだったのかに興味が湧き、毛利衛の文献を読み漁った筆者が、毛利衛の生涯、功績、意外なエピソードについてご紹介します。
この記事を書いた人
毛利衛とはどんな人物か
名前 | 毛利衛 |
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誕生日 | 1948年1月29日 |
生地 | 北海道余市郡余市町 |
家族 | 既婚 子供3人 |
他の職業 | 技術者 日本科学未来館館長 |
宇宙滞在期間 | 1992年(8日間) 2000年(11日間) |
賞歴 | 内閣総理大臣顕彰(1992年) 日本宇宙生物科学会功績賞(1995年) 藤村記念歴程賞特別賞(2011年) レジオンドヌール勲章シュヴァリエ(2018年) |
毛利衛の生涯をハイライト
毛利衛の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 北海道余市郡余市町に誕生
- ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行に心奪われる
- 高校に通っている際に起こった皆既日食に感動し、科学者を目指すように
- 北海道大学理学部に進学、大学院化学専攻も修了し、修士号を取得
- 南オーストラリア州立フリンダース大学に留学し、修士号、博士号を取得
- 宇宙開発事業団の募集した日本人初の宇宙飛行士に応募し、最終候補者に選ばれる
- 1992年9月に日本人として初めてスペースシャトル計画に参加
- 2000年2月にミッションスペシャリストとして2度目の宇宙飛行に参加
- 日本科学未来館館長に就任
- 科学の第一人者としてしんかい6500に搭乗したり、南極・昭和基地を訪れたり、積極的に活動する
- 2021年に日本科学未来館館長を退任することを発表
毛利衛の性格や家族構成は?
毛利衛の家族構成は両親と8人の兄弟で、毛利衛は末っ子でした。父の職業は獣医師で、兄には物理学者の毛利信男がいます。毛利衛自身は奥さんと3人の子供がいます。
毛利は幼少期は外で遊ぶというよりも家にこもって図鑑を読んだり、簡単な実験をしてみたりすることが多く、内気な性格だったそうです。
北海道大学を卒業してオーストラリアに留学した時は言葉がうまく通じないという障害からあまり人とコミュニケーションを取らず、のちにそれを悔やんでいました。
大人になってからオープンな性格となったのか、NASAでの訓練の最中はオーストラリアでの教訓を生かして技術者達とも事務員達とも積極的にコミュニケーションを取って親しく接しました。その影響もあってスタッフの心証が良くなり、宇宙飛行士に選ばれるのに一役買ったのではないかとも語っています。
毛利衛は宇宙でどんなことをしてきたの?
1992年の1度目の宇宙飛行ではペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗し、微小重力環境下での材料実験や、鯉を用いた宇宙酔いの動物実験などを含む約40近くの生命科学の実験を行いました。
2000年の2度目の宇宙飛行はミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、SRTM(Shuttle Radar Topography Mission)という、レーダーで地表を撮影し、高精度の立体地図を作成するミッションを遂行しました。また、2度目の宇宙飛行では7日間に渡って宇宙から見える地球の様子を撮影し続けています。
毛利衛は宇宙に行くまでにどんな訓練をしたの?
宇宙飛行士に選ばれると、スペースシャトルに搭乗するための訓練を受けることになります。NASAの基礎訓練コースを宇宙飛行士全員が受けて、修了すると、それぞれのミッションに合わせた訓練を遂行します。
毛利衛は1992年の1回目の宇宙飛行の際はペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)だったのでスペースシャトル内で実験を行うための訓練を受けることになりました。ペイロードによる宇宙実験には高度で専門的な知識が必要なため、訓練も非常にハードなものとなります。
2000年の2回目の宇宙飛行の際、毛利はミッションスペシャリストとして搭乗したのでスペースシャトルの運用全般を担えるような訓練を受けることになりました。スペースシャトルのシステム運用や船外活動、パイロットの補佐まで引き受けなければならないため、こちらも厳しい訓練となったのです。