毛利衛の簡単年表
1948年1月29日、北海道余市郡余市町に毛利衛が誕生します。幼い頃にお風呂で溺れそうになった経験を持つことから、水が苦手で、水泳は大嫌いだったそうです。
1961年4月12日、ソビエト連邦の宇宙飛行士・ユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功します。ガガーリンの乗った宇宙船ボストーク1号は地球周回軌道に入り、約2時間で地球の周りを一周すると、ソ連領内の牧場へと帰還しました。この時にガガーリンが発した「地球は青かった」という言葉に、当時中学生の毛利衛が感動し、それ以来宇宙への興味を抱くようになります。
余市町立東中学校を卒業後は高校進学を希望し、北海道立余市高等学校へと進学します。この時に北海道の一部地域が皆既日食地帯に入った1963年7月20日の日食に心を動かされ、これ以降科学者の道を目指すようになりました。
北海道立余市高等学校を卒業すると、科学者になる夢を叶えるために、北海道大学理学部へと進学します。無事に4年で理学部化学科を卒業すると、大学院への進学を決め、大学院科学専攻へと進みました。大学院も2年で修了し、修士号を取得することになります。
北海道大学大学院科学専攻を卒業すると、南オーストラリア州立フリンダース大学の大学院理学研究科科学専攻に留学します。こちらの大学でも自身の専門の研究を重ね、1975年に修士号、1976年に博士号を取得するに至りました。
日本へ帰国すると、北海道大学の工学部講師として教鞭をとることになりました。2年後には助教授へと昇格し、原始工学科高真空工学講座を担当するようになります。
講師として授業をするかたわら、研究職として地域の環境問題について研究を重ね、「スパイクタイヤ車粉塵の精密分析」として発表しました。この研究は北海道の主要都市(札幌市など)で春に飛ぶ粉塵の原因を突き止めた研究で、粉塵は車のスパイクタイヤがアスファルトを削って生成されたものだと結論づけました。
1983年の12月、宇宙開発事業団がスペースシャトルに搭乗する初の日本人宇宙飛行士を募集します。1988年の飛行が目標で、選ばれた人は宇宙開発事業団の所属となり、日本とアメリカで訓練を受けることになります。
この募集に対し、500人以上の応募があり、毛利衛の他に、向井千秋や土井隆雄なども参加していました。1985年に発表された7人の最終候補者の中には、前述の毛利衛、向井千秋、土井隆雄が選ばれたのです。
1986年1月28日、アメリカのスペースシャトル、チャレンジャー号が爆発する事故が発生します。打ち上げから73秒後に分解し、搭乗していた7人の乗組員が犠牲になりました。この事故によってスペースシャトル計画が2年以上に渡って中断し、当初日本人初の宇宙飛行が予定されていた1988年の発射も延期されることになります。
スペースシャトル搭乗の訓練を受けるかたわら、アラバマ大学ハンツビル校に籍を置き、微小重力実験研究センターで研究を重ねる日々が続きます。
チャレンジャー号爆発事故で延期されていた日本人のスペースシャトルミッションが再始動し、1990年4月24日に最初の搭乗者が毛利衛に決定されました。この時のミッション施行予定は1991年6月と言い渡されます。この年にはTBS記者の秋山豊寛がソビエト連邦のスペースシャトル、ソユーズTM-11に搭乗し、日本人で初めて宇宙へと飛び立ちました。
最終的に毛利衛の日本人スペースシャトル搭乗ミッションは1992年にまでずれ込み、9月に予定されることとなりました。1992年9月12日、スペースシャトル・エンデバーのペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として乗り込み、約8日間宇宙に滞在します。9月20日に帰還した際には「宇宙から国境線は見えなかった」とのコメントを残しました。
スペースシャトル計画から帰還後の1992年10月、宇宙開発事業団の宇宙環境利用システム本部、宇宙環境利用推進部、有人宇宙活動推進室に異動が決まります。スペースシャトル内での実験の成果を元に研究を進めていくことになりました。
最初のスペースシャトル計画に参加してから6年後の1998年、NASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を与えられることになります。この時に2000年のスペースシャトルへの搭乗が予定されることとなりました。
2000年2月にスペースシャトル・エンデバーに搭乗し、自身2度目となる宇宙飛行を行いました。この時はミッションスペシャリストとしての仕事を任せられ、SRTMと呼ばれるレーダーによる地球の地形の観測を担当したのです。
2度目の宇宙飛行から帰還後、日本へと帰国し、日本化学未来館の館長として就任します。2001年7月に開館して以後、2021年に退任(予定)するまで約20年に渡って館長を勤め上げました。日本化学未来館は最新の科学技術の紹介、科学技術者の成果の発表、庶民からの科学技術への見解を研究者へフィードバックすることを主な目標として掲げ、世の中における科学の交流を促すことを目指しています。
しんかい6500は国立研究開発法人海洋研究開発機構が所有する有人潜水調査船です。その名の通り、深度6500mまで潜水することができ、地殻を構成するプレートの鈴見込み運動やマントルなどの地球内部の動きを調査することが主な任務となっています。毛利は2003年3月13日にしんかい6500に乗り込み、南西諸島海溝の深度6500m地点まで潜り込みました。
南極の昭和基地は天体・気象・生物の観測を行う施設で、約60の施設から成ります。南極地域観測隊員は60名が選ばれ、そのうちの40人が冬の間も基地で過ごすことになっています。毛利は日本の南極観測50周年を記念してイベントを企画し、2007年1月に昭和基地を訪問しました。
2019年に日本化学未来館で「マンモス展」が開催されます。毛利は、当時来日していたブラッドピットをマンモス展に招くために、本物のマンモスの毛を見せ、興味を湧かせました。最終的には裏口を通じてマンモス展へブラッドピットを招き入れ、宣伝効果も狙うことに成功したのです。
2020年4月13日、約20年に渡って館長を勤めてきた日本化学未来館を2021年度限りで退任することを発表します。
毛利衛の年表
1948年 – 0歳「毛利衛の誕生」
北海道余市郡余市町にて誕生
毛利衛は1948年1月29日に北海道余市郡余市町で誕生します。8人兄弟の末っ子として獣医師の家庭で育ちました。幼い頃から化学実験や望遠鏡での天体観測に興味をもち、科学の道へと進むことを夢見ていました。
その一方で苦手なものはとことん嫌いで、お風呂に落ちた経験があることから水に対する恐怖心が拭えず、水泳は大の苦手でした。また、昆虫のカマキリにも苦手意識を抱いていたそうです。
1961年 – 13歳「人類初の宇宙飛行に感動し、宇宙への憧れを抱く」
ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功
1961年4月12日、ソビエト連邦の宇宙飛行士・ユーリイ・ガガーリンがボストーク1号に搭乗し、世界初の有人宇宙飛行に成功します。宇宙船ボストーク1号は地球周回軌道に入り、大気圏外を約2時間で一周し、ソ連領内の牧場へと帰還しました。この時、最初は宇宙船ごと牧場へ着陸したと伝えられていましたが、実際には高度7000mで宇宙船から飛び出し、座席ごとパラシュートで落下して帰還したのです。
この宇宙ショーを見た毛利衛は感動し、ガガーリンの発した「地球は青かった」という言葉にも感銘を受けます。ガガーリンの宇宙飛行をきっかけに毛利は宇宙への興味を深めていくのでした。
1966年 – 18歳「北海道大学理学部へ」
科学者の道を目指すことを決心し、北海道大学理学部へ
中学校、高校と地元の学校へ進学します。1963年7月20日に起こった日食(北海道は一部地域が皆既日食帯に含まれた)に感動し、それ以来科学者への道を目指すようになりました。1966年に高校卒業とともに北海道大学理学部への進学を決め、理学部化学科を専攻します。
4年間で大学課程を修了すると、そのまま2年間大学院科学専攻へと進学し、修士号を取得するのでした。
オーストラリアへの留学
大学院で修士号を取得すると、さらなる研究のために南オーストラリア州立フリンダース大学へ留学します。フリンダース大学では大学院理学研究科学専攻に所属し、研究を重ねていきます。地道な研究の成果もあり、1975年には修士号、1976年には博士号を取得することになりました。
帰国後は母校の北海道大学工学部で教鞭をとるようになり、2年後は助教授へと昇格を果たします。授業では原始工学科高真空工学講座を受け持つようになるのでした。講師として講義を行うかたわらで研究職としても従事し、「スパイクタイヤ車粉塵の精密分析」という研究も発表します。
1983年 – 35歳「日本人初の宇宙飛行士の募集」
日本人宇宙飛行士の募集が行われる
1983年の12月、日本人宇宙飛行士が宇宙開発事業団によりを募集されます。スペースシャトル計画に参加する初の日本人向けの募集で、1988年の飛行が目標とされました。毛利はこの募集に応募することになります。
最終的に500人以上の応募があり、1985年に発表された7人の最終候補者の中に毛利は選ばれることになるのでした。この最終候補者の中には向井千秋や土井隆雄など、のちの宇宙飛行士たちも選ばれました。選出された候補者は宇宙開発事業団に所属し、日本とアメリカで行われる訓練に参加することを義務付けられたのです。
チャレンジャー号の爆発事故とスペースシャトル搭乗の延期
1983年1月28日にアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げられましたが、打ち上げ後わずか73秒で空中分解し、7名の乗組員が全員亡くなるという事故が発生しました。事故の原因は固体燃料補助ロケットの一部の破損で、わずかな不具合から発射直後の高温高圧ガスにより外部燃料タンクなどの破壊をもたらし、結果としてスペースシャトル全体の爆発を招いたのです。
このチャレンジャー号の事故によりスペースシャトル計画が32ヶ月に渡って延期され、日本人初の宇宙飛行もこれに伴って延期となりました。