セックスピストルズってどんなバンド?功績や名曲、ファッションを紹介

セックス・ピストルズが影響を与えた人・バンド

カート・コバーン

アメリカのロックバンド「ニルヴァーナ」のボーカリスト兼ギタリストだったカート・コバーンは、セックス・ピストルズに影響を受けています。

「ピストルズのアルバムはおれが聴いたロックのレコードの中でも最高の出来」、「あんなに本当のオリジナルなサウンドを俺たちは作り出していない。」とも語っています。

ニルヴァーナ自体も90年代のセックス・ピストルズと呼ばれていました。ニルヴァーナの代表アルバムである「ネヴァーマインド」のアルバム名も、セックス・ピストルズの唯一のオリジナルアルバム「勝手にしやがれ!」から引用されています。

ザ・ブルー・ハーツ

ザ・ブルー・ハーツ

ザ・ブルー・ハーツのボーカルである甲本ヒロトは、中学生時代にセックス・ピストルズに衝撃を受けロックンローラーの道を歩み始めました。元々はシド・ヴィシャスの影響でベースに憧れていましたが、誰にでもできるという理由でボーカルになったと言います。

ザ・ブルー・ハーツのステージでのパフォーマンスも、どこかピストルズと似たところが感じられます。ピストルズほど破壊的ではないですが、若者たちの思いを代弁しているところなどはピストルズの精神を受け継いでいると言えるでしょう。

椎名林檎

椎名林檎

椎名林檎の楽曲には、セックス・ピストルズのベーシストだったシド・ビシャスがよく登場します。シングル「ここでキスして。」の歌詞の中に「現代のシド・ヴィシャスに手錠かけられるのは只あたしだけ」とあったり、「シドと白昼夢」の曲名にも登場しています。

シド・ビシャスの大ファンだと言う椎名林檎はシドのことを「儚い少年みたいな人」と語り、セックスピストルズは音声でよりも映像で衝撃を受けたと答えています。ライブではセックス・ピストルズの楽曲である「拝啓EMI殿」をカバーしています。

メンバーと担当楽器

ジョニー・ロットン(ボーカル)

ジョニー・ロットン

ジョニー・ロットンというのはセックス・ピストルズでの活動中に名乗っていたあだ名で、本名はジョン・ライドンといいます。

ライドンは7歳の時に髄膜炎を患い3ヶ月間も昏睡状態に陥りました。意識が戻った時には自分のことも思い出せないような状態だったと言います。母親の熱心な教育で一からやり直したライドンは、人並み以上の回復を見せました。その経験がのちのジョニー・ロットンへの道を歩み始める第一歩だったとライドンは語っています。

10代後半の時にブティック「セックス」に出入りするようになったのがきっかけでセックスピストルズに加入します。のちにベーシストとして親友のシド・ヴィシャスを迎え入れたのもライドンでした。1978年のアメリカツアーを最後に「ロックは死んだ」と宣言し脱退を表明しました。

スティーヴ・ジョーンズ (ギター)

スティーブ・ジョーンズ

セックス・ピストルズのギタリスト。ブティック「セックス」に出入りしていた頃、友人だったポール・クックと共にセックスピストルズの前身であるスワンカーズに参加しキャリアをスタートさせました。

セックス・ピストルズで活動していたころはハンカチの四隅を結び、頭にかぶるスタイルをトレードマークにしていました。

元々ジョーンズはボーカルになりたかったらしく、スワンカーズ時代にはボーカルを務めていたそうです。「ギタープレイヤーになるなんて考えちゃいなかった」とも語っています。元来持っていた夢中になると没頭してしまう性格のおかげでメキメキ腕を上げ、ローリング・ストーン誌の選ぶ「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第97位に選ばれるほどになりました。

ポール・クック(ドラム)

ポール・クック

セックス・ピストルズのパフォーマンスを安定したリズムで支えたドラマーです。ギターのスティーヴ・ジョーンズ とは親友で、セックスピストルズ解散後もザ・プロフェッショナルズというバンドを結成しています。

ザ・プロフェッショナルズ

ポール・クックは他のメンバーとは異なり生真面目でおとなしく、時間にはとても厳しい性格でした。そのためバンドの演奏がどのような状態になっても、ブレることなく正確なリズムを叩き続けることができたのでしょう。

また娘であるホリー・クックはイギリスのレゲエシンガーとして活躍しています。

グレン・マトロック (ベース)

グレン・マトロック

セックス・ピストルズ結成から1977年までと再結成以降のベーシストで、バンドの楽曲の半数以上を作曲しています。演奏技術も他のメンバーに比べて格段に高く、社会常識も持ち合わせていたためメンバーの中で少し浮いた存在でした。

結成時から音楽面で大きく貢献していましたが、1977年に「ポール・マッカートニーのファンであることが判明したため」という理由でバンドを脱退しています。プロデューサーのマクラーレンの方針としても「バンドとしては演奏がうまくない方がいい」という考えだったので、脱退は必然だったといえます。

ポール・マッカートニー

二代目ベーシストとしてシド・ヴィシャスを迎えますが、マトロックの脱退はバンドにも大きな影響を与えました。のちにスティーヴ・ジョーンズは「グレンの脱退がなければピストルズもあんなに早くは解散しなかった」と語っています。

セックス・ピストルズが1996年に再結成を果たした際には、ベーシストとしてメンバーに復帰しています。

シド・ヴィシャス(ベース)

シド・ヴィシャス

グレン・マトロック脱退後、1977年にセックス・ピストルズに加入した二代目ベーシスト。過激なパフォーマンスやバンド解散後に若くして亡くなったりと、現在でもファンが多いカリスマ性を備えた人物でした。

元々セックス・ピストルズの熱狂的なファンで、ライブなどに出入りしていました。全くベースを弾いたことがありませんでしたが、友人だったジョニー・ロットンの推薦でバンドに加入することになります。

フランク・シナトラ

ジョニー・ロットンがバンドを去ると、フランク・シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」を個人名義でレコーディングしています。しかしこの録音の時はすでに彼の体はヘロインに蝕まれておりボロボロでした。

シド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲン

1978年に恋人だったナンシー・スパンゲンが滞在先のホテルで刺殺されると、シドに容疑がかかり逮捕されてしまいます。しかしシドはその時刻、薬物により昏睡状態であったことが証明され容疑は晴れました。しかし1979年にナンシーを追って、ヘロインの過剰摂取によりこの世を去ってしまいました。

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