セックスピストルズってどんなバンド?功績や名曲、ファッションを紹介

活動履歴

1975年-バンド結成

1974年に渡米したデザイナーのマルコム・マクラーレンが大きな影響を受けたのが、ニューヨーク・パンクでした。中でもお気に入りだったのがニューヨークドールズで、マネージャーを務めるほどだったと言います。マクラーレンはニューヨークドールズの解散を機に、イギリスにパンクの精神を持ち帰りました。

ニューヨークドールズ

1971年にヴィヴィアン・ウエストウッドとともに開いていたブティックを「セックス」と改名し、パンク・ファッションのスタイルを確立していきます。店の常連だったスティーヴ・ジョーンズとポール・クックが結成していたバンドに目を付け、パンクバンドに仕立て上げ広告塔として売り出すことを考えました。

ブティック「セックス」

店員だったグレン・マトロックとオーディションで選ばれたジョニー・ロットンが加入し、1975年に「セックス・ピストルズ」という名前でライブ活動を開始しました。

1976年-シングル「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を発表

セックス・ピストルズは激しいライブパフォーマンスや過激な歌詞などのおかげで、メディアが注目し名前が知られていきました。しかしあまりにスキャンダルも多く、ライブ会場から出入り禁止になったり演奏中止運動が起こるほどでした。

激しいパフォーマンスを行うセックス・ピストルズ

そんな中、イギリスの大手レコード会社であった「EMI」と契約を結びデビュー・シングル「アナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー」をリリースします。全英チャートで最高38位を獲得し、イギリス国内で5万5千枚以上を売り上げました。

しかし宣伝のためテレビに出演した際に放送禁止用語を連発したため、「EMI」に契約を打ち切られてしまいます。その代わりにセックス・ピストルズは多額の違約金を手にしました。

1977年-シド・ヴィシャスの加入

シド・ヴィシャス加入後のセックス・ピストルズ

デビューシングルがヒットした翌年の1977年に、ベースのグレン・マトロックがバンドを脱退します。表向きには「ポール・マッカートニーのファンであることが判明したため」ということになっていますが、ボーカルのジョニー・ロットンとの折り合いが悪かったようです。

後任のベーシストとしてバンドに加入したのがシド・ヴィシャスでした。ピストルズ加入はジョニー・ロットンの推薦によるものでしたが、ふたりは不良だった少年時代からの知り合いで親友と呼べるような間柄でした。

メンバー内ではスティーヴ・ジョーンズとポール・クックの仲が良く、勢力として劣らないように親友であったシドを引き入れたと言われています。シドの加入で、ピストルズはよりスター性のあるバンドへと成長しました。

1978年-解散

初のアメリカ・ツアー

シド・ヴィシャスが加入したのち、セックス・ピストルズは唯一のオリジナル・アルバム「勝手にしやがれ!!」を発売します。当時シドはほとんどベースが演奏できなかったので、1曲を除いてギターのスティーヴ・ジョーンズ が担当していました。

翌年の1978年にはファースト・アルバムを引っ提げて初のアメリカ・ツアーを行います。しかしこの頃にはヘロインが止められなかったシドは演奏できるような状態ではなく、メンバー間の関係も最悪の状態になっていました。

その結果、ツアーのサンフランシスコ公演を最後にしてジョニー・ロットンがバンドを脱退してしまいます。そして急遽アメリカ・ツアーは中止になってしまい、セックス・ピストルズは実質上の解散に追い込まれました。

1996年-再結成

再結成したセックス・ピストルズ

1996年にセックス・ピストルズは「俺達には共通の目的ができた、それは金だ!」と、結成時のオリジナルメンバーで再結成を果たしワールド・ツアーを行いました。ツアーのうちロンドンでの公演をレコーディングしたライブ・アルバム「勝手に来やがれ」を同年7月に発売。

2006年にはロックの殿堂入りを果たします。しかし以前からロックの殿堂を皮肉っていたセックス・ピストルズは、公式サイトにロックの殿堂を罵倒する内容のメッセージを掲載しました。セレモニーへの出席も拒否して、ロックの殿堂史上初の殿堂入りを蹴ったアーティストとなりました。

ロックの殿堂

2007年には4回目の再結成を行いワールド・ツアーを開催します。翌年、日本のロックフェスである「サマー・ソニック」に出演以降、再び活動を休止しました。

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