尾崎行雄とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、演説内容も紹介】

尾崎行雄にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「衆議院名誉議員として国会に胸像が立てられる」

衆院正面玄関に建てられた胸像

尾崎は衆議院名誉議員として衆院正面玄関に胸像が建てられています。胸像が建てられたのは尾崎行雄の他に三木武夫です。名誉議員の資格は50年に渡り国会議員を務めた人達が対象になります。

2020年8月の段階で50年間議員を務めたのは6名です。尾崎行雄と三木武夫以外に有名な人物として中曽根康弘や小沢一郎が挙げられます。

近年では在職50年を越えても財政難の影響から名誉議員の称号を得る事はなく、棚上げになっています。この称号は実質的に尾崎と三木にのみ与えられています。

尾崎と三木は戦前に最年長議員と最年少議員として新聞で取り上げられる事も多く、三木は尾崎を恩師と仰ぎました。やがて三木も名誉議員となり、胸像が建てられたのは巡り合わせを感じさせられます。

都市伝説・武勇伝2「当選し続けたのは三重県での圧倒的な支持のおかげ」

三重県にある尾崎咢堂記念館
出典:伊勢市公式ホームページ

尾崎は相模国の出身ですが選挙の基盤は三重県であり、父親の縁故によるものです。長年にわたる尾崎の功績は三重県において圧倒的な支持を受けました。

三重県には親子、孫の代にわたり「尾崎行雄」としか投票用紙に記入した事がない世代が数多くいたそうです。

今の選挙と違い、黎明期の選挙は大規模な干渉が行われていました。例えば第2回総選挙では品川弥二郎による選挙干渉で25人の死者が発生。尾崎もまた長い議員人生の中、何度も刺客に襲われそうになっています。

尾崎の支持者達は地元の猪狩の鉄砲隊を組織して、選挙干渉に訪れた刺客を追い払う等、まさに命がけで尾崎を支持したのでした。

都市伝説・武勇伝3「尾崎行雄と財閥の意外な繋がりとは?」

日本橋にある三井本館

尾崎は三井財閥からの援助で欧米視察に出かけ、財閥の意見を反映させたという噂はご存知ですか?尾崎は生涯に5回も海外に視察に出かけています。欧米視察は当時だと数億円程で、費用は政府が出したものではありません。

尾崎の伝記では2回目、4回目、5回目の視察にスポンサーがいた事が分かりますが、1回目と3回目のスポンサーは不自然な程に隠されています。特に3回目の視察は尾崎が第一次世界大戦後に平和主義者になった重要な視察です。

日本は大戦後に軍備拡張を掲げますが、財閥達は財政面から新たな軍艦建造に反対。三井財閥は尾崎の視察に金銭面で協力し、自分達の意見を反映する目的があったのです。尾崎は国民の支持も高かったからですね。

尾崎の伝記には僅かながら財閥の関係性を見る事が出来ます。尾崎は「清廉潔白な憲政の神様」と言う自らのイメージを損なわない為、財閥からの支援を受けた事を生涯秘密にしたのかもしれません。

尾崎行雄の簡単年表

1858年 – 0歳
尾崎行雄誕生

1858年に相模国又野村で誕生。尾崎の先祖は今川義元の家臣であり、武田信玄に攻められて没落します。一族は後に又野に移り、里長を務めるようになりました。

1874年 – 16歳
慶應義塾に入る

維新後は父の士官に伴い上京します。群馬県や三重県等に移り住みましたが、1874年に弟と再度上京。慶應義塾では十二級の最下級から最上級生になるものの、1年半で退学します。

1882年 – 24歳
国会開設運動に参加

1881年に統計院権少書記官になるものの、明治14年の政変で大隈重信と共に下野。立憲改進党の立ち上げに参加します。1887年に後藤象二郎と大同団結運動を進めるも、保安条例により東京から退去させられます。

1890年 – 32歳
第一回総選挙で当選

第一回総選挙では父の住んでいた三重県から出馬し、見事当選しました。その後は権力に屈する事なく、国民の自由と民権の為に戦います。

1898年 – 40歳
第一次大隈内閣の文部大臣となる

日本初の政党内閣である第一次大隈内閣では文部大臣に就任しますが、党内の争いは絶えず僅か4ヶ月で退陣。伊藤博文の立ち上げた立憲政友会に所属した他、東京市長として市政に関与しました。

1913年 – 55歳
憲政の神様と呼ばれる

第三次桂太郎内閣に対し、桂太郎弾劾演説を行います。立憲同志会の犬養毅と共に第一次護憲運動を主導し、憲政の神様と呼ばれます。
その後は自党の利益を優先する政友会の方針に反発し、様々な政党を渡り歩きました。

1919年 – 61歳
平和主義の先頭に立つ

1919年に第一次世界大戦後の世界を見に行く為、ヨーロッパへ視察。戦争の悲惨な現状を知り、平和主義・国際主義の先頭に立ちます。普通選挙運動の先頭に立つ、軍縮を説いて全国の遊説を行う等の活動をします。

1931年 – 73歳
軍国化の波に抵抗し、政界から孤立する

満州事変、五・一五事件、二・二六事件等、日本が軍国化していく中で、決死の覚悟で軍部批判を行いました。翼賛選挙にも非推薦で当選する等、地元での支持はまだまだ健在でした。

1945年 – 86歳
終戦を迎える

終戦後は「世界連邦建設に関する決議案」の提出や新たな憲法の草案等を行っています。1953年にとうとう落選し政界から引退します。

1954年 – 95歳
直腸癌と老衰にて死去

政界から引退した翌年、直腸癌と老衰にて死去しました。

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