尾崎行雄の年表
1858年 – 0歳「尾崎行雄誕生」
没落していた尾崎家
尾崎行雄は1858年12月24日に尾崎行正と貞子の長男として生まれます。父行正は自宅で寺子屋を開いていたものの1861年に自宅は火事で焼失。尾崎家は母貞子の養蚕や織物で生計を立てていました。
尾崎行雄は父から素読や文字を教わり、母から基本的な教育を受けて育ちます。1868年の戊辰戦争で行正は迅衝隊総督の板垣退助に馳せ参じ、隊長・美正貫一郎の率いる断金隊に加わり会津戦争を戦い抜きました。
1874年 – 16歳「慶應義塾に入学」
家族で上京する
行正は維新後に政府の役人となります。家族で上京し、尾崎は平田篤胤の養子が開いていた平田塾で学びます。その後も1871年に高崎、1872年に度会県山田(三重県伊勢市)などへ移り、様々な学問を学びました。
慶應義塾に1年半だけ学ぶ
1874年に板垣退助や後藤象二郎らが明治政府に「民選議院設立建白書」を提出。行正は熊本への転勤が決まっていたものの、尾崎は民権運動に心を揺さぶられます。尾崎と弟は熊本には行かず、上京する事になりました。
1874年に「日本一の学校」と呼ばれていた慶應義塾童児局に入学すると、尾崎は頭角を現しました。塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下級からあっという間に最上級生となります。
ただ慶應義塾は役人になる為の勉強が多く、実学を求めた尾崎は1年半で退学します。その後は工部大学校(現・東京大学工学部)に入学し染物屋になる勉強をしますが、理系は苦手ですぐに退学しました。
1881年 – 23歳「統計院に入るも明治14年の政変で下野する」
新潟新聞の主筆となる
その後は慶應義塾に戻り学術雑誌である民間雑誌の刊行や、三田演説館の演壇に立つ等して活動。1879年には福沢諭吉の推薦で新潟新聞の編集長になりました。
明治14年の政変により下野する
1881年に尾崎は慶應義塾出身の矢野文雄の推薦で統計院権少書記官に就任します。これは肥前藩出身で統計院院長だった大隈重信の意向がありました。政府は薩摩長州出身者が藩閥を形成し、大隈は不利な立場にいたのです。
大隈は「早期の国会開設」と「議院内閣制を重視するイギリス流の憲法作成」を主張していましたが、長州出身の伊藤博文は「段階を踏んだ国会開設」と「君主の権限が強いドイツを模範にした憲法制定」を考えていました。
大隈は自身と関わりの深い慶應義塾出身者を統計院に送り、派閥を形成します。しかし1882年8月に大隈は明治14年の政変で政府から追放されます。尾崎や矢野、犬養毅等の慶應義塾関係者も政府から下野したのです。
1882年 – 24歳「立憲改進党の立ち上げに参加する」
立憲改進党の立ち上げ
明治14年の政変では10年以内に国会を開設するという「国会開設の詔」も出されました。自由民権家達は国会開設に向けて、様々な政党を立ち上げました。大隈は1882年に立憲改進党を立ち上げ、尾崎も参加します。
尾崎は東京府会の最年少議員になった他、犬養と共に各地を遊説して回りました。国会開設運動は全国で大きな盛り上がりを見せる中、政府は新聞紙条例や集会条例を改悪します。結果的に運動は下火になりました。
東京から退去を命じられる
1887年に政府の条約改正案に対して反対運動が起こり、国会開設運動が再熱。尾崎は後藤象二郎と共に、自由民権運動各派による統一運動である大同団結運動を推し進めます。
尾崎は運動の急先鋒となり、クーデターを考えます。しかし1887年には保安条例により尾崎は東京から退去を命じられ計画は頓挫。尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と述べ、自らの号を学堂から愕堂に変えています。
1890年 – 32歳「第一回総選挙にて当選する」
三重県から出馬する
1889年2月に政府は大日本帝国憲法を発布し、尾崎達は特赦により退去命令を解かれました。1890年には第一回総選挙が行われます。尾崎は父が当時住んでいた三重県から立候補し、圧倒的大差で当選しました。
弁論で藩閥に立ち向かう
尾崎は議会を通して時の第一次松方正義内閣や第二次伊藤博文内閣で弁論を交わします。批判は的を得ており、伊藤博文が顔色を変える程でした。
ただ内閣の政策全てに反対していたわけではありません。1894年の日清戦争では尾崎達民権派も対立する事なく、政府に協力しています。ただ三国干渉に日本が屈すると、強硬派の先頭に立ち演説をしています。
第二次松方正義内閣の外務省参事官となる
1896年に第二次松方正義内閣が発足した時、尾崎は進歩党に属していました。この内閣では大隈を始め、尾崎も内閣に入党しています。新聞紙条例を改正し、言論統制の一部緩和を達成する等、政党の意向が反映されました。
1898年 – 40歳「第一次大隈内閣の文部大臣となる」
憲政党の結成
1898年に進歩党と、板垣退助の自由党は合同して憲政党となります。過半数を超えた議席を背景に大隈が総理大臣、板垣が内務大臣である第一次大隈内閣が発足。日本で初めての政党内閣であり、尾崎は文部大臣となりました。
憲政党は異なる党派が合同した為、内閣発足直後から内輪揉めが起こります。尾崎は「尾崎行雄はどんな演説を行った?第一次護憲運動や共和演説事件」で述べた共和演説が問題となり大臣を辞任。間も無く内閣自体が消滅しました。
立憲政友会に所属する
憲政党は旧自由党派の憲政党と、旧進歩党による憲政本党に分裂。尾崎は憲政本党の最高幹部に所属していましたが、1900年に伊藤が立憲政友会を立ち上げると、尾崎はそちらに合流しました。
尾崎は政友会の中核を担うものの、伊藤と対立して離反。その後は様々な政党を立ち上げたり、政友会に戻る等しています。この点は憲政本党に残った犬養とは対照的でした。
1903年 – 45歳「東京市長に就任」
東京市長に就任
1903年、政友会を離党し精神的に参っていた尾崎に東京市長の打診がありました。功績は「東京市長となり、アメリカとの架け橋となる」に書かれている通りです。
当時の東京市政は不正や汚職にまみれていました。尾崎は市会議員、市職員が不正をしないよう目を光らせていた為、尾崎が就任していた1912年までの10年間は疑獄事件はなかったそうです。
1913年 – 55歳「憲政の神様と呼ばれる」
第一次護憲運動
1912年に尾崎は東京市長を辞任。長く市政に関わり区切りをつけたからでした。その頃国会では桂太郎が立憲政治の精神を無視した行動が行われおり、尾崎の登場を待ち望んでいたのです。
尾崎は先ほど紹介した通り、犬養と第一次護憲運動を起こします。尾崎は桂太郎内閣弾劾演説を行い、大正政変のきっかけを作りました。
ジーメンス事件に対しても演説を行う
桂太郎が退陣した後は、海軍軍人の山本権兵衛が総理大臣に任命されます。尾崎はジーメンス事件(海軍高官による汚職事件)に対しても山本内閣弾劾演説を行い、内閣を総辞職に追い込んでいます。
第二次大隈内閣の司法大臣となる
山本内閣には多数の政友会の党員が入党しますが、尾崎は自党の利益を優先する風潮に反対して政友会を離党します。1914年の第二次大隈内閣発足時、尾崎は中正会に所属しており、党を代表して司法大臣に就任しました。